歴史に精通する、車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、2020年放送の大河ドラマ「麒麟がくる」と、そのゆかりの地に関する情報です。
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
大河ドラマ「麒麟がくる」

2020年放送
”下剋上の代名詞”こと、美濃の「斎藤道三」を主君に、勇猛果敢に戦場を駆け抜け、その教えを胸に「織田信長」の盟友となり、最後は敵として討ち果たす。
多くの群雄と天下をめぐって争う、智将「明智光秀」の生き様に光を当て、その生涯を中心に戦国の英傑たちの運命の行く末を描いた作品。
主な出演者:長谷川博己/本木雅弘/伊藤英明/染谷将太/佐々木蔵之介/川口春奈/石川さゆり/木村文乃ほか
全話のショートムービーはこちら。
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寸評
直近では「どうする家康」でもそうだが、「明智光秀」は戦国時代から安土時代を描く大河ドラマには不可欠な人物だ。
しかし、これほど爽やかに力強く「明智光秀」を描いた作品が、これまでにあっただろうか…
ドラマ全体を通じて配役にも意外性が多く、史実に基づく本格的な歴史ドラマというよりは、フィクション性の高いホームドラマとしては評価に値するところもあるが、「龍馬伝」と同様、最後は俳優の演技力に助けられた作品だったように思う。
「麒麟」というテーマが壮大すぎて、最後は腰砕けになってしまった感は否めない。
「明智光秀」は、通説では美濃国にあった「明智城」の出身で、「斎藤道三」に仕えていたとされているが、決定打となる史料はなく、出生から青年にいたるまでの経歴は不明というのが実態だ。
ただそれでは物語にならないので(笑)、大河ドラマでは「明智氏一族宮城家相伝系図書」という古文書をもとに、「明智光秀」と「斎藤道三」は親戚で、娘の「帰蝶」は幼馴染みに設定されていた。
「光秀」の素性がはっきりしてくるのは、美濃を離れて越前国の一乗谷に本拠を持つ「朝倉義景」を頼ってからで、その後「足利義昭」に仕え、さらに「織田信長」に仕えるようになっていった。
「信長」のもとでは、1571年の比叡山焼き討ちに貢献し、「坂本城」の城主となる。
さらに、1573年の一乗谷攻略や丹波攻略でも功を挙げる。
しかし「信長」との蜜月は長くは続かず、1582年に本能寺の変を画策し、織田家による政権に事実上の幕を引いた。
だがその後に、天王山の麓の山崎で「羽柴秀吉」に敗れ、最期は小栗栖村(現在の京都市伏見区)の竹林で、落ち武者狩りにあったとされているが、その話は100%信頼できるものでもなさそうだ。
そのため、逃げ落ちた後「南光坊天海」と名を変え、「家康」の側近になったという都市伝説もあるし、ドラマではまるで、続編でもするかのようなエンディングになっていた。
もしかしたら、ホントに小栗栖村で死んではいないのかも(笑)。
「麒麟がくる」ゆかりの地
❶本能寺跡
「織田信長」が「明智光秀」に襲撃されて焼失した「本能寺」は、現在の地下鉄烏丸線「四条駅」から、約700メートル・徒歩10分ほどのところにある「京都市立堀川高校」の場所にあった。
ドラマではここで、渡哲也を筆頭に、舘ひろし・吉川晃司・豊川悦司・反町隆史・市川海老蔵、直近では岡田准一など、これまで「織田信長」を演じた錚々たる俳優が「敦盛」を舞い、「是非に及ばず」と言い残して自刃している(笑)。
ただし現在の「本能寺」は、後年に「豊臣秀吉」の手で移転され、当時とは異なる場所に建っている。
とはいえ、歴史ファンが足を運びたいのは、「本能寺の変」があったかつての場所だと思うので、そちらのマップを用意しておこう。
ところで。
本能寺で自刃したはずの「信長」の亡骸が見つからなかったことは、多くの人の知るところだが、実はそれは”伽藍とともに焼失したからではない”ことをご存知だろうか。
