大河ドラマと歴史をこよなく愛する、25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、京都にある「豊臣秀吉」の本廟「豊国廟」と「豊国神社」に関する情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「豊臣秀吉」が眠っているのは、大阪ではなく京都。

豊国廟・豊国神社 DATA
豊国廟
公式サイトなし
〒605-0926
京都府京都市東山区今熊野北日吉町
現地電話なし
入山料100円
8時30分〜17時
無休
駐車場あり(1回500円)
豊国神社
〒605-0931
京都府京都市東山区茶屋町530
☎075-561-3802
参拝のみは自由で無料
宝物館
おとな500円
9時~16時30分
無休
「豊国廟」は「豊国神社」の飛び地境内だが、約2キロ離れたところにあるため、歩いて行くにはいささか遠い。
専用駐車場があるのでクルマでの移動がお勧めだ。
「豊国廟・豊国神社」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2026.03.19
「豊国廟・豊国神社」での現地調査は2026年3月が最新です。
豊国廟・豊国神社 DATA

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豊臣秀吉の意外な晩年

「豊臣秀吉」は大阪のイメージが強く、よもや京都にお墓があるとは思わなかった。

「大阪城」の隣には、立派な「豊國神社」だって建っているし、辞世の句も
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢
だもの。

いやいや、それはあんたが日本の歴史をよく知らないだけだよ!
歴史の「マニアさん」にそう云われてしまえば『身も蓋もなくなる』のだが(笑)、
何を隠そう、筆者もつい最近までそう思っていた中のひとりだった。
ということで、
少し「秀吉」の晩年を振り返ってみよう。

「羽柴秀吉」が「大坂城」の築城を開始するのは、「信長」亡き後の「賤ヶ岳の戦い」で、「織田家」の筆頭家老「柴田勝家」を破った約半年後の1583年(天正11年)9月だ。
その背景には、「信長」の生前から大坂の地の利を理解し、「織田家」の跡目を決める「清須会議」において、その大坂を手中に納める用意周到な企てがあった。
そして関白に就任した1585年に、計算通りそれまでの近江「長浜城」から「大坂城」に本拠地を移している。
その後、朝廷から「豊臣」姓を賜った「秀吉」は、1586年2月から京都の政庁兼邸宅となる「聚楽第」の造営に着工し、翌1587年9月に完成すると、九州征伐を終えた後で大坂城から移り住み、以降は京都で政務を行うようになった。
「秀吉」は1591年に、関白職とともに「聚楽第」を甥の「豊臣秀次」に譲ると、一度「大坂城」に戻る。
しかし翌年には隠居のための屋敷として、「伏見城」の築城に取りかかった。
完成後は、途中に1594年の地震で被災した「伏見城」の移転を挟むものの、亡くなる1598年まで京都の南で暮らしている。
ということは、実質的に大阪にいたのは1583年から1587年までの5年間だけ。
天下統一を果たして以降の、1587年から1598年の12年間は、ほとんど京都が活動の舞台だったことになる。
ではその12年間、「秀吉」は京都で何をしていたのだろう。

その前に…
「秀吉」の人生で見ていて楽しいのは、やはり1590年に「小田原成敗」を果たして天下統一を完成させるまでの、「水攻め」や「一夜城」といった、ど派手な戦のパフォーマンスだと思う。
特に伏見に移った「秀頼」誕生以降は、老害が始まって人心が離れ「裸の王様」と化していくだけなので、大河ドラマでは「軍師官兵衛」と「どうする家康」では描かれていたが、視聴者もそこにはあまり期待をしていないはずだ。
ゆえに描かれない(笑)。
視聴率を考えれば、「本能寺の変」から「天王山の戦い」あたりに、目一杯番組の尺を使うのは当然だろう。
特に「豊臣兄弟」は、主人公が「秀吉」より先にこの世を去る「秀長」だけに、なおさら京都の話は短いと予想される。
豊臣秀吉と京都

だが関白職についた「秀吉」は、大阪ではなく京都を「天下の中心」として整備・支配するために、十分語るに値するだけの、政治・都市計画・宗教・儀礼の各面にわたる大規模な事業を行っている。
主なものを紹介すると、
京都の都市改造改革

まず、外敵や洪水から京都を守るために、京都の町を「上京」と「下京」に分け、その周囲を「御土居(おどい)」と呼ばれる土塁と堀でぐるりと囲み、近世京都の都市構造の基礎を築いている。
その背景には都市の範囲を明確にし、流通・税制・治安を管理しやすくする狙いもあったとされている。
京都の街路改造

続いて「秀吉」は「天正地割」と呼ばれる、「御土居」の中の町割りを大規模に整理して、道路の拡張と整備、町の区画整理、寺院の移転・集約などを行い、城下町的な都市構造を導入している。
これにより、近世京都の基本的な街路構造が形成されたとされ、「うなぎの寝床」と呼ばれる京都の町家は、秀吉のこの町割政策と深く関係していると云われている。
水運ネットワークの再構築

