大坂在住で歴史に精通する、車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、東山文化の象徴とされる「銀閣寺」の歴史と見どころ及び、周辺のお勧め駐車場と「哲学の道」から「南禅寺」までの詳しい観光ガイドです。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。
~ここから本編が始まります。~
世界遺産・銀閣寺は、室町幕府8代将軍「足利義政」が慈しんだ東山文化の集大成
銀閣寺 DATA
銀閣寺(東山慈照寺)
〒606-8402
京都府京都市左京区銀閣寺町2
☎075-771-5725
拝観料
大人500円
参拝時間
3月1日~11月30日:8時30分~17時
12月1日~2月末日:9時~16時30分
駐車場
京都市銀閣寺観光駐車場
普通車1040円/1回
利用時間 8時40分~17時10分
収容台数 普通車40台
銀閣寺の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.03.03
2024.05.18
※「銀閣寺」での現地調査は2024年5月が最新です。
銀閣寺 目次

銀閣寺の歴史と概要
「銀閣寺」の呼称で親しまれている「東山慈照寺」は、毎年8月16日に行われる京都の”五山送り火”で有名な、「大文字山」の麓にひっそりと建つ。
「銀閣寺」は、室町幕府8代将軍「足利義政」が、隠居後の隠遁生活を送るために、祖父の「足利義満」が建てた「金閣寺」をモデルに造営した「山荘・東山殿」がルーツで、当初は寺院ではなかった。
1482年に始まったその造営工事は、1490年に「義政」が亡くなる直後まで、実に8年間にわたって続けられたが、「義政」は工事開始の翌年から移り住み、ここで「侘び・寂び」を感じつつ、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を楽しんでいたという。
残念ながら現存する当時の建物は、「観音殿(銀閣)」と「東求堂(とうぐどう)」のみだが、境内には今も質素で剛健な「東山文化」を象徴する光景が広がっている。
銀閣寺の主な見どころ
まず「銀閣寺」は「金閣寺」と同様に、”特別拝観期間”を除けば、入場できる建物はなく、基本は敷地内を一周して建物の外観を見学するだけになる。
平たく云うと、それが拝観料500円の理由になるわけだが(笑)、そうなると見どころは、シンボルの「観音殿(銀閣)」が絵になる「庭園」と「展望台」に絞られる。
とはいえ、元々は将軍様のお屋敷(笑)。
中は門外から想像する以上に広く、展望所のある裏山を含めた全域を、ゆっくり回遊できるつくりになっている。
当時の「山荘・東山殿」には大規模な建物が建ち並び、「足利義満」の「北山殿(金閣寺・後の鹿苑寺)」ほどではないが、政治的機能も有していたという。
では個々の見どころに進もう。
観音殿
国宝指定されている「観音殿」は二層構造になっており、下層の「心空殿」は書院造の住居、上層の「潮音閣」は観音菩薩を安置する仏堂になっている。
上層、下層構造は「金閣」を模しているが、「金閣」は昭和に一度焼失していることから、この「銀閣」が唯一現存する室町時代の楼閣建築になる。
ところで。
「銀閣」と呼ばれるからには、昔は外壁に銀箔が貼られていたのでは?
