葵祭で知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)の着目すべき歴史と、その見どころ及び駐車場をご紹介。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。
~ここから本編が始まります。~
上賀茂神社には、平安京以前の”古代京都”を知る手がかりが秘められている。
上賀茂神社 DATA
上賀茂神社(賀茂別雷神社)
〒603-8047
京都府京都市北区上賀茂本山339
☎075-781-0011
参拝時間
5時30分~17時
※本殿・権殿の特別参拝は10時~16時(土・日・祝は16時30分)
参拝料
境内は無料、本殿・権殿500円
駐車場
通常 200円/30分
6時~22時(出庫は24時間可能)
繁忙期 1回1000円
9時~16時(出庫は17時まで)
※繁忙期とは、年末年始や土日祝日のうちで、行事等により混雑が予想される日。詳しい日にちは社務所にお問い合わせを。
上賀茂神社の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2011.11.27
2018.03.28
※「上賀茂神社」での現地調査は2018年3月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年5月に更新しています。
上賀茂神社 目次

「賀茂神社」の歴史と謎
御所の北側に位置する「上賀茂神社」<正式名:「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)>は、平安京が誕生するより100年以上も前の、678年(白鳳6年)創建と伝わる京都最古の神社だ。
と、ここまではどの紹介サイトにも書かれているのだが、
創建が古いといっても、当時の建物が残っているわけでもなく、古さの中の”どの観点”に着眼すべきかを具体的に解説してくれなければ、なぜ「上賀茂神社」が世界遺産なのか?という結論には辿り着けない。
ゆえに当サイトは、そこから始めよう。
まず伝説によると、「上賀茂神社」はその当時に京都盆地一帯を支配していた「賀茂氏(かもうじ)」が、写真の道の向こうに見える「神山(こうやま)」に、氏神の「賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)」を祀ったことが、その始まりとされている。
いっぽう、その「神山」の周辺からは、弥生時代後期から古墳時代を中心とした大集落遺跡(植物園北遺跡)が発掘されており、この地には古代から人が住み着いていたことが判明している。
その遺跡の範囲が「上賀茂神社」と「下鴨神社」の間にあることから、考古学者も「賀茂氏」とその住人の関連性に着目をしている。
ということは…
「賀茂氏」が既に支配していた京都に、「ヤマト王権」はあえて天皇が住む都を遷した可能性が高い。
なぜ支配地で安全が担保された大和から、他人の土地の京都へ?
次は祭神「賀茂別雷大神」について。
そのなりそめは、写真の立札に短くまとめられているが、補足して紹介しよう。
「山城国風土記」の伝承によると、「賀茂氏」の始祖とされる「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」は、”神武東征”の際に難路を先導した「八咫烏(やたがらす)」の化身で、住んでいた大和国の葛城山から南山城を経て木津川を北上し、賀茂川上流に鎮まった。
その後「賀茂建角身命」は、丹波国の国神「伊可古夜日売(いかこやひめのみこと)」を妻に迎え、「玉依日子(たまよりひこ)」と「玉依日売(たまよりひめ)」の男女をもうける。

出典:上賀茂神社
娘の「玉依日売」は、ある日加茂川の上流で身を清めている時、流れてきた丹塗矢(にぬりや)に化身した「火雷命(ほのいかづちのみこと)」を不思議に思って拾い、丁重に床に置いて祀ったところ、矢に込められていた魔力に染まり、懐妊して御子を出産する。
三歳の祝いの席で、祖父の「賀茂建角身命」から父の名を尋ねられた御子は、父が雷神であると示して天へと昇った。
その後、成人した御子は「賀茂別雷大神」となって神山に降臨し、以降「上賀茂神社」の祭神となる。
続いて「賀茂別雷命」の母「玉依日売」と祖父「賀茂建角身命」も、「下鴨神社」こと「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」に祀られ、両神社は代々「賀茂氏」により手厚く守られていくことになった。
ちなみに「賀茂御祖神社」は当初、「賀茂別雷神社」の摂社のひとつだったことから、今でも「賀茂別雷神社」を「上賀茂神社」、「賀茂御祖神社」を「下鴨神社」、または「上社」「下社」と呼ぶことが多いのだが、781年(天応元年)に「賀茂神社」の総称を得て、それぞれ対等の待遇を受けるに至っている。
さらに「続日本紀」によると、
784年(延暦3年)には長岡京遷都に伴い、従二位の神位が与えられ、793年(延暦12年)の平安京遷都の前年には、「桓武天皇」が遷都の報告を行い、遷都後には行幸も行われている。
そして807年(大同2年)には「伊勢神宮」に次ぐ正一位に昇進(日本紀略)、地方豪族の氏神から”平安京第一の王城鎮護”の神として祀られるまでに昇り詰めた。
同時に「賀茂祭(葵祭)」も、806年(大同元年)には勅祭となり、「賀茂氏」一族の女性から神を迎える巫女を選出していたのを、810年(弘仁元年)には皇室から未婚の内親王を斎王とすることとなり、その地位はまさに盤石のものとなる。
めでたし、めでたし(笑)。
普通なら、この絵に書いたようなサクセスストーリーとともに終わるのだが、当サイトはむしろここからが話の核心になる。
というのは…
「賀茂別雷大神」は、「古事記」「日本書紀」には登場しない「山城風土記」に記載があるだけの、云ってみれば”地方の無名に近い神様”だからだ。
「伊勢神宮」のように「天照大神」か、「霧島神宮」のようにその血筋の神様を祀る”神宮”なら不思議ではないが、このトントン拍子とも思える”神社”の出世には、どうしても違和感を覚えざるを得ない。
実は筆者は、ここが「賀茂神社」を理解するための着眼点だと思っている。
「賀茂神社」が世界遺産に登録された理由の背景

