あるようで実はない? 本物の伏見城跡

伏見桃山城 お城
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
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地震で倒壊、戦で炎上、最後は廃城。そして今あるのはイミテーション

関ヶ原の合戦を挟んで、豊臣から徳川へと政権が移動した時代には、面白いことが起きている。

大坂城

その際たる例は大坂城だろう。

実は現在の大坂城は、豊臣ではなく徳川が築城した場所に建て直されたもの。家康の後を継いだ秀忠は、豊臣の居城が大坂の陣で焼け落ちた後、西国の抑えとして改めて大坂城を建て直している。

経緯に多少の違いがあるとはいえ、実は伏見でも同じようなことが起きていた。

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結論から云うと、「伏見城」は豊臣秀吉により2度、そして徳川家康に1度、都合3度築城されている。

秀吉が最初に築いたのは、指月伏見城

最初の築城は1594(文禄3)年。

天下人となった秀吉は、関白の位を甥の秀次に譲り、京都の聚楽第(じゅらくてい)を出ると、新たな住まいの建築に乗り出した。

その場所が、平安時代から月の名所であった指月(しづき)だ。

当初は余生を送るための屋敷を建てる予定だったが、拾丸(後の豊臣秀頼)の誕生と、朝鮮出兵の講和交渉に明の使節団が来日することになったため、秀吉は日本の力を見せつけるべく、大坂城に匹敵するほどの本格的な政治・軍事施設となる伏見城への改築を決意する。

しかし、鳴り物入りで完成した「指月伏見城」は「慶長伏見地震」で被災する。

当時の京都は地震が頻発しており、秀吉も地震対策に力を入れていたようだが、「慶長伏見地震」は予想を上回る規模で、天守の上二層が倒壊する大きな損害を受けたという

500名を超える死亡者が出たにもかかわらず、幸いにも秀吉は無事で、夜が明けてから北東約1キロのところにある木幡山(こはたやま)に避難した。

そしてそこが、新たな伏見城の地となる。

指月伏見城跡

こちらは、今我々が目にすることができる「指月伏見城」の遺構。

地震で倒壊したまま使われなくなり、そのまま埋められてしまったため、ごく最近まで詳細な場所すらわからなかったが、2015年に伏見区桃山町のマンション建設現場から、指月伏見城のものと思われる石垣や金箔瓦片などが出土した。

とはいえ、本格的な発掘調査は近年始まったばかりで、「幻の巨城」の全容が明らかになるのは、もう少し先になるようだ。

京都新聞の参考ページ

指月伏見城

秀吉がこの写真を見たら、さぞ興味を示したに違いない(笑)。

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秀吉臨終の地。木幡山伏見城

さて。木幡山伏見城は、驚くべきスピードで築城されたようだ。

木俣山

記録によれば「慶長伏見地震」が起きたのは7月、木幡山伏見城の本丸が完成したのは同年の10月だ。

異常ともいえるその早さからは、秀吉は地震の前から木幡山に城を移す計画を描いていたのではないかという憶測も聞こえてくる。確かに「指月伏見城」は、守りにおいては完璧と言い難かった。

それから4年を経た、1598年(慶長3年)8月… 幼い秀頼のことを案じつつ、秀吉は真新しい木幡山伏見城で息を引き取った。

露

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

その有名な辞世の句は、上手いがゆえに悲しく切ない。

秀吉亡き後、秀頼は遺言に従い大坂城に入った。同時に、伏見城の築城と共に聚楽第から伏見へ移り住んできた家臣も大坂へ移り、伏見の城下町は「もぬけの殻」になる。

徳川家康

その後釜にちゃっかり納まったのが徳川家康だ。

京都・大阪に睨みを効かすうえで、まさに「このうえない立地」にある伏見城を、一滴の血も流さず速やかに手中に収めるあたりは、さすがに老獪というか抜け目がない。

そしてここから「関ヶ原の合戦」へと、時は加速しながら流れていく。

1600年、その前哨戦とも呼べる「伏見城の戦い」が勃発。

家康が会津征伐へ出陣した留守を突いて、小早川秀秋・島津義弘ら豊臣方の武将が、総勢4万の兵を率いて伏見城を攻撃。家康の牙城は炎上、そして落城する。

ただそれは、家康には「計算通り」のシナリオだったに違いない。

元手ゼロ円で手に入れた城を餌に、まんまと石田三成を釣り上げてしまうのだから恐れ入る(笑)。

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家康が会心の腹技を決めた、徳川木幡山伏見城

天下分け目を制した家康は、再び伏見に帰ってきた。

そして同じ場所に、徳川の木幡山伏見城を再建する。

そこでは朝鮮使節団との会見や、自身のみならず息子の秀忠、さらに孫の家光まで、三代続けて征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けており、家康が伏見城を重要視していたことが伺える。

