この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、歴史旅をコンテンツにまとめた特集のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
聖徳太子が生きていた時代のことを詳しく知れば、「太子のめざした日本の姿」がみえてくる。
聖徳太子を通して知る、飛鳥と斑鳩。そして古代日本の近代化【目次】
プロローグ ~聖徳太子は飛鳥時代を知るための「フィルター」~
プロローグ ~聖徳太子は飛鳥時代を知るための「フィルター」~
2021年は「聖徳太子没後1400年」にあたるということで、例年になく聖徳太子を取り上げる番組が多く放送され、その存在を再認識するいい機会になった。
中でもとりわけ興味深く、またおもしろかったのは、「NHK大阪新放送会館完成記念番組」として、2001年11月10日に放送された2話構成のスペシャルドラマの再放送だった。
このドラマは「聖徳太子」というフィルターを通して、当時の日本と東アジアの様子がよく映し出された名作で、多少脚色があるとはいえ、かなり史実に忠実で、これまで「筆者が抱いていた疑問に関する答え」が、本当によく盛り込まれていた。
たとえば…
ライバルの物部守屋を打倒し、ヤマト王権最強の豪族へとのし上がった蘇我馬子が、いまさら本気で仏教を信じ、本気で聖徳太子を支えようとしていたのか?
たとえば…
聖徳太子の偉業のひとつに「遣隋使」があるが、なぜこの時代に小野妹子を「隋」に派遣する必要があったのか?
聖徳太子が生まれる以前の奈良 ~古墳時代前半~
聖徳太子が生きていたのは、西暦574年から622年とされており、上の年表の「飛鳥時代」の直前から中盤あたりになる。
ご承知の通り、弥生時代に存在したとされる「邪馬台国」が、奈良にあったかどうかは未だに判明していない。
ただ大和盆地(畿内)に、「邪馬台国」に匹敵する力を持った連合政権が存在していたことは事実で、それがやがて「ヤマト王権」と呼ばれる一大勢力に発展していったことは、疑いようのない史実だ。
なお巨大な前方後円墳を築いた「ヤマト王権」については、以下の記事に詳しくまとめているので、ここでは割愛し、聖徳太子が生まれる直前から話を進めていくことにしよう。
聖徳太子が生まれた頃の奈良 ~蘇我氏の台頭~
もともと「ヤマト王権」の支配者は「大君」と呼ばれており、後年になって「天皇」と呼ばれるようになるのだが、
後に絶大な権力を手中におさめる「蘇我氏」は、539年に即位した代29代欽明天皇の時代に「大君一族」との血縁関係を深め、外戚として一気に「ヤマト王権」の有力豪族へとのし上がった。
またこの頃、百済から日本に仏教が伝播する。
「蘇我氏」は仏の教えよりも、大陸とのコミュニケーションに使える仏教に魅力を覚え、その普及を推進しようとするが、日本古来の八万神(やおよろずのかみ)を司る豪族の「物部氏」が、それに「待った」をかけた。
それは「宗教」を建前にした両者の「権力闘争」であり、ここから「崇仏派の蘇我氏」と「廃仏派の物部氏」の存亡をかけた長い争いが始まる。
30代敏達(びたつ)天皇と31代用明天皇は、その熾烈な権力闘争に疲れ果て、心労がもとで早々とこの世を去った。
そして西暦587年。
次期天皇の座をめぐり「蘇我氏」と「物部氏」が、ついに武力激突する。それが世に云う「丁未(ていびの変)」だ。
そしてそこで脚光を浴びるのが、本日の主役「聖徳太子」である。
後に「聖徳太子」と呼ばれる若者の本名は、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」で、31代用明天皇の第二皇子にあたる。
厩戸皇子の両親は、ともに蘇我馬子の姉妹の子供で、蘇我馬子は厩戸皇子から見ると「大叔父(親の親の兄妹)」。つまり両者は血縁関係にあった。
