この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

龍馬が「脱藩」を決意する引き金となった出来事とは…
萩は、坂本龍馬「立志の地」【目次】
坂本龍馬と萩
坂本龍馬が初めて長州藩の城下町・萩を訪れたのは、1862年(文久2年)の1月。28歳の時だった。
土佐勤王党の党首・武市半平太の使いとして、久坂玄瑞に親書を届けにやってきたのだが、そこで龍馬は久坂を通じて、吉田松陰が唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」の思想を知る。
ちなみに吉田松蔭は、3年前の1859年(安政6年)に「安政の大獄」で斬刑となっており、既にこの世にはいなかった。
草莽崛起とは…
草莽は「一市民」とか「在野の民衆」、崛起は「立ち上がれ」という意味。
久坂玄瑞が武市への返事として、坂本龍馬に託した有名な書簡の中でも、以下の表現で用いられている。
竟(つい)に諸侯(諸大名)恃(たの)むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外には迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申し含みおり候事にござ候
現代文にすると
もはや今の権力者たちでは本当の改革は出来ない。「身分を問わず志の高い者が立ち上がり、新しい時代を築く以外に方策はない」との考えで、我々は結束している…
血気盛んな萩に9日間滞在した後、土佐藩に戻った龍馬は、その後ふた月足らずで故郷を後にする。
萩での経験は、まさに龍馬が「脱藩」を決意する引き金になったといえそうだ。
薩長土連合密議
久坂の日記には、「土州坂本龍馬、武市書翰を携え来訪」との記録がある。
その夜、龍馬が宿泊したのは鈴木勘蔵宅だが、薩摩藩士の田上藤七も久坂に用があって宿泊していた。
現在、鈴木勘蔵宅跡は松陰神社駐車場の一部になっているが、そこに立つ「薩長土連合密議之處(さっちょうどれんごうみつぎのところ)」の碑には、久坂・田上と並び龍馬の名前が刻まれている。
久坂玄瑞
久坂玄瑞(くさかげんずい)は藩医の家に生まれたが、時世に強い関心を抱き、松下村塾の塾生となる。
そこで師である吉田松陰から、「防長年少中第一流」と絶賛された秀才だ。
安政の大獄で松陰を失って以降、久坂は師の「志」を継ごうと、尊王攘夷運動に奔走するが、京都で勃発した蛤御門の変の直後、若くして無念の死を遂げた。
享年25歳。
長州史に名を残す志士として、「道の駅 萩往還」の敷地内にある松陰記念館前に、師を挟むように盟友、高杉晋作と並んだ銅像が建てられている。
ちなみに、久坂は2015年に放送されたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロイン・文(吉田松陰の実妹)の最初の夫だ。
東出昌大が演じていたのを覚えている人も多いのでは。
明倫館に残るエピソード
1月15日の久坂の日記には、「午後文武修行館へ遣はす」とある。
龍馬が移った「文武修行館」は、長州藩が幕末に設けた他国者のための無料宿泊施設で、現在の萩裁判所の西側にあった。
そのすぐ近くには、「西日本一」の教育施設と称えられていた藩校明倫館があり、宿泊者はここで学問を講じたり、武道の試合を行っていた。
龍馬はここで久坂ら松下村塾生とワラ束を斬ったり、少年剣士と試合をしたという。
このように、萩における坂本龍馬の足跡は僅かしかない。
しかし、龍馬と深く関わった桂小五郎や高杉晋作などの長州藩士は、この町で生まれ育っており、その長州のルーツを知ることは、龍馬が駆け抜けた幕末を理解する上では、不可欠といえるだろう。
日本全国 坂本龍馬ゆかりの地を辿る旅
萩 車中泊旅行ガイド


車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門

この記事がよく読まれています。




