えっ、淀城って2つあったの?

淀城 西郷どん
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
テーマはディスカヴァー・ジャパン 「日本クルマ旅先100選」
クルマ旅専門家・稲垣朝則がセレクトした、国内で車中泊クルマ旅にお勧めの「ベスト100エリア」をご紹介。
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淀君が鶴松を生んだのは、淀古城

淀城跡

予習は旅を面白くする…

と事あるたびに書いてきた筆者が、伏見まで来て「思いつき」で訪ねたのが淀城だった。もちろん頭の中に浮かんでいたのは「淀君の淀城」である。

だが、この説明板にはまったく違う話が書かれていた。

淀城跡公園

実は現在見られる淀城本丸の石垣や内堀は、豊臣が滅んだ後に徳川によって築かれた淀城の遺構で、徳川伏見城(木幡山伏見城)の代わりとして造られたものだという。西国に睨みを利かすために築城されたこともあり、江戸時代には久松松平家、戸田氏、稲葉氏などの譜代大名が居城した。

ちなみに淀城の天守は、秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が築いた、大和郡山城の天守を移築したものだったとされているが、1624年(寛永元年)に家康が二条城の天守にするため、再度移築される。

しかし家光が二条城の改修を行なった際に不要となり、再び淀城天守として戻された。だが最後は、1756年(宝暦6年)の落雷で焼失してしまう。

それにしても、3度も移築できる技術が重機のない当時にあったというのは驚きだね!

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さて。これで話が終わってしまっては意味がない(笑)。

お目当ての、秀吉が側室茶々の産所として築かせた淀城はどこにあるんだ?

スマホナビ

答えは1.2分で、Google先生が教えてくれた。

今は「淀古城」と呼ばれる豊臣時代の淀城は、ご承知の通り、茶々が鶴松を出産した城で、それ以降、茶々は「淀君」と呼ばれることになる。

ただ、淀古城は秀吉の伏見城(指月伏見城)の築城で廃城となった。もちろん淀古城のパーツは指月伏見城に転用されたと推測されるが、その巨大な名城は慶長伏見地震によって無残にも倒壊する。

妙教寺

江戸時代になり、淀古城の跡地には妙教寺が建てられた。

そのため淀古城の遺構はことごとく消滅し、今は妙教寺境内にある石碑を見るしかない。

淀古城

妙教寺は淀城から北へ徒歩600m(約8分)。

音声入力

それにしても今はいい時代だ。「三丁目の夕日世代」は手で入力するより、しゃべるほうがずっと楽(笑)。

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さて、ここから話は幕末に飛ぶ。

淀城には、戊辰戦争に少なからずの影響を及ぼしたエピソードが残されている。

ガイドブックには、妙教寺の本堂が戊辰戦争で幕府側の大砲を被弾し、本堂東側の壁をつきやぶり、本堂内の柱も貫いた跡があるとよく記されている。

だがよく考えてみると、淀城を守る「淀藩」は幕府の味方で、砲弾を打ち込まれるはずがない。

この話のツボはここにある。

実は幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、退却して淀城に籠もろうとするが、なんと入城を拒絶される。その結果、拠点を失った幕府軍は淀の城下町や橋に火を放って、大坂城へ逃げ帰るしかなくなり、幕府軍の敗北は決定的となった。

この話は「西郷どん」でも取り上げられていたので、ご存知の人も多いと思う。

冒頭にも書いたが、淀城は西国に睨みを利かすために築城された城だが、皮肉にも最後は官軍の勝利に一役買うことになった。

真の淀城の面白みは、新選組も絡むこのあたりにありそうだ。

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