そのため厩戸皇子は、幼年時代から馬子に目をかけられ、皇子も仏教を重んじる馬子を敬っていた。
また厩戸皇子は馬子の娘「刀自古郎女(とじこのいらつめ)」と幼馴染で、ふたりはのちに結婚し、馬子は厩戸皇子にとって「義理の父」ともなる。
そのような関係から、若き厩戸皇子もこの戦いに加わっていた。
蘇我軍は河内国渋川郡にある「守屋の館」を一気呵成に攻め立てたが、物部軍の兵士は強靭で頑強に抵抗し、そのゲリラ作戦に蘇我軍は苦戦を強いられる。
それを見た厩戸皇子は、白膠(ヌルデ)の木を切って四天王の像をつくり、兵士たちの前で戦勝を祈願して、「勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める」と仏に誓った。
精神的支柱を得て、体制を立て直した蘇我軍は、再び物部軍を攻め立て、ついに大将の守屋を討伐。軍衆は逃げ散り、大豪族の「物部氏」は壊滅した。
もっとも… 当時の厩戸皇子の年齢からすると、多少話は盛られていると思うが、聖徳太子は仏との約束通り、その戦勝祝いとして、現在の大阪市天王寺区に「四天王寺」を建立する。
そして蘇我馬子も「飛鳥寺」を造営した。
念願の「打倒物部」を果たした蘇我馬子は、次の大君に用明天皇の弟で、厩戸皇子の叔父にあたる崇峻(すしゅん)天皇を立て、思い通りに国を動かしにかかるが、傀儡を嫌う崇峻天皇は扱いにくかった。
そのため馬子は崇峻天皇を暗に葬り、同じく用明天皇の妹にあたる「推古天皇」を日本初の女帝として擁立。
そして実質的な政務を行う「摂政」に聖徳太子を据えた、いわゆる「三頭政治」が始まった。
以降約30年間にわたり、飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)で、大胆な国政改革が行われ、天皇を中心とした国家の基礎が築かれていくことになる。
ただ聖徳太子は、父の用明天皇が自らの病気平癒を祈って建立を発願したが、崩御によって頓挫していた「法隆寺」を、607年に推古天皇ともに完成させ、その東隣に「斑鳩宮」を置き、主にそちらで政務に携わっていたようだ。
その理由には、この後詳しく触れる。
現在の「斑鳩宮」跡には、法隆寺の東伽藍として写真の夢殿が建てられている。
聖徳太子の主な功績
結論から云うと、聖徳太子が目指したのは、当時の先進国「随」を手本にした、天皇中心の「中央集権国家体制」の確立だった。
だが、それを果たすために避けては通れない課題を抱えていた。
それが朝鮮半島との外交問題だ。
前述した「倭の五王」の時代には、当時の「宋」と密接に交流し、朝鮮半島の伽耶にあった鉄の輸入基地を守ることに力を注いでいたヤマト王権だったが、6世紀に入ると「宋」は力を失って「随」が建国、いっぽう国内では大君の継承による揉め事が絶えず、100年もの間ヤマト王権は外交をおざなりにしていた。
その間に朝鮮半島では新羅の勢力が拡大。伽耶は新羅の手に落ち、朝貢や鉄の輸入も途絶えていたため、豪族たちは新羅への出兵をヤマト王権に迫った。
だが「丁未の変」で、戦による飛鳥の荒廃を目の当たりに見てきた聖徳太子は、出兵を回避し、新羅が朝貢している隋に働きかけ、武力ではなく外交による解決の道を模索する。
聖徳太子が「斑鳩宮」を執務の地に選んだ理由には、飛鳥にいる強硬派の豪族たちから距離を置くこともあっただろうが、それ以上に大和川の水運に恵まれたこの地が、外交戦略上都合がよかったことも大きかったようだ。
そしてその使命を果たすべく、600年に一回目の遣隋使を派遣するが、この時に奏上した倭の政治体制や習俗は、随の文帝から「はなはだ義理なし(さっぱり道理が通らない)」と批判を受け、「けんもほろろ」に追い返される。