出典:Kawashima Selkon Textiles Co.,Ltd.
「上賀茂神社」と「下鴨神社」を合わせた「賀茂神社」が、世界遺産に登録された最大の理由は、後述する葵祭(あおいまつり)を見れば分かるように、1000年前から培われてきたと伝わる平安貴族の文化が、令和の現在に至るまで脈々と受け継がれてきたからに他なるまい。
だが…
ここで大事なのは、なぜそれが保たれたのか、つまり世界遺産登録理由の背景だ。
その謎を紐解くヒントは、さきほどの立札に書かれた「秦氏」の文字にある。
「秦氏」は現在の太秦(うずまさ)周辺を本拠地にしていた、賀茂氏と同じ古代京都の有力な豪族で、特に聖徳太子との絆が深く、天皇家と友好な関係を築いていた。
とりわけ「ヤマト王権」が日本を統一して「朝廷」となり、「平城京」から「長岡京」を経て「平安京」に遷都した背景には、土木と水運に精通し、木津川一帯を掌握していた「秦氏」の存在が大きく寄与していたという。
この立札は、その「秦氏」と「賀茂氏」が密接な婚姻関係にあったことを示しており、両者に挟まれて位置する平安京は、当時のもっとも”安全な場所”だったと云える。
だから奈良から京都に、安心して都が遷せたわけだ。
実は「桓武天皇」には、平城京を廃して大和から離れたい理由があった。

出典:Wikipedia
ここからは大和の時代の復習になる。
672年、有名な”大化の改新(乙巳の変)”を首謀した中大兄皇子こと「天智天皇」の後継をめぐって、その弟の「大海人皇子」と、「天智天皇」息子の「大友皇子」が激突する。
その戦いが古代史上最大の戦乱と呼ばれる「壬申の乱」で、勝利した「大海人皇子」は「天武天皇」となって、古事記・日本書紀の編纂などの国家的事業を推進する。
さらにその妻で後に女帝となる「持統天皇」が藤原京を築き、天皇を世襲する現在の日本の原型が完成した。
だが皮肉なことに、その後「天武天皇」の血筋が途絶え、再び「天智天皇」の血統に天皇の座が戻ってくる。
平安京遷都を実行した「桓武天皇」は、「天智天皇」の曾孫だが、戻された政権には、強大化して政治に強い影響力を及ぼす仏教寺院が絡んでおり、「桓武天皇」は大和の地から離れることで、その影響力を削ぎ落としたいという思いがあった。
とどのつまり…
「上賀茂神社」が朝廷の力で守られ、そこに伝統文化が育まれてきた理由には、信仰よりも政治的な思惑が強く絡んでいる。
その意味から云うと、「賀茂神社」は「延暦寺」や「東寺」「平等院」とも、「二条城」「清水寺」「金閣寺」とも違う、まさに”平安京成立の生き証人”とも呼べる異質の世界遺産で、残された建物や文化以上に、存在そのものが歴史的価値を有している。
上賀茂神社の主な見どころ
約76万平方メートルに及ぶ「神山」の麓に広がる「上賀茂神社」の境内は、緑豊かで静厳な雰囲気が漂っている。

出典:上賀茂神社
その境内には、国宝2棟・重要文化財41棟を含む社殿が点在し、全域が「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
その境内へと通じる「一の鳥居」と「二の鳥居」をつなぐ参道では、春になると「斎王桜」「御所桜」「風流桜」と名付けられた美しい枝垂れ桜が、華やかに訪れる人を迎えてくれる。

