車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、2023年9月現在の真田昌幸と真田信繁(幸村)・ゆかり地「九度山」の見どころを紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
九度山は、やがて「ひのもといちのつわもの(日本一の兵)」となる、真田信繁(幸村)”雌伏の地”。
「九度山」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2016.01.30
2023.09.10
※「九度山」での現地調査は2023年9月が最新になります。
九度山【目次】
高野山と九度山観光時の車中泊に
使える「道の駅 柿の里くどやま」
真田氏と九度山のなりそめ
信州・上田の大名だった「真田氏」が、なにゆえ遠く離れた「高野山」の麓にある「九度山」で暮らすことになったのか…
ここでは、そこから話を進めていこう。
というのは、ここで「真田氏」について詳しく語り出すと、少なくても記事3本くらいの長さになってしまう(笑)。
ゆえに「真田氏」に興味がある人には、以下のページをご覧いただきたい。
ちなみに筆者は、「真田信繁(幸村)」が生まれ育った長野県の「真田庄」から、生涯を終えた大阪の「安居神社」まで、主だったゆかりの地に足を運んでいるが、
お伝えしたいのは単なる「歴史」よりも、そこを「旅先」として訪ねるために、知っておきたい必要な情報だ。
上記では、「真田一族」のゆかりの地をガイドした筆者のオリジナル記事に加え、大河ドラマのメイキング映像や、懐かしいオープニング映像もご覧いただける。
さて。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に際して、お家存続のために長男の「真田信之」と敵味方に別れ、「石田三成」に味方した「真田昌幸」「真田信繁(幸村)」親子は、本拠地の信州・上田城で、東軍「徳川秀忠」の進軍を足止めすることに成功するが、肝心の西軍が関ヶ原で敗れたために、囚われの身となる。
過去の因縁もあり、「家康」は2人を死罪に処するつもりだったが、クソ真面目なくらい「家康」に忠義を尽くす「真田信之」(笑)と、その義理の父で徳川家重臣でもある「本多忠勝」の嘆願により、親子はともに「高野山」への蟄居を命じられた。

出典:蓮華定院公式サイト
同年10月9日、「昌幸」「幸村」父子は「真田家」の菩提寺である、高野山の「蓮華定院」に身を寄せる。
この時「昌幸」53才、「信繁」は33才で既に妻もいたが、当時の「高野山」は女人禁制だったため、女性たちは麓の九度山に据え置かれた。
だが「蓮華定院」に身を寄せて間もなく、「真田親子」は身のまわりの世話を受けるべく、家族との生活が許され、蟄居先を九度山に移すこととなる。
「九度山」への移転には、「高野山」での寒さが厳しかったからとの説もあるが、「真田氏」は元々信州上田の出身なので、寒さには慣れていると思うのだが…
いずれにしても、
そこから実に14年間に及ぶ、「真田親子」の「九度山」生活が始まる。
蟄居と聞くと囚人に近い扱いをイメージするが、紀伊国和歌山城主「浅野幸長」の監視下にあったものの、「真田氏」にはある程度の自由が許されていたようだ。
また「信之」たちからの仕送りもあって、「昌幸」が健在だった頃は、少しはゆとりのある暮らしぶりだったようにも云われている。
それでも「信繁」は、老いと病に苦しむ「昌幸」の体調を気遣い、徳川家の家臣を通じて、幕府に「恩赦」を嘆願するも受け入れられず、「昌幸」は1611年、享年64歳で失意のうちにこの世を去った。
九度山での生活が逼迫し始めるのはその後で、刀の柄に巻いていた平織り紐を「真田紐」として付き人たちに行商させ、生活の足しにしていたようだ。
そのいっぽうで、「信繁」は兵術や天文を学んだり、息子の「大助(幸綱)」とともに紀ノ川で水練を試みるなど、将来に備えての訓練も怠っていなかった。
1614年、「徳川家康」は満を持して、大坂追討に向けた動きを活発化させる。
すると「豊臣家」は、それに呼応して力を結集するべく、各地に潜む浪人武将たちに密使を送る。
そして「九度山」にも迎えがやってきた。
父「昌幸」への仕打ちに対する「家康」への復讐の機会を得た「信繁」は、覚悟を決めて九度山を脱出し、大阪城へと向かう。