という下世話な憶測(笑)に関しては、室町幕府の財政難や、当初は貼ってあったが剥がれてしまった等々、かつては諸説もろもろあったようだが、2007年に行われた科学調査によって、内装・外装ともに「黒漆塗」であった事実が判明している。
そもそも、江戸時代までの文献には「銀閣寺」という言葉自体が見つかっておらず、「金閣」に対比するため「銀閣」という表現が用いられるようになったのは、天下泰平の世になって以降のことだという。
庭園(国の特別史跡・名勝)
「銀閣寺」の大きな見どころとされる池泉回遊式庭園の、白砂でできた波紋のような「銀沙灘(ぎんしゃだん)」には、月光を反射させて「銀閣(観音殿)」を明るく照らす役目があるとされ、「銀沙灘」の横に並ぶ巨大な盛砂の「向月台」は、東山に昇る月をその上に座って眺めるために作られたと云われている。
この発想こそが、まさに「東山文化」の真骨頂なのだろう。
展望所
「東求堂」の前から見学順路を進んで行くと石段が現れ、それを登り切った高台に展望所がある。
展望所からは「銀閣寺」の全景と京都市街が一望できるのだが、高い塔などで目線を引くのではなく、京都の町を”借景”にした、落ち着きのある境内の佇まいを愛でる。
これもまた、”閑寂な趣”の意味を持つ「侘び」の境地と感嘆した。
お茶の井
展望所へ続く石段の途中に「お茶の井」はあるが、少し分かりにくいかもしれない。
「お茶の井」は、文化人であった「足利義政」がお茶を入れるのに使った湧き水の井戸で、良質の水は今も湧き出ており、現代のお茶会にも使われている。
さて。
ここまでの見学に要する時間は、30分〜40分ほどでおさまると思う。
ゆえに多くの人は、続けて近くにある「哲学の道」を通り、片道2.5キロほどの京都五山の第一位にランクされた「南禅寺」まで足を運んでいる。
それには「侘び・寂び」の観点上、「銀閣寺」に紅葉と桜があまりないことも挙げられるだろう。
「南禅寺」までの観光コースは最後に詳しく紹介するが、「銀閣寺」が世界遺産に登録された理由をより深く理解したい人には、「特別拝観」を観るのもお勧めだ。
特別拝観
残念ながら筆者はタイミングが合わず拝観できていないが、
「銀閣寺」では、期間限定で「特別拝観」というガイドツアーが行われており、通常の拝観料金に2000円の特別拝観料金を加えて申し込めば、普段は見学できない国宝の「東求堂(とうぐどう)」や本堂にあたる「方丈」、そして「弄清亭(ろうせいてい)」の内部見学ができる。
東求堂(とうぐどう)

出典:四国新聞
「足利義政」が保有していた仏様を安置している「東求堂」は、「観音殿」とともに「山荘・東山殿」の造営当初から残る建物で、国宝に指定されている。
「義政」の生活の場でもあった「東求堂」の内部は4つの部屋に分かれており、写真の「同仁斎」と呼ばれる四畳半の間は、現代の茶室の原型と云われている。
方丈
銀閣寺の本堂にあたる方丈は、江戸時代中期の建造物。
方丈の中には本尊である釈迦牟尼仏が安置されており、京都市指定文化財に指定されている「与謝蕪村」と「池大雅」が描いた襖絵(複製)が所蔵されている。
弄清亭(ろうせいてい)

出典:東山慈照寺
「足利義政」がお香を焚いて楽しんだという10畳と6畳の「離れ」になった奥座敷。
平成8年改築され、それに合わせて「奥田元宋(おくだげんそう)<1912~2003>」が3年間かけて制作したという、奥入瀬渓谷の障壁画ほか2点が掲げられた。
銀閣寺の補足情報
1490年の「義政」没後に完成した「東山・山荘」は、遺命によって禅寺に改められ、その後は「慈照寺」として「足利義満」が創建した「相国寺(しょうこくじ)」の塔頭(たっちゅう)寺院のひとつとなった。
「相国寺」は、「同志社大学」の東隣りに建つ臨済宗相国寺派の大本山で、京都五山第二位に位し、「雪舟」ほか多くの学僧を輩出した名刹だ。
現在も「金閣寺」「銀閣寺」の運営と後世への継承には、「相国寺」の僧侶が任期制をもって携わっている。
「足利義政」の死後、「銀閣寺」は室町幕府の衰えと共に衰退し、戦乱に巻き込まれて境内の多くの建物が焼失したが、江戸時代に幕府からの援助を受けて建物が修復され、現在の姿に落ち着いた。
さて、ここから先は”2時間目”(笑)。
「銀閣寺」をより楽しんで拝観していただくために、知っておいて損はないという「足利義政」の人生と、室町幕府を事実上の”死に体”へと追い込んだ「応仁の乱」、そして「金閣寺」に代表される「北山文化」との違いについての話になる。
