車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、伏見城の歴史と今を詳しく紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
伏見城は地震で倒壊、戦で炎上、最後は廃城。今見られれるのは「伏見桃山城運動公園」の疑似天守
伏見桃山城運動公園 DATA
伏見桃山城運動公園
〒612-0853
京都府京都市伏見区桃山町大蔵
☎075-602-0605
開城時間:午前7時~16時
入場料
無料
※城内には立ち入り不可
駐車場
普通車186台
30分¥100
最大料金 全日 一般車 入庫当日¥800
伏見桃山城運動公園の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2010.07.04
2018.03.30
※「伏見桃山城運動公園」での現地調査は2018年3月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2024年5月に更新しています。
伏見桃山城運動公園 目次

伏見城の略歴
結論から云うと、「伏見城」は「豊臣秀吉」により2度、そして「徳川家康」に1度の、都合3度築城されている。
1594年に「秀吉」が最初に築城した「指月伏見城」は、2年後の「慶長伏見地震」で倒壊するが、その翌年の1597年に、近隣の「木幡山(こはたやま)」に「木幡山伏見城」が再建された。
「秀吉」の死後、「木幡山伏見城」は「家康」の家臣「鳥居元忠」が城代となったが、1600年に「関ケ原の戦い」の前哨戦となる「伏見城の戦い」で、西軍に敗れて焼け落ちるが、「関ケ原の戦い」の直後に「家康」により再建される。
しかし1615年の「大坂夏の陣」で大坂城が落城し、江戸幕府の体制が固まった1623年に廃城となり、その役目を終えた。

出典:Wikipedia<洛中洛外図屏風>
それから340年が過ぎた1964年、「木幡山伏見城」の花畑曲輪跡付近に、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園し、桃山時代から江戸時代前期に制作された「洛中洛外図」を参考に、鉄筋コンクリート造の模擬天守「伏見桃山城」が建造された。
とはいえ、それは「大坂城」だって似たようなもので変わらない(笑)。
ただ大きく違うのは、「伏見桃山城」は残念ながら耐震基準を満たしておらず、中に入ることができない点だ。
秀吉が最初に築いた「指月伏見城」
1594年。
天下人となった「秀吉」は、関白の位を甥の「秀次」に譲り、京都の聚楽第(じゅらくてい)を出ると、新たな住まいの建築に乗り出した。
その場所が、平安時代から月の名所であったとされる指月(しづき)だ。
当初は余生を送るための屋敷を建てる予定だったが、「拾丸(後の豊臣秀頼)」の誕生と、朝鮮出兵の講和交渉に明の使節団が来日することになったため、「秀吉」は日本の力を見せつけるべく、大坂城に匹敵するほどの本格的な政治・軍事施設となる伏見城の改築を決意する。
しかし、鳴り物入りで完成した「指月伏見城」は「慶長伏見地震」で被災する。
当時の京都は地震が頻発しており、「秀吉」も地震対策には力を入れていたようだが、「慶長伏見地震」は予想を上回る規模で、天守の上二層が倒壊するほど大きな損害を被ったという。
500名を超える死亡者が出たにもかかわらず、幸いにも「秀吉」は無事で、夜が明けてから北東約1キロのところにある木幡山(こはたやま)に避難。
そしてそこが、新たな「伏見城」建設の地となった。
写真は、今我々が目にすることができる「指月伏見城」の遺構。
地震で倒壊したまま使われなくなり、そのまま埋められてしまったため、ごく最近まで詳細な場所すらわからなかったが、2015年に伏見区桃山町のマンション建設現場から、「指月伏見城」のものと思われる石垣や金箔瓦片などが出土した。
秀吉がこの写真を見たら、さぞ興味を示したに違いない(笑)。
秀吉臨終の地。「木幡山伏見城」
「木幡山伏見城」は、驚くべきスピードで築城されたようだ。
記録によれば「慶長伏見地震」が起きたのは7月、「木幡山伏見城」の本丸が完成したのは同年の10月だ。
異常ともいえるその早さからは、「秀吉」は地震の前から木幡山に城を移す計画を描いていたのではないかという憶測も聞こえてくる。確かに「指月伏見城」は、守りにおいては盤石と言い難かった。
それから4年を経た、1598年8月…
幼い秀頼のことを案じつつ、秀吉は真新しい「木幡山伏見城」で息を引き取った。
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
その有名な辞世の句は、上手いがゆえに悲しく切ない。
「秀吉」亡き後、「秀頼」は遺言に従い「大坂城」に入ったが、それと同時に、「伏見城」の築城と共に聚楽第から伏見へ移り住んできた家臣も大坂へ移り、伏見の城下町は「もぬけの殻」になる。
「木幡山伏見城」を引き継ぎ、巧みに」利用した「徳川家康」
その後釜にちゃっかり納まったのが、「徳川家康」だ。
京都・大阪に睨みを効かすうえで、「このうえない立地」にある「伏見城」を、一滴の血も流さず速やかに手中に収めるあたりは、さすがに老獪というか抜け目がない。
そしてここから「関ヶ原の合戦」へと、時は加速しながら流れていく。
1600年、その前哨戦とも呼べる「伏見城の戦い」が勃発。
家康が会津征伐へ出陣した留守を突いて、「小早川秀秋」「島津義弘」ら豊臣方の武将が、総勢4万の兵を率いて「伏見城」を攻撃。家康の牙城は炎上、そして落城する。

