宇治・平等院 その知られざる真実と大人の見方

平等院 史跡
「正真正銘のプロ」がお届けする車中泊旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
テーマはディスカヴァー・ジャパン 「日本クルマ旅先100選」
クルマ旅専門家・稲垣朝則がセレクトした、国内で車中泊クルマ旅にお勧めの「ベスト100エリア」をご紹介。
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平等院には、表と裏がある。

こう書くと「なんだ10円玉の話かよ~」っと思う人がいるかもしれないが、そのレベルの話をするために、何時間もかけるほど筆者は暇じゃない(笑)。

とはいえ、期待に答えてひとつだけ…

10円玉 平等院

実はこの「鳳凰堂」の描かれている面が、10円玉の表であることをご存知だろうか?

ウィキペディアによると、造幣局では便宜上、平等院鳳凰堂が書かれている面を「表」、年号の記された面を「裏」としている。

ただ明治時代の硬貨と異なり、現在は法律上、十円硬貨に表裏の規定はないらしい(笑)。

ちなみに10円玉に「鳳凰堂」が刻まれたのは1951年(昭和26年)。半世紀以上にわたって日本人に親しまれてきた青銅貨幣が、押し寄せるキャッシュレスの波に、かき消されてしまうのは時間の問題だと思う。

1000年も前に建てられた本物の鳳凰堂が、世界遺産として未来永劫残るのに、なんかどっか寂しいなぁ(笑)。

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さて、本題に進もう。

平等院鳳凰堂

「平等院」でググってみると、なんと約 96,500,000 件ものウェブサイトがヒットする。このページも数日後にはその中に加わるわけだが、正直云って、よくもこれだけ「代わり映えのしないページ」があるものだと感心する(笑)。

情報源が同じであることが丸わかりというか、たいして考えて作ってないと云うか… ひどいものは写真も全部無料の借り物。せめて現地に足くらいは運んだらどうなんだ。

今は国民総カメラマン・総ライターの時代… それで通用すると思ったら、大間違いだと筆者は思う。

なんてことをぼやいていたら、ビビっ!とくるサイトが見つかった。

というか驚いた!

なぜなら、小学6年生に向けての説明がいちばん的確で分かりやすかったからだ。書き手が素晴らしいのか、筆者が小6レベルなのかは、とりあえず中身をご覧いただき、判断を仰ごう(笑)。

出典:学研教育情報資料センター
小/社会/6年/日本の歴史/平安時代/理解シート
※大人向けに表記を編集
原本はこちら

平等院鳳凰堂は、なぜつくられたの?

浄土教の信仰にもとづき、極楽浄土や阿弥陀如来が目で見られるところとして造影された

1052年、関白の藤原頼通(ふじわらのよりみち) は、父の道長から受けついだ宇治の別荘をお寺に変え、平等院と名づけた。

翌年には、阿弥陀如来像を置く阿弥陀堂が完成。この阿弥陀堂は伝説上の鳳凰(ほうおう)という鳥が羽を広げたような形をしており、江戸時代の初め頃から、鳳凰堂と呼ばれるようになった。

平等院

おお~!確かにそう見える(笑)。

末法思想と浄土教が広まった時代

この頃は、釈迦が死んでから2000年後は仏法(釈迦の教え)が衰えて、世の中が乱れる「末法の時代」が始まるという考え(末法思想)が広まっていた。

その末法は1052年から始まるとされ、人々の間に不安が高まっていた。

そんな時に源信という僧が「往生要集 」を書き、この汚れた世に生きている自分たちは、恐ろしい地獄に落ちる運命にあるが、浄土教の修行をすれば、西方の極楽浄土で往生 (生まれ変わること)できると説き、その修行として、ひたすら念仏を唱えることと、極楽浄土の様子や阿弥陀如来の姿を心に描くこと(観相)を勧めた。

