大河ドラマと歴史をこよなく愛する、25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、「本能寺の変」直後に「織田信長」が埋葬されたと伝わる「阿弥陀寺」に関する情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
『本能寺の変』で自刃した「織田信長」は、その後密かに近くの「阿弥陀寺」に埋葬されていた…という話。

阿弥陀寺 DATA
阿弥陀寺
公式サイトなし
〒602-0802
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
☎075-231-3538
入山料500円
※6/2のみ堂内拝観可能
9時~16時
駐車場あり(無料)
「阿弥陀寺」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2025.11.15
「阿弥陀寺」での現地調査は2025年11月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2026年6月に更新しています。
阿弥陀寺

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『本能寺の変』に残る2つの疑問

さすがに今さら『本能寺の変』について、一から語るのは面倒なので、ここでは”事件が起こった後の話”から始めたい。

筆者はこの記事を2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」で、いよいよ「秀吉」が中国攻めを始めたばかりの頃に書いているのだが、思っているより展開が早く、もうまもなく「小栗信長」(笑)も、歴代の名優たちの仲間に入る時がやって来そうだ。

出典:NHK
何といっても『本能寺の変』は、”ザ・大河ドラマ”とも呼べるシーンだけに、『関ヶ原の合戦』とともに、なしというわけにはいかないのだろう。
大河ではここで、「渡哲也」を筆頭に、「舘ひろし」「吉川晃司」「豊川悦司」「反町隆史」「市川海老蔵」「岡田准一」など、これまで「織田信長」を演じた錚々たる俳優が、『是非に及ばず』と言い残して自刃している(笑)。
ちなみに『是非に及ばず』とは、「どうしようもない」「もはやこれまで」という意味で、「信長」の口癖だったとか。
有能な家臣「明智光秀」の謀反を前に、覚悟を決めたということなのだろうか。
『是非に及ばず』は、「信長」の側近だった「太田牛一」が記した信頼性が高いとされる『信長公記(しんちょうこうき)』に、実際に以下のように記されている。
『明智が者と見え申し候』と御返答候へば、信長、『是非に及ばず』と御諚候て、内に御入り候ぬ」
それにしても… 今は何でも気になることがすぐに調べられるいい時代だ。
さすがに若者のように人生相談まではしようと思わないが(笑)、AIはこういう仕事には、もはや無くてはならない存在になったと思う。

出典:ウィキペディア
さて。
『本能寺の変』には、2つのミステリーがあるとされてきた。
ひとつは云わずと知れた、『なぜ、明智光秀は謀反を起こしたのか…』だ。
その理由には、信長への不満・怨恨説、四国政策対立説、信長排除による政権再編説など、後世に諸説が唱えられているわけだが、いずれも確固たる証拠はなく、想像の域を出ていない。
つまりこれは、タイムマシーンで当時に戻って「光秀」に直接聞くしか、正解には辿り着けない話であって、大河ドラマでは『脚本家の腕の見せどころ』だ。
もうひとつは、『自刃したはずの信長の亡骸が見つからなかったこと』。
そのせいで、「信長」は生きて本能寺を脱出し、「光秀」討伐の機会を伺っているという噂が広がり、「明智政権」の協力者が増えなかったとも云われている。
「織田信長」の亡骸が本能寺で見つからなかった理由

出典:NHK
結論から云うと、「信長」は確かに「本能寺」で自刃していた。
そして見つからなかった理由は、客観的に判断すると、やはり『本能寺の伽藍とともに灰燼に帰した』というのが、どうやら真相のようだ。
ただ驚いたことに、「信長」の遺体は自刃直後に、境内で「森蘭丸」らの手により火葬されて荼毘(だび)に付せられ、「明智」の軍勢が見つけに来る前に、第三者の手で「本能寺」から運び出されていたという、実しやかな伝承がある。
注目すべきは、その伝承が江戸時代以降に作られたものではなく、『本能寺の変』にかなり近い時期から存在していた点だ。
阿弥陀寺の歴史と概要

