古事記の綻びが分かる、須我神社とスサノオの関係

須我神社 島根県の史跡
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
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「祭神のすり替え」は、古事記の常道手段

須我神社

「ヤマタノオロチ伝説のパワー・スポット」の中で、もっともメジャーで如何にもそれらしい場所が、この「須我神社」だ。

「須我神社」の公式サイトにある「由緒」のページには、以下のように記されている。


簸の川上に於いて八岐遠呂智(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り「吾が御心清々し」とおっしやつて宮造りをなさった。そのとき美しい雲の立ち昇るのを見て、

「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」

と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮まりました。これが古事記・日本書紀に記載されている「須賀宮(すがのみや)」であり、日本初之宮(にほんはつのみや)であります。 三十一文字の歌も日本で一番古い歌であり、この地が「和歌発祥の社」と呼ばれる由縁でもあります。また、この歌の中の「出雲」が出雲の国名の起元であり、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞であります。

須我神社 オフィシャルサイト

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どのガイドブックを見ても、概ね同じことが書かれている(笑)。

八重垣神社

ゆえにこのサイトには、「八重垣神社」みたいなパワースポットらしい現象でも紹介してあるのかと思って、探し当てて訪ねてくれた方には申し訳ないが、ここでの「不思議」はそういうことじゃない(笑)。

夫婦岩

出典:うんなん旅ネット

須我神社の背後の八雲山に残る、通称「夫婦岩」と呼ばれる巨石と小祠(しょうし)は、須我神社の「奥宮」あるいは「奥の院」と伝えられている。

専門家によると、この巨石は磐座(いわくら)【古神道における信仰の対象となる岩そのもの】として祀られ、古くから須賀の地を治める部族の氏神として自然崇拝されてきたものだという。

スサノオがその部族のリーダーだったとすれば、話は丸く収まる。

だが、古事記には矛盾がある。

なぜならスサノオは「高天原」からこの地に降り立ち、すぐに「ヤマタノオロチ」を退治している。

それから新たに神社を建てたとしたなら、神社のない時代に使われた祭祀場の「奥宮」は、普通この世に存在しない。

ゆえに歴史学者の中には、「出雲国風土記」の大原郡海潮(うしお)郷の条に登場する、宇能治比古命(うのじひこのみこと)、あるいは須義禰命(すがねのみこと)のどちらかが、元々のこの地方の氏神で、後世にヤマタノオロチ伝説の影響により、スサノオとクシナダヒメに置き換えられたと推察する人もいる。

そうでなければ、スサノオが先住民からこの地を奪い、新たに支配者として君臨したことになる…

須我神社

実は「須我神社」には、天文年間(1532年 – 1554年)、この地に地頭として信濃国諏訪から赴任した中沢豊前守が、信仰していた諏訪大社の武御名方命を勧請して須我神社に合祀している。

以降、長らくの間「諏訪大明神」と称され、一帯の地名も「諏訪村」とされていたが、明治22年(1889年)に地名・社名ともに「須我」になったという明らかな履歴がある。

オオクニヌシの息子が諏訪にゆかりがあることから無関係でもないのだが、それにしても途中で地頭クラスに別の神様を合祀されるというのは、天照大御神様の弟君一家を祀る宮にしては、扱いが軽いとは思わないか?

実はこのミステリーには次の「答え」が用意してある(笑)。

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