浄土教は貴族の間に広がり、極楽浄土や阿弥陀如来の姿を目で見て、心に描きやすくするような建物・絵・彫刻などが盛んにつくられた。

病気で苦しんでいた藤原道長も、自宅の東隣に無量寿院という阿弥陀堂を建て、さらに金堂などの華やかな建物を建てて、極楽浄土のような法成寺を建立する。

息子の頼通も道長と同じように極楽浄土での往生を願い、鳳凰堂を建てた。

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この文面には、平等院建立のバックボーンである「浄土教」と「末法思想」が丁寧に示されており、付け足すとしたら「浄土教」と「浄土宗」の違いと、鳳凰堂の中にある「極楽浄土の様子や阿弥陀如来の姿」くらいだと思う。

浄土教と浄土宗の違い

浄土教は、極楽で正しい教えを学んで成仏することをゴールにしているが、浄土宗は極楽に行くことがゴール。

また浄土教は「考え方」で、最澄の天台宗や空海の真言宗の教えを受け入れるが、浄土宗はそれらとは異なる教えを唱える法然の「宗派」。ただ法然は1133年生まれなので、平等院ができた頃はまだこの世にいない。

平等院

2014年の改修で創建時の鮮やかな色彩が蘇った鳳凰堂は、別途300円の拝観料を徴収される。

しかし本尊の阿弥陀如来坐像と、中堂内の飾りの全てが国宝に指定されているだけに、鶴瓶師匠でなくても「見ないという選択肢」はあるまい(笑)。

なお、鳳凰堂内は撮影禁止。なので国宝はオフィシャルサイトでご覧あれ。

平等院鳳凰堂の中の様子

平等院の藤

ちなみに平等院は藤の名所としても有名だ。

樹齢約280年とも云われる壮大な藤の花の見頃は、4月下旬から5月上旬。都合が合うならこの時期を狙って行くのがお勧めだ。筆者が訪ねた時は、まだ少し早かった。

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さて。ここまでが平等院の「表」のお話。しかしこれだけで「平等院の説明は十分」とはいえない、無形の事実がそこにはある。

そしてそれは、藤原頼通の人生を追わないかぎり、見えてはこない。

なぜ頼通は、かくも豪奢な平等院を建てたのか、いや建てなければならなかったのか?

ウェキペディアには、そのヒントが記されていた。

藤原頼通は、藤原家の摂関政治を終わらせた男

京都御所

藤原頼通は26歳の時に父の道長から摂政職を譲られ、後一条天皇の摂政として権力を継承する。だが子供と運に恵まれず、あれこれ画策しながら藤原家の「摂関政治」の継承を図ろうとあがいた。

「天皇に嫁いだ自分の娘が皇子を生み、その子が天皇になること」は、摂関政治で権力を握る絶対的な条件だ。

しかし170年続いたその系譜は頼通で途絶え、藤原氏にしがらみのない後三条天皇がついに即位。

これまで藤原家に牛耳られてきた天皇家は、ここぞとばかりに政治の実権を取り戻そうと動き出し、そのバトンは策士・白河天皇へと渡る…

平等院

頼通が父・道長の別荘を寺院に改めたのは1052年。

時代考証すると、その頃にはもう自らの手による藤原摂関政治の継続がほぼ不可能という、暗い未来が頼通には見えていたはずだ。

そこには、どこにもぶつけようのない怒りや悲しみ、そして虚しさもあったと思う。ゆえに、人並み以上に来世での救いを強く望んだとしても不思議ではない。

また同時に、頼通は残り僅かな藤原家の威光を後世に伝えるべく、平等院の建立に持てる財を惜しみなくつぎ込んだのかもしれない。

そのくらいの意地がなければ、政治のトップは務まるまい。

その後1067年に弟の教通に関白を譲った頼通は、1072年に出家し、2年後の1074年に病気でこの世を去る。

白河院による「院政」が始まるのは、それから12年後だ。

それにしても… 平等院の建立が白河院の院政へと通じていくのだから、歴史というのは面白い。そして自由奔放なクルマ旅は、その流れを追っていける。

平等院
☎077-421-2861
大人600円
※鳳凰堂の内部拝観は別途300円
拝観時間 庭園8:30~17:30(受付~17:15)、
鳳翔館9:00~17:00(受付~16:45)、
鳳凰堂内部9:30~16:10(受付9:00から、20分交代の入替制)

専用駐車場なし 周辺にコインパーキングあり

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