「信長」の遺骨を託されたのは、その当時の「本能寺」から3キロほど離れた今出川大宮にあった、「織田家」と深い関わりを持つ「阿弥陀寺」の住職「清玉上人(せいぎょくしょうにん)」だ。
幼少期から僧侶になるため「織田家」で育てられたという「清玉上人」は、「信長」との血縁関係はないものの、兄弟のように精神的な絆が強く、「信長」は上洛の際に、「清玉上人」のために「阿弥陀寺」を創建・整備し、「織田家」の菩提寺のひとつにしている。
「清玉上人」は「光秀」謀反の知らせを聞き、数人の供を連れて「本能寺」に急ぎ駆けつけたが、時既に遅く「信長」は既に自刃していた。
そこで遺骨を集めて衣に包み、脱出する「本能寺」の僧に紛れて「阿弥陀寺」に持ち帰ったという。
「清玉上人」は「正親町(おおぎまち)天皇」の信頼も篤く、東大寺再建の勧進職にも任じられた高僧で、その後に「明智光秀」と会い、「本能寺」と「二条古城」で討死した100余名の供養を申し出て、遺骸を運び、ともに供養・埋葬したとも伝えられている。
ただ、露骨に「信長」の後継者を狙う「秀吉」からの、葬儀の申し出や寄進を断ったため、そのあてつけもあってか、「阿弥陀寺」は1585年(天正13年)の寺町造成の際に、大きく寺領を縮小されて現在の地に移転させられた。
もちろんその際には、「信長」らの墓所も現在の境内へと移されている。

とはいうものの、「阿弥陀寺」の墓所には「信長」「信忠」と織田の一族をはじめ、「森蘭丸」ら家臣の墓石・供養塔が並んでおり、大正時代の1917年に朝廷から「信長」に正一位が追贈された際には、勅使が派遣されて「織田信長公本廟」として正式に公認を受けている。
それもあって6月2日の「織田信長」の命日には、通常非公開の本堂が開放され、貴重な寺宝が拝観できる「信長忌」が執り行われている。
駐車場とアクセス

ありがたいことに、「阿弥陀寺」の境内には無料駐車場が用意されている。
ただ「阿弥陀寺」は「京都御所」の近くにある。

「京都御所」の界隈は、大河ドラマ好きには実に興味深い場所で、まず現在の「京都御苑(御所周りの公園)」は、平安時代には「藤原道長」の屋敷「土御門第」があった場所で、「紫式部」の自宅があったとされる「廬山寺」もすぐ近くだ。

また「京都御苑」から今出川通りを挟んだ向かいにある「同志社大学・今出川キャンパス」は、「八重の桜」の後半の舞台になっただけでなく、江戸時代は「薩摩藩邸」があった場所で、「西郷隆盛」や「坂本龍馬」も出入りをしていた。

なので、こちらの観光バスも入庫できる大きな「京都御苑中立売駐車場」にクルマを停めて、それらと合わせて散策するのも悪くないと思う。
御所の見どころと駐車場については、以下の記事に詳しくまとめているので、行かれる方には参考になるはずだ。
ちなみに公共交通機関で行く場合は、市バス「河原町今出川」下車徒歩約8分。または地下鉄烏丸線「今出川駅」下車徒歩約10分になる。
信長が襲撃された「本能寺跡」

「本能寺」も後年に「秀吉」の手で移転され、当時とは異なる場所に建っている。
こちらが現在の「本能寺」。
「織田信長」が「明智光秀」に襲撃されて焼失した「本能寺」は、現在の地下鉄烏丸線「四条駅」から、約700メートル・徒歩10分ほどのところにある「京都市立堀川高校」の場所にあった。

歴史ファンが足を運びたいのは、『本能寺の変』があったかつての場所だと思うが、こちらには専用駐車場がないので、確認できた最寄りのコインパーキング「タイムズ西洞院錦」を紹介しておこう。
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