驚いたことに「信長」の遺体は、自刃の直後に境内で「森蘭丸」らの手により火葬されて荼毘(だび)に付せられ、「明智」の軍勢が見つけに来る前に、第三者の手で「本能寺」から運び出されていた…

出典:Wikipedia
遺骨を託されたのは、その当時「本能寺」から3キロほど離れた今出川大宮にあった、織田家の菩提寺「阿弥陀寺」の住職「清玉上人(せいぎょくしょうにん)」だ。
謀反の知らせを聞き、数人の供を連れて「本能寺」に駆けつけたが、時遅く「信長」は自刃した後だった。
「清玉上人」は遺骨を集めて衣に包み、脱出する「本能寺」の僧に紛れて「阿弥陀寺」に持ち帰ったという。
織田家との絆が強い「清玉上人」は、「正親町(おおぎまち)天皇」の信頼も篤く、東大寺再建の勧進職にも任じられた高僧で、その後に「明智光秀」と会い、「本能寺」と「二条古城」で討死した100余名の供養を申し出て、遺骸を運び、ともに供養・埋葬したと伝えられている。

出典:朝日新聞
現在も「阿弥陀寺」の墓所には、「信長」「信忠」と織田の一族をはじめ、「森蘭丸」ら家臣の墓石・供養塔が並んでいる。
ただ「清玉上人」は、「本能寺の変」を事前に知っていたのでは?と噂される、「秀吉」からの葬儀の申し出や寄進を断ったため、そのあてつけもあってか、「阿弥陀寺」は1585年(天正13年)の寺町造成の際に、現在の地に移転させられている。
また「信長」の首については、供をしていた「原志摩守宗安」が、わざわざ静岡県の富士山の麓にある「西山本門寺」まで運んで、供養したとの伝承もあるようだが、その時、駿河領主の「家康」は堺におり、浜松まで逃げ戻るのに伊賀越の苦労をしていたことを思うと、ちょっと眉唾のような気もするね(笑)。
いずれにしても、こういう話が付随してこそ、「本能寺跡」はおもしろい。
「麒麟がくる」ゆかりの地
❷山崎古戦場跡
「本能寺」では「織田信長」をまんまと討ち取った「明智光秀」だったが、前述したように「信長」の亡骸を見つけられなかったこともあって、味方を思うように集められず、主君の仇を打つべく、世にいう”中国大返し”で「備中高松城」から駆け戻った「羽柴秀吉」と、天王山で雌雄を決することになる。
しかし現地に行ってみると、「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された石碑が建っているのは、平地にある「天王山夢ほたる公園」で、天王山ではなかった。
筆者の学生時代は、それを「山崎合戦」ではなく「天王山の戦い」と習ったような気がしているが、よく考えてみれば両軍合わせて5万とも云われる軍勢が、狭い山中で戦えるわけがなく、戦場は麓の淀川河川敷だったようだ。
これも史跡のトリビアと云えるだろう。
「麒麟がくる」ゆかりの地
❸亀岡城
さて。
ここからは京都市内を離れ、「明智光秀」が「信長」の命を受けて最後に奉公していた丹波に舞台を移そう。
京都府亀岡市にある「亀山城」は、「光秀」が丹波平定の拠点として築いた城だが、現在は「宗教法人・大本」の本部として、その敷地内に痕跡を残すのみだ。
ただ希望すれば見学は可能。
本丸付近には、安土時代に造られた石垣が現在も残されている。
「麒麟がくる」ゆかりの地
❹福知山城
「光秀」は1579年(天正7年)に、丹波一帯を平定。翌年に丹波国を拝領すると、この地にあった横山城を改築し「福知山城」と改名した。
その後「光秀」は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手するが、そのわずか2年後に「本能寺の変」を引き起こす。
「福知山城」は1873年(明治6年)の廃城令により、石垣と一部の遺構を除く大部分が取り壊されたが、1986年(昭和61年)に、市民の瓦一枚運動などによって天守が復元され、現在は福知山城公園として整備されている。
京都以外に残る「麒麟がくる」ゆかりの地
大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの地は、京都府内よりも岐阜県・福井県、そして滋賀県に多く点在している。
