車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、洛南に残る平安京都創世記のゆかりの地の紹介です。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。
~ここから本編が始まります。~
「洛南」は、天皇から貴族そして武家へと、時の支配者に塗り替えられていった“京都の縮図”

「平安京」遷都のいきさつ
筆者は「洛南」というより「京都の町」を語るうえで、本来いちばん見落としてはいけない話がこれだと思っている。
ご承知の通り、奈良の都は3世紀後半から4世紀の初頭に「大和」で成立しているが、京都の都はそれが”引っ越してきた”わけで、誕生の経緯がまったく違う。
つまり
なぜゆえに都は、奈良から京都に引っ越して来たのか?
という素朴な疑問が、”平安時代発祥の謎を紐解く糸口”で、その”入口”は奈良と水路でつながる「洛南」にある。
ただその話をここに書くと、長くなってスクロールする指が疲れてしまう(笑)。
ということで別記事に詳細をまとめてあるので、まだ未読の方は、ぜひそこからスタートしていただきたい。
「洛南」は、もともと平安貴族のリゾート地
いわゆる「洛南」でもっとも人気のある観光エリアは「伏見」だと思うが、歴史的観点からすると、「伏見」の見どころは「豊臣秀吉」と「徳川家康」がその晩年に築いた、桃山時代から江戸時代に移行する時期の遺構と、「坂本龍馬」が暗躍し「西郷隆盛」率いる新政府軍が、ついに「倒幕」を成就する幕末の史跡や遺構が有名だ。
だが、実はそれよりもっと興味深く、圧倒的にメジャーな場所が存在することを忘れてはいないだろうか…
それは2つの世界遺産が残る「宇治」。
有名な「平等院」は、もともと「藤原道長」の別荘だった地に建てられているのだが、周辺には1000年を経た今でも往時の雰囲気が残されている。
ちなみに「藤原道長」は、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の中心人物で、宇治は「紫式部」が記した「源氏物語」の舞台でもある。
まずはしっとりとした「宇治」で、貴重な平安時代の名残を楽しもう。
その「宇治」と同じく、貴族達が狩猟や遊興を行う「リゾート地」として、古くから別邸が建ち並ぶ郊外都市としての側面を有していたのが「鳥羽」だ。
今から1200年ほど前の「鳥羽」は、平安京から3キロ南に下ったところに位置し、鴨川と桂川が合流する交通の要衝として注目されていた。
そのため「平安京」造営時には、朱雀大路を延長した「鳥羽の作り道」が敷かれ、「平安京」の外港としての機能を誇っていたという。
そこに目をつけたのが、「白河院(1053~1129)」だ。

出典:京都市埋蔵文化財研究所
「鳥羽離宮」は「白河院」が創建した天皇譲位後に住む御所のことで、「鳥羽上皇(1103~56)」の時代にほぼ完成し、14世紀頃まで代々の上皇の御所として使用されていた。
その当時は東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に、苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいたというが、今は跡地の大半が公園になっている。
見方によっては、現在の「京都御所」よりも歴史的な面白みを感じる「鳥羽離宮」だけに、これではちょっともったいない気がするのは否めない。
実際に「鳥羽離宮跡」で見られるのは、秋の山(築山)の石碑だけなので、わざわざ「ここ」には行く必要はないと思う。
「鳥羽」で、筆者が大いに行くべきと思うのは「城南宮」だ。
ただその前に、ちょっと大河ドラマを交えた歴史の復習しておこう。
白河院(白河上皇)と院政

出典:NHK
「白河院」は、2012年に放送された大河ドラマ「平清盛」を見ていた人には懐かしい人物だろう。
「伊東四朗」が魔王のような形相で好演し、清盛に向かって「この世はワシの世じゃ!」と言い放つシーンは鮮烈だった。
「白河院」は上皇として「院政」と呼ばれる日本独自の政治機構を造り上げた人物で、父・後三条天皇の意思を継ぎ、それまでの藤原家による「摂関政治」を終焉させることに成功した。
摂関政治

出典:NHK
これは2024年に放送中の大河ドラマ「光る君へ」で、詳しく描かれているのでよくご存知の人も多いと思う。
長年に渡って「藤原氏」は一族の娘を天皇家に嫁がせてきた。
そして生まれた男子を早々に天皇に仕立て、幼少の間は娘の父親が摂政、成人してからは関白として政治の実権を握り続けていた。
摂関政治はその「摂政」「関白」の頭文字からつけられた呼び名だが、天皇に嫁がせた娘に男子ができなければ、「藤原氏」の権力の基盤は失われる。
それが170年ぶりに生じたのが、「平等院」を建立した「藤原頼通」と「白河天皇」の父「後三条天皇」の時代だった。
平氏政権

出典:NHK
「院政」は白河上皇-鳥羽上皇-後白河上皇の三代・約100年にわたって続くが、この時期に武家が力を蓄え、保元の乱・平治の乱が勃発する。
そして平家の棟梁となった「平清盛」が、ついに武家政治への扉をこじ開けるのだが、そのいきさつも大河ドラマ「平清盛」でうまく描かれていた。
ちなみにこの当時は、平家の「清盛」も源氏の「義朝(頼朝の父)」も、「鳥羽離宮」の警護を勤めていた。
なお京都における「平清盛」ゆかりの地では、「洛南」から離れた「清水寺」に近い「六波羅蜜寺」が筆頭に挙がる。
鴨川東岸の五条から七条にかけて広がる「六波羅」一帯には、当時「六波羅第」と呼ばれる平家一門の屋敷が数千の規模で建ち並び、軍事拠点になっていた。
城南宮
さて。
「洛南」に残る平安時代ゆかりの見どころで、「平等院」の次にお勧めなのが「城南宮」であることは間違いない。
ただここは同時に幕末ゆかりの地でもあるので、詳細はこちらの記事で紹介する。
ただし、「大いに行くべき」と書いた理由のひとつはここで記そう。
「洛南」は、熊野詣の出発点
世界遺産に登録されて一気にメジャーになった「熊野三山」だが、参詣の歴史を辿ると、「花山法皇」による987年の熊野御幸が最初で、本格化するのは「白河上皇の院政」が始まってからになる。
上皇たちが目指していたのは、この「熊野本宮・大斎原(おおゆのはら)」。
当時は現在の「熊野本宮大社」がこの場所にあった。
鳥羽離宮近くにあった「鳥羽の湊」から舟で淀川を下り、難波津から四天王寺を経て泉州海南、田辺と陸路を進み、熊野本宮に至る長旅は、往復およそ750キロ、所要期間は1ヶ月ほどだったという。
にもかかわらず… 「白河院」は9回もの熊野御幸を行い、続く「鳥羽上皇」は21回、「後白河上皇」に至っては、なんと33回もの御幸を行っているから驚く。
ここで興味深いのは、天皇は熊野を参詣したことがないという話。
起きてから寝るまで様々なしきたりに縛られ、多忙を極める天皇には、1ヶ月も御所を留守にできる時間の余裕はなかった。
それに行くなら、伊勢神宮になるはずだ。
熊野参詣は、そんな天皇職の職務から開放され、権力と富と自由な時間を手に入れた、上皇ならではの「特別な旅」だったのだろう。
命がけとはいえ、それでも上皇たちはきっとウキウキしながら「城南宮」で準備を揃え、旅の無事を祈願したに違いない。
ちなみに「城南宮」のご利益は、方除と家内安全。もちろん上皇の熊野詣と無関係ではないだろう(笑)。
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