宇治川の流れを変え、「巨椋池(おぐらいけ)」を干拓・整備して水路を整備。
これにより、大阪や京都、伏見、宇治を結ぶ物流網を飛躍的に発展させ、「伏見城(指月城・木幡山城)」とその城下町を、京都の政治・経済の中心に据えた。
それ以外にも、太閤検地(全国的な土地・収穫量調査)・刀狩(農民から武器を回収)・身分秩序の固定化(武士と農民の分離)商業の保護と流通統制などを、京都から全国に派生させている。
このあたりは学校で習ったので、覚えている人もあるだろう。
そのいっぽうでは、
豪華絢爛な「聚楽第」を御所の近くに建設して都人の度肝を抜き、「北野天満宮」で身分を問わず誰でも参加できる「北野大茶湯(北野大茶会)」を催したり、「醍醐寺」で京都の春を愛でる「醍醐の花見」を行うなど、これまでの公家にはないフレンドリーな一面も見せている。
いずれにしても、
この時代に「秀吉」が京都に残した文化やインフラは、その後の江戸時代、そして現代の京都の基礎になっている。
ここまで手をかければ、没後は大阪ではなく京都で眠りたいと思うのも無理はない。
豊国廟・豊国神社の経緯

そのようなわけで、「秀吉」は1598年に「伏見城」で死去する直前に、遺体を京都東山の「阿弥陀ヶ峰」に葬るよう遺言を残した。
その結果、山上に墓所、山麓に社殿が築かれ、「後陽成天皇」からは「豊国大明神」の神号を与えられている。
もちろん天下人たる「豊臣秀吉」が、感情だけで京都を選ぶはずはなく(笑)、そこには『したたかな狙い』があったと後年の研究者は考えているようだ。
まず当時の京都は天皇と朝廷の都であり、そこに公認された墓所を構えれば、自身が天下人であった正統性が永遠に刻まれ、1代で築き上げた「豊臣家」の威光を、溺愛する「秀頼」に引き継ぐことができる。
そしてそれが、豊臣配下の諸大名に忠誠を誓わせ、最大の政敵「徳川家康」を牽制する”武器”にもなる。
そのため「秀吉」は、生前から自らを死後に神格化する構想を持っていたという。
「御所」をも見下ろす東山の高台「阿弥陀ヶ峰」は、「豊国大明神」が鎮座するに相応しい聖地とみそめていたのだろう。
しかし「徳川家康」は、その「秀吉」の野望を”木っ端微塵”に打ち砕いた。
1615年の「大坂夏の陣」で「豊臣家」を滅亡させた後、徳川家康は「豊国神社」と「豊国廟」を徹底的に破却し、天皇が認めた「秀吉」の神格化を覆して、代わりに「自身」を日光山で「東照大権現」に祀り上げた。
その結果「秀吉」の墓所である「豊国廟」は放置され、実に250年近くもの長きにわたる荒廃を食らわされる。

出典:BUSHOO!JAPAN
しかし時代が変わった慶応4年(明治元年・1868年)、大阪へ行幸した「明治天皇」が、『天下統一を果たしながらも、幕府を開かずに天皇を尊重し、国家のために大勲労のあった「秀吉」を復興せよ』との勅命を下したことがきっかけとなり、再興への扉が開かれる。
ちなみに、この時「明治天皇」は14歳。
今の中学生にあたる少年に、そんな大人染みたことが思いつくかな?(笑)。
『徳川嫌いの薩長藩士の”差し金”』のようにも思えるのだが、喜んだのは同じく徳川家に積年の恨みを持つ、豊臣由来の人たちだったのは間違いあるまい。
当初は大阪への造営が予定されていたらしいが、京都の人々の熱心な要望もあり、1873年(明治6年)に「豊国神社」は正式に国の神社(別格官幣社)に指定され、1880年(明治13年)に旧方広寺大仏殿跡地に現在の社殿が完成した。
なお「阿弥陀ヶ峰」の「豊国廟」は、それから少し遅れた1897年(明治30年)に、大改修を受けて整備されている。
現在の豊国廟

ここでは分かりやすい「豊国廟」の話を先にしよう。
「豊臣秀吉」の遺骨が収められた「豊国廟」は、現在の「豊国神社」から約2キロ離れた飛地境内(境外地)となる、「阿弥陀ヶ峰」の山頂に残されている。
1599年の創建当時は、ここに土葬された墳墓があり、その上に豪華な社殿(廟屋)が建立されていたという。
前述したように「豊国神社」は「徳川家康」によって破却されており、「豊国廟」の社殿についても「家康」は全面破却を命じたが、「秀吉」の正室「高台院(北政所)」のたっての願いによりそれは回避された。
しかし、以後一切修理をすることは禁止じられ、朽ち果てるまま放置され続けた。
ただそのおかげで、「豊国神社」は当時の場所とは違う現在地に移転再建されているが、「豊国廟」は今でも当時のままの場所にある。