そのため、筆者のようにクルマ旅で辿って行くのに適している。
ここでは時代の古い順に紹介していこう。
明智城(岐阜県)
「明智城」は自然の地形を生かした典型的な中世の山城で、1342年(康永元年)に美濃源氏の流れをくむ「土岐頼兼」が、「明智」に改名すると同時に築き、その後約200年にわたって代々の居城とした可児市の指定史跡だ。
様々な学説を見るかぎり、どうやらここまでは確かなようだが、その「明智氏」が「光秀」の祖先かどうかは、未だはっきりしていない。
ゆえに「光秀」出生の地とされる地域は、今なお6ヵ所もあるわけだ。
だが大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの地として、ここを外すわけにはいかない。
改めてドラマを思い起こすと、脚本を手掛けた「池端俊策」氏の際立った想像力が見えてくる。
岐阜城(岐阜県)
ドラマの前半で、「光秀」が本木雅弘演じる「斎藤道三」に再三呼び出されて登城していたのは「稲葉山城」で、後に「信長」が居城としてからは「岐阜城」と改名し、「天下布武」を唱えた金華山の上に建つこの名城だ。
ただ実際に「斎藤道三」と対面していたのは、山頂に建つ天守ではなく、金華山西麓の槻谷(けやきだに)にあった「道三」の居館で、後に「信長」が大改築を行い、宣教師のロイスフロイスが大絶賛したところだと思う。
ただしここまでの設定は「明智城」と同じく、あくまでも”そうだったのかもしれない”という、NHK得意の脚色の範疇。
それから云うと、「岐阜城」の扱いは「明智光秀」ゆかりの地というより、大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの地と心得ておくほうが妥当かもしれない。
史実では、諸国の戦国大名よりいち早く上洛を果たしたいという「織田信長」の思いを知った室町幕府が、「信長」の力を利用して「義昭」を将軍にさせようとし、幕府の奉公衆であった「細川藤孝」とともに「明智光秀」を動かして、1568年に「義昭」と「信長」の二人を「岐阜城」で会談させようとしていたことがわかっており、実際に「光秀」が足を運んだのは、ずいぶん先のことになる。
称念寺(福井県)
ドラマでは、「光秀」は美濃で「斎藤道三」を倒した嫡男の「義龍」に追われ、越前の「朝倉義景」を頼みに、「称念寺」(福井県坂井市)の門前で寺子屋を営みながら、士官の機会を伺うことになる。
そしてある日「称念寺」の住職が、士官のチャンスとなる、朝倉家の家臣と連歌の会を催す機会を設けてくれるのだが、その時「光秀」にはお金がなく、妻の「熈子(ひろこ)」が黙って黒髪を売り、宴会の費用を工面した。
「称念寺」での連歌の会は、「熈子」の用意した酒肴で大成功に終わり、「光秀」に朝倉家への仕官の道が開かれる。
この話は事実のようで、「称念寺」にはその逸話を題材に「松尾芭蕉」が詠んだ
月さびよ 明智が妻の はなしせむ
~寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう~
の句碑が残されている。
一乗谷朝倉遺跡(福井県)
日本遺産にも登録されている「一乗谷朝倉氏遺跡」は、戦国時代に「朝倉氏」が、5代・103年間にわたって越前を支配した時の城下町跡。
一乗谷城や城下町など278ヘクタールにも及ぶ遺跡は、庭園・武家屋敷・職人屋敷などの町全体が、ほぼ完全な姿で発掘されたことから、当時大きな反響を呼んだ。
余談になるが、
歴史に興味のない人でも、「一乗谷」という地名には聞き覚えはあるかもしれない。
ここは懐かしい「上戸彩」や「樋口可南子」が出演していたソフトバンクの2011年のCMに、「白戸家のふるさと」として登場していた場所だ。
ただ「明智光秀」は、直接「朝倉義景」に士官していたわけでなかったようで、「光秀」自身のゆかりは薄い。
筆者が「一乗谷」を取り上げたのは、ドラマのキーパーソンである「織田信長」との、強い因縁があるからにほかならない。