しかし1615年(慶長20年)、その伏見城に「廃城」の命がくだる。

実は同年に、幕府は「一国一城令」を発令している。

発令したのは二代将軍秀忠だが、発案者は家康だったようだ。

この頃にはもう京都に二条城が完成しており、家康は重要視していたことを十二分に家臣に見せしめ終えた伏見城を、あえて廃城にすることで、「例外」を許さない強い態度を示したわけだ。

それにしても、やることなすこと全てにソツがない。まるでカルロス・ゴーンのような親父である(笑)。

桃山

廃城後、一帯は開墾されて桃の木が植えられ、それが「桃山」という地名の由来になった。

これは意図したことではなかったと思うが、その結果、後世になって「安土桃山時代」という言葉が生まれた。

もちろん「安土」は信長、「桃山」は秀吉を偲ぶ言葉だが、それは家康があれほど懇願されたにも関わらず、結果として自身の手で歴史から豊臣の名を葬り去ることになってしまった顛末対する、秀吉へのいい弔いになったのではないだろうか。

秀頼は何より側近に恵まれなかった。淀君を遠ざけてくれる強い意思を持つ家臣がいれば、その人生を全うできたかもしれない。

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さて。こちらが現在の木俣山伏見城の跡である。

なんと、そこには明治天皇が眠る「伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)」が造営されていた。

廃城後の木俣山伏見城は奉行所の管理となり、幕末まで立ち入り禁止となっていたが、明治維新後、京都に墓所をと望まれた天皇の遺言に従い、伏見城の本丸跡に1辺およそ60メートル、高さ6メートルにも及ぶ明治天皇陵が築かれた。

古墳時代ではあるまいし、いまさら誰に天皇の権威を見せつける必要があったのだろう。ちょっと不可解な話である。

伏見桃山陵 駐車場

その「伏見桃山陵」には無料の駐車場がある。

伏見桃山陵

ただし御陵を見るにはこの230段を登り切るか、迂回して延々と坂道を歩くしかない。

もともと立ち入り禁止の伏見城跡だが、天皇陵が設けられたことで宮内庁の管理下となり、ますます全容を知ることは難しくなった。

ゆえに行っても、ほとんど城だった当時の面影は感じられない。

ただ廃城後、伏見城の建材の多くは他の史跡に移築されたことが分かっている。

天守は二条城へ、本丸御殿は大坂城の仮御殿になったというが、それはいずれも既にこの世にはない。

福山城の伏見櫓

写真は、現存する福山城の伏見櫓。

福山城築城にあたり、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられたものだが、江戸幕府の西国鎮衛の使命を持つ福山城には、他にも城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀、土塀など、多くの建物が転用されている。

江戸城の伏見櫓

なお江戸城の伏見櫓は、名前だけで建材は使用されていないようだ。

さすがにダンプがない当時、京都から江戸まで資材が運ばれたとは考えにくいのだが、どういうわけか福山には運べている… Why?

さすがにそこまでは調べることができなかった(笑)。

伏見桃山城はイミテーション

伏見桃山城

さて、ようやくこの記事を締める時が来た(笑)。

この双頭の天守は、これまで紹介してきた3つの伏見城とは異質のもので、武将ではなく「近鉄」が建てた、いわばイミテーション。色から判断すると、右が秀吉、左が家康の木俣山伏見城なのだろう。

史跡としての裏付けがないため「城」としての評価は低いが、別の意味ではお勧めできる。詳しいことは以下の記事にまとめてある。

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ニコン一眼レフ

最後に。

福山城も江戸城も含めて、使用している写真はすべて自前だ。

10年以上かけて現地まで出向き、自ら撮影してきた。それが実現できたのは、ひとえに「車中泊」のおかげだと思う。

相当詳しい話を載せたので、筆者をお城マニアと思った人がいるかもしれないが、本業はクルマ旅の専門家で、車中泊&クルマ旅で日本各地を旅したい中高年世代に向けて、「ならでは」といえるオリジナル旅行ガイドを発信している。

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