日本最古の神社建築が残る、平等院から近い「宇治上神社」の祭神と見どころ及び駐車場をご紹介。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。
~ここから本編が始まります。~
ミステリアスなのは、世界遺産「平等院」との関連性
宇治上神社 DATA
宇治上神社
611-0021
京都府宇治市宇治山田59
☎0774-21-4634
拝観時間:9時~16時30分
拝観料:無料
駐車場:あり(無料)
宇治上神社の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2024.05.18
※「宇治上神社」での現地調査は2024年5月が最新です。
宇治上神社 目次
「宇治上神社」が世界遺産である理由と疑問
誰もが思い描く宇治の世界遺産と云えば、写真の「平等院・鳳凰堂」だと思うが、その「平等院」から歩いて行ける至近距離に、同じく世界遺産「古都京都の文化財」に名を連ねる、「宇治上神社」があることを知る人は、たぶん少ない。
「宇治上神社」が世界遺産に登録される決め手になったのは、察するところ「1060年に建立された、日本最古の”神社建築”と云われる本殿を有していること」だと思う。
ただ”日本最古の神社”なら誰も放っておかないと思うが、それは奈良県桜井市にある「大神神社(おおみわじんじゃ)」であり、京都最古の神社は「上賀茂神社」だ。
それに対して「宇治上神社」は、”建築様式”に歴史的価値があるとされるだけに、インパクトは弱いし、参拝に来たとしても専門的な知識がないかぎり、彼女のように国宝の前をただゆっくり歩いて終わるしかあるまい(笑)。
そうなってはつまらないので、”神社建築”についての簡単な説明から始めよう。
まず「本殿」とは、神霊を宿したご神体を安置している社殿のこと。
ただ”神社建築”では、「本殿」は「拝殿」の奥にあって見えにくいため、一般の参拝者は「拝殿」を「本殿」と勘違いしやすい。
また「本殿」は中に人が入ることを想定していないため、「拝殿」より小さいことが多いのも、その要因のひとつだろう。

神明造(伊勢神宮・別宮の「⾵⽇祈宮(かざひのみのみや)」)
ちなみに我国最古の”神社建築”様式は、「神明造(しんめいづくり)」「大社造」「住吉造」といった直線的な形状の屋根を持つものとされるが、一般的によく見られる様式は「流造(ながれづくり)」だ。
「流造」は「伊勢神宮」の正殿に使われている「神明造」から発展した”建築様式”で、本を伏せたような形の屋根を持つ「切妻造り」で、出入口を屋根の棟と平行する壁に設けた平入(ひらいり)になっている。
古くは1宇の本殿に1柱の神が祀られていたが、現在では1宇の本殿に複数の神が祀られることが多いという。
「宇治上神社」の本殿は、母屋正面の間口が5間あることから「五間社流造(ごけんしゃ ながれづくり)」と呼ばれる大規模な”建築様式”で、 「流造」の本殿の大半が正面3間の「三間社流造」であることから、希少な存在と見なされている。
つまりここまでの話を整理すると、
「宇治上神社」は、正確には『”神社建築”様式の中の「流造」と呼ばれる様式』で建てられた本殿を持つ、”日本最古の神社”というのが正しい。
にもかかわらず、ハンを押したように数多の紹介サイトに書かれた「日本最古の”神社建築”」という表現に、筆者は最初から違和感を覚えていた。
しかし、それより大きな疑問は、
本当にそれだけで、世界遺産登録の理由になり得たのか?
近くの「平等院」には、もっとスケールが大きく、”なるほどね~”と思える登録理由が存在する。
加えて
公式サイトも他の世界遺産とは比べものにならず、個人的には『それならまだ「北野天満宮」のほうが世界遺産に相応しいのでは?』と感じたくらいだ(笑)。
これは、「なにか別の隠された価値があるのでは?」と思わないほうがおかしい。
ミステリー❶
「宇治上神社」と「平等院」の関係
「宇治上神社」は、2004年の「年輪年代法」を用いた測定で、「本殿」は1060年、「拝殿」は1215年に建てられたことが裏付けられたが、未だ誰によって建立されたかまでは分かっていない。
しかし「本殿」が1060年の建築物であることが判明した結果、その直前の1052年に「平等院」を造営している、「藤原頼通」建立説が有力視されるようになった。
この頃の日本では、「釈迦」が死んでから2000年後に「仏法(釈迦の教え)」が衰えて、世の中が乱れるという「末法思想」が広まっていた。
「平等院」はその「末法」からの救済を導く「浄土教」の信仰にもとづき、「極楽浄土」や「阿弥陀如来」を、誰もがその目で確かめられるところとして造られた。
そのため「頼通」は、「平等院」から宇治川を挟んだ右岸に「宇治上神社」を造ることで、左岸に「極楽浄土」、右岸に「現世」もしくは「神の世界」を創り出そうとしたのではないかという説もある。
写真左に見える一際大きな社は、「宇治上神社」の「本殿」東側に建つ、摂社の「宇治上神社春日神社」。
「摂社」とは主祭神と関係の深い神様を祀っている社のことで、「宇治上神社」が「藤原頼通」が創建した「平等院」の鎮守社となったことから、藤原氏の氏神を祀る奈良の「春日大社」から勧請したと云われている。
ただ、「宇治上神社春日神社」の建築年代は鎌倉時代とされており、時代的には100年以上の差異があるため、この説はどこかしっくりこない。
いっぽう、
「本殿」の木材の中には、984年に伐採された木材も使われていることから、「宇治上神社」の「本殿」が建つ以前に、ここには何か別の建物があったのではないかとも考えられている。
確かに「本殿」は1060年だが、縋破風(すがるはふ)と呼ばれる独特の屋根を併せ持つ、寝殿造りの「拝殿」は1215年の建造と、それぞれの建築様式と時期が異なることにも違和感は残る。
いずれにしても
「宇治上神社」の創建には、742年(天平14年)聖武天皇により創建、895年(寛平7年)宇多天皇により創建、さらに醍醐天皇<897年(寛平9年)~930年(延長8年)>の勅によって社殿を建立したのが起源等々、諸説もろもろあるようで、真実は謎のままだ。
ただ、ひとつの神社の境内に、複数の摂社と建築様式が混在して残るというのは、「古都京都の文化財」の「平安時代から江戸時代までの各時代を代表する日本の建築様式、庭園様式、文化的背景を今に伝えている」という推薦条件に該当するとは云えそうだ。
ミステリー❷
「宇治上神社」の祭神