5代目当主の「朝倉義景」は、13代将軍「足利義輝」が暗殺された後、その実弟である「足利義昭」を一乗谷に迎え入れたが、「義景」は「義昭」が期待した京都上洛にはまったく乗り気ではなかった。
そのため「義昭」は「光秀」の橋渡しで「信長」を頼り、助力を得て上洛することになるのだが、「朝倉義景」は自らが長年面倒を見てきた「足利義昭」を、かすめるように担いで上洛した、新興勢力の「織田信長」に強い嫌悪感を抱く。
その結果、「浅井長政」とともに「信長」と敵対することになり、最後は「信長」に1573年(天正元年)の一乗谷城の戦いで大敗し、城下町ともに灰塵に帰した。
坂本城址公園(滋賀県)
「坂本城」は1571年の「延暦寺」焼き打ちの直後に、「織田信長」の命により「明智光秀」が琵琶湖岸に築いた城で、「安土城」に次ぐ絢爛豪華な城だったといわれているが、1582年の「本能寺の変」の後、「羽柴秀吉」軍の攻撃により落城した。
現在は「坂本城」の場内だったと推定される、2つの場所に石碑が建っている。
ひとつは下阪本の旧北国海道沿いにある「東南寺」付近で、もうひとつは湖岸に作られた公園の前に建っており、公園内には「明智光秀」の像もある。
なお「坂本城」の遺構は、琵琶湖の渇水時に湖中の石垣が姿を現すが、普段は見ることができない。
西教寺(滋賀県)
1571年の比叡山焼き討ちで災禍を被った「西教寺」の復興に貢献したのが、その直後に「坂本城」の城主となった「明智光秀」だ。
「光秀」の菩提寺となった「西教寺」には、ゆかりの品々も数多く残されており、「光秀」本人も妻「煕子」や一族とともに境内で眠っている。
もちろん「光秀」は最期があやふやなので、亡骸がどこに埋葬されたかは分かっていないが、一般的にその墓所とされているのは「西教寺」と、高野山の「奥の院」になるだろう。
ちなみに「奥の院」には、「織田信長」と「豊臣秀吉」の墓もあるので、「麒麟がくる」のゆかりの地と云えなくもない(笑)。
ここはたいへん興味深いところなので、あえて紹介記事をリンクしておこう。
安土城考古博物館(滋賀県)
「明智光秀」にとって「安土城」で語られるべき話は、「饗応役解任事件」だろう。
1582年(天正10年)、念願の武田討伐を果たした「信長」は、同盟相手の「徳川家康」の労をねぎらうために「安土城」に招待するが、その際に「家康」を接待する饗応役として「光秀」が抜擢された。
だが用意した生魚から異臭がすると、「家康」に指摘されて「信長」は激昂。
「光秀」は饗応役から外され、「秀吉」の中国攻めの応援を命じられる。
一般的には、その前から顕著化し始めた「信長」の「光秀」に対する態度の豹変に、この一件が重なったことで、「光秀」の我慢が限界に達し、「本能寺の変」を引き起こしたとの見方が大半だ。
「安土城」は再建されていない遺構のままなので、行っても石垣くらいしか残っていないが、近くに建つ「安土城考古博物館」には、「光秀」が用意したとされる饗応料理のレプリカがある(※ただし「安土城考古博物館」は2024年6月現在リニューアル中で、新規オープン以降も見られるとは限らない)。
ドラマとしては「本能寺の変」の次か、同じくらいよく登場する名場面なので、確かに信長が暴れたほうがリアルではあるとは思うが(笑)、
そもそも魚が傷んでいれば、「家康」に出す前に「光秀」が気づかないとは考えにくく、この話は信憑性が疑問視される「川角太閤記」に書かれているが、「信長公記」にはそのドジな話の記載はないという。
また「家康」が「安土城」を訪れていた時に、「秀吉」は毛利軍と戦っており、「信長」に援軍要請をしていたことから、「家康」の接待よりも毛利攻めを優先したと考えるほうが妥当な気もする。
そうなると「本能寺の変」の大前提が崩れてしまうわけだが、本当の理由はいったい何だったのか…
「どうする家康」では、また斬新な説が採用されていたが、それは「どうする家康」の記事で話すとしよう。
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