ただし、この石造五輪塔と563段の石段は、明治の再建時に作られたものだ。

一直線に伸びる急な石段は、けっこうハード。特に濡れた日は滑りやすそうなので、帰りほど注意が必要だと感じた。

そして上の石段に続くこのあたりが、かつての壮麗な「豊国神社」があった「太閤坦(たいこうだいら)」で、今は駐車場になっている。
観光バスも停まっているので、キャンピングカーでもここまで来れる。
今記した数行は、本当にクルマで行きたい人には欠かせない話なのだが、筆者が行く前に確認した多くのネット上の記事には、その情報を載せてくれているサイトは見当たらなかった。
ということは、「豊国廟」の記事をアップしている人たちは、みんな公共交通機関と徒歩でここまで来ているのだろうか…
しかも「太閤坦」の正確な場所すら示せていないのが大半で、云わばほとんどが「受け売り」の情報だ。
それならひとつあれば十分だ。
歴史的にはこの「太閤坦」こそが、秀吉の死後に日本初の権現造りとなった「豊国社(とよくにのやしろ)=豊国神社」が建てられていた場所で、本殿や舞殿などの社殿群が並び、山頂の墓所(現在の五輪塔)を拝する空間だったとされている。
しかし「徳川幕府」の役人も、何でもかんでも云われるままに豊臣のものを壊すだけでなく、その前に気を利かせてイラストの1枚でも残しておけ!って感じ(笑)。
おかげで我々は、その再現CGIすら目にすることができない。
現在の豊国神社

最後は「三十三間堂」のすぐ近くにある現在の「豊国神社」についてだが、読み方は「トヨクニ神社」でも「ホウコク神社」いいらしいが、地元では「ホウコクさん」の名で親しまれているようだ。
ちなみに「豊国神社」は全国に14社あり、大阪城の隣には漢字が異なる「豊國神社」が建っている。
同じ漢字を当てる「トヨクニ神社」は全体の9社にあたるらしいが、もちろん京都が両方合わせた中の総本社だ。

ちなみに「豊國神社」は、明治時代に京都の「豊国神社」の別社として創建されたが、現在は独立しており、「秀吉」に加えて息子の「秀頼」や弟の「秀長」も一緒に祀られている点が、京都と異なっている。

さて。
「豊国神社」で一際目を引くのは拝殿の前の「唐門」で、「西本願寺」「大徳寺」の「唐門」と並び、国宝三唐門のひとつに数えられている。
この「唐門」は「伏見城」の遺構と伝えられ、「二条城」「南禅寺金地院」を経て、ここに移築された。
ただし「唐門」の中に入れるのは、正月三が日だけ。
拝殿の右側には、秀吉の正妻の「高台院」こと「寧々(北政所)」を祀る「貞照(さだてる)神社」もあるのだが、外からはほとんど確認できなかった。

なお、「豊国神社」の絵馬は「秀吉」の馬印である「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」を型どっており、百姓から関白にまで上り詰めた「秀吉」の生涯にあやかり、出世開運・仕事運・商負運・勝負運にご利益があると云う。
分かりやすいが、たぶん「豊国大明神」となった「秀吉」本人にとっては、どうでもいいことだったと思う(笑)。

いっぽうこちらは「宝物殿」だ。
中には遺品の太刀や唐櫃の他に、七回忌の様子を描いた「狩野内膳」筆の「豊国祭礼図屏風」などが展示されている。

だが、如何せん建物が古びていて、『この中に、本当に貴重なものを展示していて大丈夫かいな』という感じがした(笑)。

なお「豊国神社」には境内に駐車場(約15台)があり、参拝者は社務所で受付をしてキーを預ければ、無料で利用できる。
なので、宝物殿の料金は駐車場代と思えばいいと入ってみたのだが、それでも500円は高いと思った(笑)。
最後に。
実はここには、歴史好きには見落とせない”いわく付きの代物”がもうひとつある。

隣接する「方広寺」は、1595年(文禄4年)に「豊臣秀吉」が創建した寺院で、当時は「東大寺の大仏」を凌ぐ大きさを誇る木製の「京の大仏」が安置されていた。
しかし1596年の「慶長伏見地震」で大仏が損壊したことに「秀吉」は怒り、翌年に初代大仏を破却・撤去。
のちに「秀頼」が再建に着手するが、1602年の失火で初代大仏殿もろとも灰燼に帰してしまった。
そこで「家康」は、「秀頼」と「淀殿」に大仏と大仏殿の再建を勧める。
ただし狙いは、信仰とは縁遠い豊臣の財力を弱めるためだったと云われている。

その時に作られたのがこの高さ4メートルの釣鐘だが、そこに僧侶「清韓文英(せいかんぶんえい)」によって刻まれた文字が、「家康」に「大坂城」を攻める格好の口実を与えてしまった。
国家安康
君臣豊楽
「家康」曰く、『「国家安康」は「家康」の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣氏を主君として天下を楽しむということを暗示しており、徳川が滅んで豊臣の世になれという意味が込められている。』
問題となった八文字は、今は白く囲まれ、双眼鏡があれば確認できる。
実際にこの「方広寺鐘銘事件」がきっかけで「大阪の陣」が起こり、「豊臣家」は滅亡に至るわけだが、今になって思えば、もはや「家康」にとって、「大坂城」に攻め入る理由は何でも良かったのだろう。
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