出典:上賀茂神社
また「上賀茂神社」は“乗馬発祥の地”とされており、毎年5月5日には「賀茂競馬(かもくらべうま)」が執り行われるなど、馬にまつわる神事も盛んだ。
祭神の使いも、もちろん馬。
「二の鳥居」の手前に建つ「神馬舎」では、日曜祝日と大きなお祭りのある日に、「神山号」と名付けられた真っ白な神馬が見られる。
「二の鳥居」をくぐってすぐに現れる建物は、境内の中でも特に格式高い殿舎のひとつとされ、重要文化財にも指定されている「細殿(ほそどの)」で、天皇や斎王が参拝の際に、装束などを整える場として使用されていた。
細殿の手前には「立砂(たてずな)」と呼ばれる、「賀茂別雷大神」が降り立つための「憑代(よりしろ)」として、神山を象ったものとされる円錐状の砂山が2つ並んでいる。
「立砂」の頂に松の葉が立てられているのは、祭神が神山に降り立った際に、頂上に特別な松の木が立っていたと伝わる逸話に基づいている。
「本殿」の正門にあたる「楼門」は1628年の造替で、左右の「廻廊」と共に重要文化財に指定されている。
ちなみに鮮やかな朱色には、魔よけの意味があるという。
楼門をくぐれば、「本殿」の手前で参拝する「中門」が現れ、通常の参拝はここまでとなる。
その奥に、国宝指定されたご祭神を祀る「本殿」と、21年ごとに行われる「式年遷宮」の際に、一時的に祭神を遷すための仮殿となる「権殿」が並び立っている。
前方の屋根が長く延びて庇(ひさし)となる構造は、神社建築の主流を占める「流造(ながれづくり)」の原型とされ、「式年遷宮」が定められた1000年以上前からほぼ形を変えていないという。
ちなみに同じ「式年遷宮」でも、すっかり建て替える「伊勢神宮」とは違い、「上賀茂神社」は国宝指定された江戸時代の建物なので、修繕のみ行われ、壊されることはない。
なおこの2つの国宝は、特別参拝料の500円を支払えば、神職によるお祓(はら)いと解説を受けて拝観することができる。
さて。
「上賀茂神社」の境内で、一際落ち着きを感じられる場所が「ならの小川」沿い。
さらにそこから分岐した水路が流れる「渉渓園(しょうけいえん)」は、平安時代の庭の姿を現在に伝える雅な場所で、毎年4月には当時の衣装に身を包んだ歌人たちが、杯を流しながら和歌を詠む「賀茂曲水宴(かもきょくすいのえん)」が開かれる。
紫式部 ゆかりの地
最後に、2024年の旬のスポットをご紹介。
「楼門」の近くに鎮座し、「賀茂別雷大神」の母「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」を祀る、国重要文化財の「片山御子神社」(通称・片岡社)は、平安時代には既に縁結びの御利益で知られており、「源氏物語」の作者・紫式部も参拝に通ったといわれている。
それにちなみ、絵馬には紫式部の和歌
ほととぎす 声まつほどは 片岡の
もりのしずくに 立ちやぬれまし
が添えられており、歌碑も残されている。
葵祭(賀茂祭)
上賀茂神社でもっとも重要なお祭りとされる葵祭(あおいまつり)は、毎年5月15日に行われる「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」と「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の例祭で、「祇園祭」「時代祭」と並ぶ、京都三大祭りのひとつに数えられている。

出典:上賀茂神社
「上賀茂神社」と「下鴨神社」と神紋である二葉葵にちなんで、葵祭と呼ばれる伝統行事は、平安装束をまとった人々が行列をなし、「京都御所」から「下鴨神社」「上賀茂神社」のルートを練り歩く京都の初夏の風物詩で、「上賀茂神社」の「二ノ鳥居」内では、今も1500年以上前から続くという儀式が当時のまま執り行われており、 朝廷の行事として貴族中心に進められてきたことから、その伝統が色濃く残されている点が特徴だ。
上賀茂神社のアクセス&駐車場事情
キャンピングカーにとって、もっとも気になる駐車場だが、170台が停められる参拝者用の駐車場は、ご覧のように料金精算機の屋根が出っ張っているため、車高2.38メートルの筆者のハイエースは、ぎりぎり離れて出入りができたものの、キャブコンは無理だと思う。
自分が入庫できたので、さすがに周辺のコインパーキングまでは調べていない。
申し訳ないが、そこはご自分でお探しを(笑)。
駐車料金は
通常 200円/30分
6時~22時(出庫は24時間可能)
繁忙期 1回1000円
9時~16時(出庫は17時まで)
なお繁忙期とは、年末年始や土日祝日のうちで、行事等により混雑が予想される日のこと。詳しい日にちは社務所(☎075-781-0011)で確認を。
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