ただ「そこまではいいや」という人は、ここから以下に進んでいただいて構わない。
むしろ、それが普通かも(笑)。
足利義政

出典:Wikipedia
足利義政
1436年1月20日~1490年1月27日
将軍在職
1449年5月21日~ 1474年1月7日
室町時代の中期から戦国時代初期にかけて在職した、室町幕府第8代将軍で、3代将軍「足利義満」の孫にあたる。
8歳にして家督を、14歳にして将軍職を継いだ「義政」は、近習や近臣とともに親政に取り組むが、先代が招いた悪政に端を発する有力守護の圧力に苛まれていた。
そしてそこに、意図せぬ自らの後継者争いが重なったことから、1467年から1477年までの11年間に及ぶ、「応仁の乱」を招いてしまった。
応仁の乱

出典:プレジデント
全国の諸大名が東西両軍に分かれる形で勃発した歴史的な動乱で、世にいう「戦国時代」の始まりとされている。
「義政」は長年嫡子ができなかったため、出家していた異母弟の「足利義視(あしかがよしみ)」を還俗(げんぞく)させて後継者に据えようとしていたが、その翌年に妻の日野富子が「足利義尚(あしかがよしひさ)」を出産した。
それでも「義政」は義理を守って弟の「義視」に将軍職を譲るつもりでいたが、「義尚」を将軍にしたい奥方は、後ろ盾を新興勢力の「山名宗全」に依頼する。
そのため還俗した「義視」は、筆頭格の守護職である「細川勝元」に助けを求めたことから、全国の大名を巻き込む「応仁の乱」が勃発した。
ただ、世の中の素人歴史解説サイトは、この先の話が抜けている。
当時、足利幕府の守護大名の双璧を成していた「山名宗全」と「細川勝元」は、同じ守護大名「畠山氏」の後継者争いで既に抗争状態にあり、幕府の後継者争いは、まさに”火に油を注ぐ”きっかけとなった。
どっちが次の将軍になるかで、後見人の明日は大きく変わる。
しかもこの機に最大のライバルを潰せば、その後は安泰なのだから、真剣になるのは当然だ。
両軍の武家にすれば、もはや古いお寺がひとつふたつ燃えようが、知ったことではないという話だったに違いない(笑)。
双方で寝返りが相次ぐ混迷を極めた戦乱は、主戦場となった京都の荒廃と、それを抑えられない室町幕府の衰退を招いた。
この時、本来ならこの動乱を鎮める立場にありながら、事実上何もできなかった将軍「足利義政」の心中は、いかがなものだったのだろう。
まさに「侘しさ」「寂しさ」に苛まれていたのではあるまいか…
「義政」は「応仁の乱」最中の1474年に、将軍職から退いた。
以降も大御所として政治には関与し続けたが、「山荘・東山殿」の着工を契機に、自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を追求する世界に身を注いでいった。
「応仁の乱」は、両軍の大将だった「山名宗全」と「細川勝元」の死後に、「足利義政」の子の「足利義尚」が9代将軍を継ぐことで決着を迎えるが、その頃には将軍の威光は地に落ち、いよいよ「戦国時代」が本番を迎える。

出典:NHK
形骸化した室町幕府は、領地も兵力もほとんど持たないまま、ひっそりと約100年後の15代将軍「足利義昭」まで続いていくが、最後は天下布武に成功した「織田信長」により京都から追放されて滅亡する。
このあたりのくだりは、2020年に放送されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、けっこう詳しく描かれていたので、記憶に新しい人もあるだろう。
東山文化
最後は「東山文化」を簡単にご紹介。
「東山文化」を彩る「侘び」とは、飾りを捨てたひっそりとした味わいがあること、「寂び」は古びて趣のあること、そして「幽玄」は趣が深く味わいが尽きないことと解釈され、日本人のDNAに刻まれた独特の美意識に通じるものとされている。
そしてそれらが、「足利義政」が”やるせない人生の中で会得した、悟りの境地”と無関係ではないことは、前述してきた通り確かだと思う。
いっぽう、約80年前の京都では、祖父の室町幕府第3代将軍「足利義満」が築いた、「金閣寺」を象徴とする華やかな「北山文化」が栄えていた。
「足利義満」は、南北朝の統一を果たして足利政権を確立し、明と勘合貿易を開いて室町幕府の全盛期を築いた人物だ。