そこで聖徳太子は「随」を見習い、近代国家に向けての改革を急ピッチで進めていった。その代表的な政策が、学校で習った「冠位十二階」であり、「十七条憲法」だが、この話を読めば、それらがなぜ必要だったのかがよく分かるはずだ。
もちろん聖徳太子はそれだけでなく、他にも律令制・宮都の整備・仏教振興など、当時の近代国家としての法制度と社会体制も同時に整えていくわけだが、やはりそれには時間がかかった。
蘇我馬子は聖徳太子の想いを理解しつつも、そのことを危惧していた。そして案の定、新羅への出兵問題が再燃する。
遣隋使で結果を出せなかった聖徳太子は苦境に立たされ、苦渋の策として弟の来目皇子を新羅出兵の将軍に任命し、密かに仮病で船出を遅らせ時間つぶしをするよう命じた。
だが今度は熱り立つ兵士を押さえきれず、「これでは埒が明かぬ」と1年後に来目皇子は筑紫で毒殺された。
しかしそれでも聖徳太子は悲しみを乗り越え、今度は弟の当麻皇子を送り込み、水際で開戦を抑え込む。
それはまさに「十七条憲法」の第一条に記された「和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」を体現するもので、聖徳太子の強い覚悟が、蘇我馬子を始めとする家臣たちに強く響いた。
そして迎えた607年の第2回遣隋使。
この時小野妹子が煬帝に上呈した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや、云々」の有名な国書は再び不興を買うのだが、幸運にも他の東アジア諸国のような天子と臣下の関係ではなく、独立国家としての扱いを導き出すことに成功し、聖徳太子の多大なる努力はとりあえず報われた。
聖徳太子亡き後の日本
30代半ばまでに上記の主な重責を果たし終えた聖徳太子は、46歳の時に「国記」「天皇記」を撰修した後、622年(推古三十年)2月22日に、蘇我馬子や推古天皇よりも早く、49歳でその人生を閉じる。
その年、聖徳太子の住む斑鳩の里では、痘瘡(天然痘)が大流行した。
感染は御殿にも及び、まず太子の母が死亡。1か月後には太子と妃も発病して失命した。太子の直接的な死因は、脱水症状による心不全だったという。
ちなみに写真の聖徳太子の墓陵は、奈良県との県境に近い大阪府南河内郡太子町の「叡福寺」にあり、いつでもお参りすることが可能だ。
さて。聖徳太子が摂政だった頃には補佐役に徹し、ヤマト王権内の勢力をしっかりキープすることに徹していた蘇我馬子は、聖徳太子が亡くなると、再び権力を独占して、蘇我氏の勢いを強めていった。
まるで秀吉が晩年を迎えた頃の、徳川家康のようだね(笑)。
その後、蘇我馬子の孫の「入鹿(いるか)」は、聖徳太子の一粒種の山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を死へと追い詰め、馬子を凌ぐ権力を手に入れるが、645年に飛鳥寺からほど近い板蓋宮(いたぶきのみや)で画策された、中大兄皇子・中臣鎌足らによるクーデターで暗殺される。
写真は飛鳥寺の門外に置かれた「蘇我入鹿の首塚」。
筆者が学生の頃は、この事件を「大化の改新」と習ったのだが、現在は「乙巳の変」と呼び、この後、舞台を大阪の難波宮に移して始まる「大化の改新」と区別している。
そしてここから先は、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)を祖とする藤原家が、蘇我氏に代わってヤマト王権の重臣となり、平安時代前期に花開く「藤原摂関政治」の基盤を築いていくことになる。
こういった一連の歴史の流れを押さえておけば、奈良・大阪・京都の旅の視界は驚くほど開け、また訪ねてみたい場所も違ってくる。
いい大人が明日香村まで来て、「鬼の雪隠」とか「亀石」に感動して帰ってどーすんねん!って話だろう(笑)。