車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、2023年9月現在の高野山の壇上伽藍の単純明快ガイドです。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
「壇上伽藍」は、高野山の歴史と出会える”大学キャンパス”のようなところ。
高野山の筆者の歴訪記録
※記録が残る2005年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.02.28
2014.08.05
2014.11.03
2023.08.20
※高野山での現地調査は、2023年8月が最新です。
壇上伽藍【目次】
「壇上伽藍」の概要と、そこに残る歴史の面影に着目
まずは専門用語から紐解こう。
伽藍(がらん)とは、僧侶が集まって修行をする施設のことを指す。
伽藍を構成する主な建物として、俗世間との境界を示す山門・本尊を祀る本堂・仏塔・学習の場である講堂・僧の住居である庫裏(くり)・食堂(じきどう)・鐘楼(しょうろう)などが挙げられる。
そして壇上とは「大塔(だいとう)」が鎮まるところ、すなわち道場という意味を持っている。
たぶんこのことを知っているだけで、口を開けば「デカッ!」とか「ヤバッ!」としか発せず、いささかの知性も感じられない人種からは離脱できる(笑)。
さて。
どのガイドにも、「奥之院」とともに「高野山」の二大聖地と呼ばれる「壇上伽藍」の見どころは、左の「金堂」と正面に建つ「根本大塔」と記されている。
ただそれは2つの建物の内部が見学できるからで、いずれも大人500円の拝観料が必要だが、大半は見ても聞いても、帰る頃には忘れてしまう(笑)。
であるなら、
短時間で密教の世界を垣間見るより、「壇上伽藍」の中を自由に散策し、「心に残る風景を撮って帰る」楽しみ方があってもいい気がした。
とどのつまり…
「壇上伽藍」は大学キャンパスのような場所で、高僧は教授、お坊さんは学生に置き換えられる。
真言宗にさほど関心のない観光客が、高野山の「壇上伽藍」を訪ねるというのは、キリスト教にさほど関心のない観光客が、プロテスタントの支援を受けた宣教師・新島襄が、京都御所の北にあった薩摩藩邸跡地に創設した、この「同志社大学」のキャンパスを見て歩くのと変わらない。
真言宗の関係者にすれば、ちょっとムカつく話かもしれないが、見る側としては、これくらいライトに云われたほうが、肩の荷がおりて楽になれる(笑)。
そもそも…
大半の観光客は、1400年もの長きに渡って”仏教の聖地”として君臨してきた高野山に、「歴史の面影」を感じに来ている。
高野山当局もそのことを分かっているから、こんな切り株にも解説板を設け、保存しているわけだ。
中門用材伐採切り株
高野山では、2015年(平成27年)年の開創1200年を祝う「開創法会」に合わせ、江戸末期年に焼失したままだった「中門」の再建事業が行われた。
その際に中門の御柱に使われた18本のうちの1本が、「壇上伽藍」西塔の裏手から伐採された、樹齢374年のこのヒノキだ。
伐採後は「槍鉋(やりがんな)」を用いた宮大工の手作業で円柱に加工され、現在は正面右側から3本目で中門を支えている。
それは高野山が長期に渡り、大木を育む山を仕立てる林業と、それを活かす建築技術を継承してきた証で、高野山が掲げる「生かせいのち。」という理念の実証例とも云えるだろう。
いっぽうこちらは、「壇上伽藍」の紹介でほとんど触れられることのない「三昧堂」だが、ここには平安時代の僧侶「西行」が、その修造にかかわった、あるいは一時期住んだという逸話が残り、傍らには手植えをしたと伝わる桜もある。
ちなみに和歌で名高い「西行」は、あの「平清盛」の盟友で、俳聖「松尾芭蕉」はその「西行」の大ファンだった。
「奥の細道」は、なんと”西行・追っかけ旅”だったことをご存知だろうか…
そしてもちろん、「芭蕉」は「高野山」にも足を運び、ちゃんと句を残している。
「高野山」には、こういった”日本の著名人・数珠つなぎ”みたいな愉快な逸話が、きっと他にもたくさんあるに違いない。
「壇上伽藍」で”インスタ映え”を狙う
写真を撮ることは「観察」に通じるが、その意味でもインスタグラムのアカウントを持つ人には、高野山はなかなか面白いところだと思う。
例えば有名な金堂を、こう写しても当たり前すぎてつまらない。
だが、これならどうだろう。
特に大きすぎてモニターにおさまらない建物は、逆に大胆なくらい近づいたほうがいい写真が撮れることは多い。
また筆者が取材に訪れた日は、老夫婦がこの樹の下で何かを探しているようだった。
そこで説明板を見てみると…
三鈷の松(の伝説)
806年(大同元年)、弘法大師が唐から帰国する際、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、明州(現在の寧波)の港から密教法具である「三鈷杵(さんこしょ)」を投げた。
帰国後、その三鈷杵を探し求めると、高野山の松の木にかかっていたという。
こうして高野山は真言密教の道場として開かれることとなった。
以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、広く信仰を集めている。
普通、松の葉は2葉か5葉であるが、「三鈷の松」は密教法具の三鈷杵のように3葉になっているのが特徴だ。
なるほど面白い。
老夫婦に気付かなければ、すっかり見落としてしまうところだった。
ちなみに弘法大師の独鈷(とっこ)は、伊豆の修善寺では温泉を掘り当てるし、丹波では大蛇を退治するなど、各地で魔法を振りまいている。
余談になるが…
高野山の説明板には、ここまでしか書かれていないのだが、ホームページで検索される「三鈷の松」の多くの記事には、尾ひれがついて、いい加減なことをまるで本当のように伝えている。
”肌身につけると御利益がある”、”財布に入れて持っていると金運に恵まれる”、さらには”バッグの中にお守りとして持っていれば交通安全、旅行安全のご利益にもなる”など、お前らもまとめて弘法大師の独鈷で消されてしまえよ(大笑)。
「根本大塔」と「金堂」
さて。
ここから先は、”とはいえ、せっかく高野山まで来たのだから、有名なところは見て帰りたい”という俗人向けの話になる。
真言密教の根本道場として伽藍の中心に建設された「根本大塔」は、空海が819年に建立に着手し、2世真然大徳の代の887年頃にようやく落慶を迎えたと伝わる、高さ49メートル、四方約24メートルの巨大建造物だ。
豆粒のような人と比較すれば、その大きさは一目瞭然。
当時のまま残っていれば、間違いなく国宝であり、世界遺産登録建造物になったはずだが、5回の焼失と再建を経て、1937年に現在の建物が完成した。
中は大日如来を本尊とし、その四方には金剛界の四仏が配置されている。
また内陣を成す16本の柱には、色鮮やかな金剛界の菩薩絵が描かれている。
いっぽうこちらは、高野山の開創当時は「講堂」と呼ばれていた「金堂」で、平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた。
今でも高野山の重要行事のほとんどは、ここで執り行われている。
ただ現在の建物は7度目の再建で、1932年(昭和7年)に完成。秘仏の本尊は薬師如来で、髙村光雲が80歳の時に復元している。
詳しい壇上伽藍の建物の解説は、こちらのオフィシャルサイトを参照に。
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