出典:NHK
この戦いは2022年放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」で、長年家康に仕えてきた家臣の「鳥居元忠(音尾琢真)」が、妻「千代(古川琴音)」とともに、わずか2千の兵で抗戦して10日以上伏見城を守り抜き、家康が諸大名を調略する時間を稼ぐシーンとして描かれていたので、記憶に新しい人もあるだろう。
ただそれは、「家康」の”計算通り”のシナリオだった。
元手ゼロ円で手に入れた城を餌に、まんまと「石田三成」を釣り上げてしまうのだから恐れ入る。
天下分け目の戦いを制した「家康」は再び伏見に戻り、落城して焼け落ちた同じ場所に、徳川の「木幡山伏見城」を再建する。
そこでは朝鮮使節団との会見や、自身のみならず息子の秀忠、さらに孫の家光まで、三代続けて征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けており、「家康」が「伏見城」を重要視していたことが伺える。
しかし1615年、その伏見城に”廃城の命”がくだる。
実は同年に、幕府は「一国一城令」を発令している。
発令したのは二代将軍「秀忠」だが、発案者は「家康」だったようだ。
この頃にはもう京都に二条城が完成しており、「家康」は重要視していたことを十二分に家臣に見せしめ終えた「伏見城」を、あえて廃城にすることで、例外を許さない強い態度を示したわけだ。
それにしても、やることなすこと全てにソツがないね。
廃城後、一帯は開墾されて桃の木が植えられ、それが「桃山」という地名の由来になった。
これは意図したことではなかったと思うが、その結果、後世になって「安土桃山時代」という言葉が生まれた。
現在の木俣山伏見城跡
さて、こちらが現在の「木俣山伏見城」跡だが、なんとそこには「明治天皇」が眠る「伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)」が造営されていた。
廃城後の「木俣山伏見城」は奉行所の管理となり、幕末まで立ち入り禁止となっていたが、明治維新後、京都に墓所をと望まれた天皇の遺言に従い、「木俣山伏見城」の本丸跡に1辺およそ60メートル、高さ6メートルにも及ぶ「明治天皇陵」が築かれた。
これもまた「王政復古」の一環だったのだろう。
その「伏見桃山陵」には無料の駐車場が用意されている。
ただし御陵を見るには、この230段を頑張って登り切るか、迂回して延々と坂道を歩くしかない。
もともと立ち入り禁止の「木俣山伏見城」跡だが、天皇陵が設けられたことで宮内庁の管理下となり、ますます全容を知ることは難しくなった。
ゆえに行っても、ほとんど城だった当時の面影は感じられない。
ただ廃城後、「木俣山伏見城」の建材の多くは他の史跡に移築されたことが分かっている。
天守は「二条城」へ、本丸御殿は「徳川大坂城」の仮御殿になったというが、それはいずれも既にこの世にはない。
写真は、現存する「福山城」の伏見櫓。
「福山城」築城にあたり、「木俣山伏見城」の松の丸東櫓を移築して建てられたものだが、江戸幕府の西国鎮衛の使命を持つ「福山城」には、他にも城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀、土塀など、多くの建物が転用されている。
昭和生まれの桜の名所「伏見桃山城」
5重6層の大天守と3重4層の小天守、さらに櫓(やぐら)門を持つ「伏見城」のレプリカが建てられたのは、最初の東京オリンピックが開催された1964年。
「伏見城花畑跡」に造成された遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のランドマークとして、高度経済成長期にふさわしい6億円もの巨額を投じ、鉄筋コンクリートで建造された。
だが時が流れた2003年1月、「伏見桃山城キャッスルランド」は、バブル崩壊の傷跡を引きずる経営母体の「近鉄」によるリストラの一環で閉園となった。
さいわい、模擬天守は市民運動によって保存されることになり、無償で京都市に贈与され、敷地を含めた周辺は「伏見桃山城運動公園」として再整備される。
しかし、模擬天守は耐震基準を満たしていないことから非公開になっており、バリアフリー対応などを含めると、改修には数億円がかかるという。
そのため具体的な改修のめどは未だ立っておらず、たまに映画やドラマの撮影等に活用されている程度。
正直云って、京都市も「持て余している」感じだ。
そういった経緯から、ここはツアーに組み込まれることがない。
由緒ある寺社仏閣が有り余る京都では、いくら桜が見事でも歴史的価値のない「伏見桃山城」のランクは低い。
同時に駅からも離れており、電車利用の観光客からも敬遠される。
しかし地元住民にすれば、鴨川の堤と同様、お花見の場所と歴史的価値がリンクしている必要はない。
桜が豊富なうえに空いていて、広い芝生と安い駐車場、さらにトイレがあれば十分。
つまり、見事に「花見の穴場」の用件を満たしている(笑)。
またそれは、旅慣れたマイカーの旅人にも当てはまる。
「伏見桃山城運動公園」の近くには、十石舟が行き交う宇治川派流の濠川のほか、月桂冠や黄桜の酒蔵、さらには寺田屋や城南宮、御香宮(ごこうのみや)神社といった、「坂本龍馬」や「西郷隆盛」にゆかりの深い幕末の史跡がある。
桜の季節はそれらの観光を兼ねた「休憩地」として、ここは最適だと思うので、できればお弁当を持参して行くといい。
なお、金・土・日曜日の午後7時から午後9時半までは、ライトアップもされる。
車中泊はこちらのサイトを参考に。
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