そして誰もが知る「大坂冬の陣」で「真田丸」を築き、徳川軍に再び圧勝。
その名を天下に轟かせた。
九度山に残る、真田氏ゆかりの地
さて。
「九度山」にはその脱出の際に、『この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて「真田信繁(幸村)」は、ここを使って監視の目をすり抜けた。』との伝説が残る場所がある。
実際は6世紀頃の古墳なのだが、後世に脚色された「真田幸村」のヒーロー伝説により、「真田古墳」と呼ばれている。
偉人ゆかりの地に、史実とかけ離れたフェイクが存在するのは、”よくある話”。
バカバカしい話で貴重な時間をロスしたくない良識者は、そういうところをうまく外しながら、「史実」に基づく大事なところに、しっかりと時間を使いたいものだ。
その意味からすると、「九度山」で足を運ぶべき筆頭は、当時の「真田屋敷跡」に建てられた、「真田庵」の名で知られる「善名称院」になるだろう。
敷地の中央には宝塔が立てられ、「昌幸」の墓所とされているほか、「真田宝物資料館」がある。
真田宝物資料館
「真田親子」の「九度山」での生活をテーマに、「信繁」が愛用したと伝えられる槍先や鎧兜などの武具や書状、肖像画などが展示されている。
また、当時の「真田家」の生活を支えた真田紐や、高野紙製造用具などもある。
入館料:200円
開館時間:9時~16時
年末年始以外は無休
本当かどうか分からないものもあるが、マニアックな”お宝系の展示品”が揃っている感じで、200円はお得感あり(笑)。
なお、2016年(平成28年)のNHK大河ドラマ「真田丸」の放送に合わせてオープンした「九度山・真田ミュージアム」は、ここから100メートルほど北にあり、詳細はこの後で詳しく紹介している。
ちなみに「昌幸」の遺骨は、火葬後に「河野清右衛門幸壽」が分骨を持ち出し、長野県上田市の長谷寺(ちょうこくじ)に納骨したといわれており、「昌幸」の墓はそちらにもある。
最後に…
「九度山」は、元々高野山の寺領だった古い歴史を持つ町だ。
地名の由来は「空海」の母が会いに来た時、「高野山」が女人禁制であるため、ここにある「慈尊院」に滞在していたが、「空海」はその間に九度も山を下りて会いに来ていたとの言い伝えにある。
なお「慈尊院」は、2004年にユネスコの世界遺産に登録された、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素のひとつでもある。
ファンにお勧めなのは、「九度山・真田ミュージアム」
「昌幸」「幸村」「大助」の真田家三代の物語を、長く後世へと語り継ぐことを目的とした施設。
「幸村」の生涯で14年間という一番長い時間を過ごした「九度山」での生活を、パネル展示やドラマ仕立ての映像で紹介しており、分かりやすい。
当時の真田屋敷を模したカラクリ部屋などもあり、歴史が得意でない人でも気軽に楽しめる。
九度山・真田ミュージアム
〒648-0101
和歌山県伊都郡九度山町九度山1452-4
TEL 0736-54-2727 おとな500円
9時~17時(受付最終16時30分)
月・火曜定休
12月29日~1月3日は休館
駐車場なし(道の駅「柿の郷くどやま」から徒歩5分)
高野山と九度山観光時の車中泊に使える「道の駅 柿の里くどやま」
「道の駅 柿の郷くどやま」は、「真田庵」まで約500メートル、歩いて5.6分ほどのところにあり、ご覧のような大きな周辺マップを屋外に用意し、駐車場の混雑や生活道路の渋滞を避けるなど、町ぐるみの観光対策に一役買っている。
九度山はゆっくり観て周ったとしても半日あれば十分だが、ここまで来れば当然「高野山」との組み合わせになると思う。
その際のベストな時間の使い方は、高野山の「奥之院」前にある「中の橋駐車場」で前泊し、早朝6時から行われる「生身供」を見学したあと、「金剛峯寺」と「壇上伽藍」を周り、午後から九度山に下山して「道の駅 柿の郷くどやま」で車中泊をする流れだろう。
そうすれば夕方きつくても、翌朝から九度山を観て周れる。
ここまで書いてこそ、本物といえる「九度山」ガイド。
周辺のことに一切ふれてもいない記事なんて、信頼感薄いんとちゃう(笑)。
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