世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」を知れば、「奈良の旅」がおもしろくなる。

史跡
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、歴史旅をコンテンツにまとめた特集のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

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旅人にとって興味深いのは、古墳の詳細よりも、「なぜ大阪に巨大古墳群が築かれたのか?」なのでは…

出典:NHK

世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」【目次】

ザックリ紹介。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」

旅人にとって、この世界遺産の価値はどこにあるのか?

なぜ、大阪に巨大古墳が築かれたのか?

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ザックリ紹介。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」

仁徳天皇陵

とえりあえずは、どこのサイトにでも書いてある内容をさらっと書こう(笑)。

2019年7月に世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-(もず・ふるいちこふんぐん -こだいにほんのふんぼぐん-)」は、大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市にある、45件49基の古墳群の総称だ。

そして、その象徴的な存在が「仁徳天皇陵」なる。

出典:NHK

日本最大の前方後円墳で、5世紀の築造とされる「仁徳天皇陵」は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓のひとつに数えられている。

長さ約486mに及ぶ墳丘は3段に築かれ、周辺には三重の濠がめぐり、10基以上の中小古墳が点在する。

仁徳天皇アラカルト

第16代仁徳天皇は、4世紀後半~5世紀前半に実在した人物とされている。

都を大阪府の「難波高津宮(なにわたかつのみや:現在の大阪市中央区)」に移し、田畑を開かせ、常に民のことを考え、多くの地域で治水工事を行った。

また、朝鮮半島の亡命者を巧みに使い、大陸の技術を取り入れ文物の交換を行うなど、内政、外交にも長けていた。

これらのことから、仁徳天皇の治世は「仁政」として後世に伝わり、「仁徳」の諡号もこれに由来している。

出典:ウィキペディア

古代の日本は、天皇が変わると都も遷都されることが多く、その後「難波高津宮」は使われなくなっていたが、平安初期の第56代清和天皇の勅令によって遺跡が探索され、あったと定められた地に、仁徳天皇を祀る神社が建立された。

しかし豊臣秀吉が大坂城を築城する際に、比売古曽神社の境内に移された。

その高津宮(神社)も、1945年(昭和20年)の大阪大空襲によって焼失、現在残る社殿は、1961年(昭和36年)に再建されたものだ。

仁徳天皇陵から大仙古墳に名称変更?

最大の理由は、考古学者らが「仁徳天皇が埋葬されているか確認できない」として、所在地名に由来する「大仙古墳」あるいは「大山古墳」と呼ぶようになり、その案が教科書に採用されたことにある。

しかし、政府がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に推薦した際の文資料には、構成資産のひとつとして「仁徳天皇陵古墳」の名称が挙げられている。

ゆえに、どちらが正解とも云えないのが現状らしい。

きちんと発掘調査をして真実を確かめればいいだけの話だが、古墳の発掘は「日本史が根底からひっくり返るような、あっと驚く事実」が見つからないとは限らないので、まず許可は出ないだろう(笑)。

出典:トラベルjp

なお、堺市役所21階展望ロビーからは、巨大な「仁徳天皇陵」の全容が無料で眺められる。

☎072-228-7010 営業確認。

ただ筆者が電話した時は、コロナウイルスのワクチン接種会場に指定されていて、見学は叶わなかった。

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旅人にとって、この世界遺産の価値はどこにあるのか?

仁徳天皇陵

正直云って「歴史大好き人間」を自称する筆者でも、この世界遺産については、さほど興味を抱くものではなかった。

なぜなら大半の古墳は、現地に足を運んでも、どれもみなこういう感じ(笑)。

研究者は古墳の形状や、埋葬品などから学術的価値を見出すのだろうが、旅人にとっての古墳は、ただ遠くから森を見つめ、案内板にわずか数行しか書かれていない説明を読むしかないのだから当然だ。

宮内省のお役人は、あまりにもサービス精神がなさすぎる(笑)。

ただ、NHKの「英雄たちの選択~古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略~半島危機と倭の五王」を見て、気持ちが変わった!

出典:NHK

この番組は2017年の12月に初めて放送されたものだが、何度か再放送されており、筆者はそれを録画していた。

結論から云うと、旅人にとってこの世界遺産の価値は、「ヤマト王権」すなわち「奈良の旅」をおもしろくしてくれるところにある。

誰もが知る通り、日本には3世紀に「邪馬台国」があり、それが「ヤマト王権」を経て、6世紀から始まる本格的な奈良での朝廷政治へと進化していくのだが、その間の4~5世紀の様子が、これまでは今ひとつ分からなかった。

出典:NHK

しかし、その時代に君臨した「倭の五王」の研究が進むにつれ、当時の日本の情勢が判明しつつある。

なぜ、大阪に巨大古墳が築かれたのか?

出典:NHK

百舌鳥・古市古墳群は、古墳時代の最盛期(4世紀後半から5世紀後半)に築造された、古代日本列島の王たちの墓群とされており、当時大陸を行き来する航路の発着点であった、大阪湾岸に位置している。

それはこの時代に「倭(わ)」と呼ばれた日本にとって、朝鮮半島や中国との外交が重要であったことを意味している。

前述した仁徳天皇の話にあったように、当時の畿内は水田開発が進み、人口も増え続ける「古代・高度成長期」で、それを支えていたのは鉄製の農具や工具の普及だ。

出典:NHK

ところが当時の日本は、まだ国内で鉄が産出できておらず、朝鮮半島から「鉄挺」と呼ばれる延べ板を輸入し、それを国内で加工していた。

いっぽう半島では、高句麗が急速に力をつけ、政治情勢が悪化しつつあった。

そこで「倭の五王」は高句麗を牽制すべく、当時の中国を支配していた「宋(南朝)」に使いを送り、朝鮮半島の加耶にある鉄の輸入基地を守ろうと画策する。

「倭の五王」たちは、413年から477年までに、少なくとも9回の使いを出したというのだから、その事態の大きさが伺える。

同時に「ヤマト王権」は、大阪湾岸に外交交渉の拠点を築く策に出た。

その一環として、日本を行き来する外国からよく見える場所に、「ヤマト王権」の力の大きさを示すモニュメントとして、巨大古墳群が築かれたのだ。

「どうだ、倭国にはこれだけの建造物を作る富と権力があるんだぜ!」ってなもんだろう(笑)。

古代の大阪

ただ本拠地を海岸線に置くのは、利便性がある反面、攻め込まれた時の安全性には著しく欠ける。

そこで大和川を運河として整備し、本拠地の奈良盆地までの開運が開けると、都は再び「まほろば」へと戻された。

永代たたら

大阪平野で巨大古墳群の建造ブームが終わったのは5世紀だが、この頃には砂鉄による「たたら製鉄」が国内に確立され、朝鮮半島への依存度が減ったことも、その大きな要因だったのだろう。

そしていよいよ、「聖徳太子」が登場する飛鳥時代へと時は流れる。

仏教伝来の地

奈良と云えば「平城京」以降と思っている人も多いと思うが、実は旅人目線でいうと、「山の辺の道」や「明日香村」に、以外なる遺跡や遺構の残る、それ以前の時代のほうが圧倒的におもしろい。

大阪歴史博物館

最後に。

実はこれで大阪が廃れてしまったわけではない。

誰もがよく知る「大化の改新」が行われたのは、奈良ではなく、仁徳天皇が開拓した「難波」の地であることを、あなたはご存知だろうか?

しかも大坂城は、1000年の時を経て、その地の隣に建てられている!

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