豊かな財政を背景に「山荘・北山殿(後の金閣寺)」を造営し、鎌倉幕府から続く質実剛健な武士の文化を、雅な貴族の文化に融合させた、時代の成功者といえる。
血縁でありながら、人生の「明」と「暗」を味わったふたりの将軍によって生み出された「北山文化」と「東山文化」は、皮肉なことに両方合わせて「室町文化」と呼ばれている。
銀閣寺の駐車場事情
「銀閣寺」には専用駐車場がなく、公式サイトでは京都市営の「銀閣寺観光駐車場」を紹介しているが、銀閣寺の拝観に必要なのは長くても1時間ほどなので、駐車料金の1040円はさすがにちょっと高く感じる。
京都市銀閣寺観光駐車場
※銀閣寺までは徒歩4分(350m)ほど
普通車1040円/1回
利用時間 8時~17時
収容台数 普通車40台
「白川通り」から「銀閣寺」に至る途中にはコインパーキングもあり、平日や短時間の利用なら安く停められるところもある。
ただし、”全部がそう”とは限らないのが京都というところだ(笑)。
ゆえに何分いくらかを事前によく見てから入庫しないといけないのだが、このあたりは人が多いうえに後続車もどんどん来るので、マゴマゴするのは気が引ける。
筆者のお勧めは、比較的入庫しやすく料金もリーズナブルな、「白川通り」沿いにある「キョウテク 銀閣寺道パーキング」。
「銀閣寺」までは600メートルほど離れているが、「白河通り」の北に向かう車線に面しているので、「南禅寺」方面からアクセスすれば、すこぶる入庫しやすい。
また「銀閣寺」を拝観した後、「哲学の道」から「南禅寺」まで行こうと思う人には、ここがベストの駐車場になる。
その理由は、次の「哲学の道から南禅寺への上手な行き方と戻り方」をご覧いただけばよく分かる。
キョウテク 銀閣寺道パーキング
昼間料金 7時~19時 200円/40分
最大料金800円
普通車16台
24時間営業
哲学の道から南禅寺への上手な行き方と戻り方
「哲学の道」はマップに赤で記した銀閣寺道の「銀閣寺橋」から、「若王子神社」の入口で「冷泉通り」と交差するところまで続く、約1.5キロの琵琶湖流水沿いに敷かれた遊歩道のこと。
その名は、明治・大正・昭和の”動乱の時代”に生きた哲学者「西田幾太郎」が、この道を歩きながら思想にふけったことに由来しており、路傍にある幾太郎の歌碑にはこう刻まれている。
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」
「哲学の道」を歩き終えたら、「若王子神社」の入口から「冷泉通り」に出て市街地に入り、青のルートで紅葉で名高い「永観堂」の前を通り過ぎれば、「南禅寺」の大寂門に到着する。
「銀閣寺」の総門から、「南禅寺」の水路閣までの総延長は約2.5キロ、ゆっくり歩けば45分程度はかかるだろう。
なお「南禅寺」の詳しい話は、以下にまとめている。
ここでは一番大事な帰りの話をしよう。
「銀閣寺」の近くにクルマを置いてきた人は、もはや歩いて戻る気にはなれないだろう(笑)。
運良くタクシーがつかまればいいが、今はそれを期待しないほうがいい。
「南禅寺」から「銀閣寺」に安く確実に戻るには、マップの赤ラインを歩いて500メートルほどのところにある❶「南禅寺・永観堂道」バス停から、市バスの5番系統の国際会議場・岩倉方面行きに乗車し、「銀閣寺道」で降りることだ。
ただし、分かりやすい白川通りを通って「南禅寺・永観堂道」バス停に行くには、途中片側にしか歩道のない狭い場所を歩く必要がある。
そのため筆者は650メートルと少し遠くなるが、歩きやすいブルーのラインで「岡崎動物園」の近くまで歩き、❷の「岡崎法勝寺前」から乗車することにしている。
またこのルートの途中には、「水楼閣」を流れる「琵琶湖疏水」の歴史や構造を詳しく解説している、無料の「琵琶湖疎水記念館」があるので、元気があれば立ち寄って行くこともできる。
いずれにしても、
「銀閣寺道」のバス停は、筆者がお勧めと書いた「キョウテク 銀閣寺道パーキング」の眼の前にある。
実際に実践してみて…
クタクタになった足で、バス停から駐車場まで歩かなくていいというのは、何より嬉しいアドバンテージだった。
「古都京都の文化財」ベストテン
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