出典:京都新聞
「宇治上神社」の本殿では、向かって右側の左殿に「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」を、中央の中殿に父である「応神天皇」を、左側の右殿には兄の「仁徳天皇」を祀っている。
「日本書紀」によると、父の「応神天皇」は学問に励む「菟道稚郎子」を寵愛し、皇太子にしようと目論んでいた。
しかし「菟道稚郎子」は兄の「仁徳天皇」との皇位継承を巡る葛藤から、宇治で自らの命を絶ったと伝わる。
「宇治上神社」を紹介している大半のサイトは、「山城国風土記」に「宇治上神社」の境内が「菟道稚郎子」の離宮「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」の旧跡であったと記されていることから、その”悲劇の皇子”を大きく取り上げているようだが、むしろここで知っておきたいのは、父親である「応神天皇」の凄すぎるプロフィールのほうだと思う。
応神天皇
「神功皇后」の御子で第15代の天皇。
実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。
「日本書紀」には「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)」の名で登場し、渡来人を用いて国家を発展させたことから、中世以降は軍神「八幡神」として、「伊勢神宮」と肩を並べる格式を持つ大分県の「宇佐神宮」を筆頭に、多くの八幡神社の主祭神として祀られている。
その「応仁天皇」が「仁徳天皇」とともに眠っているのが、2019年に世界遺産となった「百舌鳥・古市古墳群」だ。

出典:歴史文化遺産の楽しみ方in関西
「百舌鳥・古市古墳群」といえば、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓に挙げられる「仁徳陵古墳(大仙古墳)」でお馴染みだが、「応仁天皇古墳」は、それに次ぐ2番目の大きさを誇る。
そして「応神天皇」が登用した渡来人のひとりが、「弓月君(ゆづきのきみ)」。
「弓月君」はその後、京都の太秦に根を張り、「聖徳太子」を信奉するとともに「桓武天皇」を支え、平安京遷都に大きな貢献を果たした「秦氏」の始祖と云われ、その忠義の証と呼べるのが、聖徳太子ゆかりの京都最古の寺院「広隆寺」になる。
ただし
国内で実在が確認できる天皇は、倭王「武」に比定される第21代「雄略天皇」以降というのが定説で、この話のどこまでが史実なのかはよく分からない。
とはいえ、これで「宇治上神社」の祭神が、”ただもの”ではないことがお分かりいただけただろう。
「藤原頼通」だって「平等院」の「鎮守」を任せるなら、このくらいの由緒を持つ神様に任せたくなるのは当然だ(笑)。
祭神のレベルからしても、世界遺産に認定される価値はあるだろう。
ただ不思議なことに、「伊勢神宮」も「宇佐神宮」も、さらには「出雲大社」も世界遺産にはなっていない。
その理由は、世界遺産に登録するために「根こそぎ調べられたら困ることがある」からに違いない(大笑)。
というわけで…
ここまでの話に比べれば、もはや”うさぎがどうのこうの”なんて、どうでもいいことに思えてきたと思う。
「宇治上神社」と「宇治神社」の関係
最後は、「平等院」から「宇治上神社」に向かう途中にある「宇治神社」について。
「宇治上神社」は、かつて近くに鎮座する「宇治神社」と併せて、「宇治離宮明神」あるいは「宇治離宮八幡宮」と呼ばれていたが、明治以降は「宇治上神社」と「宇治神社」に分離され現在に至っている。
その「宇治神社」では、祭神の「菟道稚郎子」が鎮座される際に、一羽の兎が導いたと言う伝承から、「みかえり兎」と称して神の使いに任命している。
ちなみに「みかえり兎」には、道徳に叶った正しい人生の道を歩むよう教え諭してくれるとの伝承もある。
もっとも…
このあたりの話は、江戸時代に「平等院」の御師が、江戸から観光客を呼ぶために作り出した”嘘っぱち”だと思うので、いい大人は真に受けないほうがいい(笑)。
「宇治上神社」のアクセスと駐車場事情
宇治上神社には無料の参拝者用駐車場があるので、マイカーで行くことは可能だ。
「宇治上神社」は「平等院」周辺から孤立した場所にあるため、単独で参拝に行くならそれも悪くない。
ただ、逆に「平等院」周辺と合わせて立ち寄るのなら、クルマは「平等院」に近い「宇治駐車場」に停めて、歩いて周るのがお勧めだ。
誰もが思いつくようなことには、ちゃんと予防線が張られている(笑)。
だってここは、「応仁の乱」以来、よそ者に荒らされまくってきた京都だぜ!
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