この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
1830年(天保元年)
8月4日、藩士杉百合之助の次男として萩松本村に生まれる。
1834年(天保5年) 5歳
山鹿流兵学師範の叔父、吉田大助の仮養子となる。
1835年(天保6年) 6歳
吉田大助の急死により吉田家の家督を相続する。
1839年(天保10年) 10歳
藩校明倫館で初めて山鹿流兵学を教授する。
1840年(天保11年) 11歳
藩主毛利敬親の御前で「武教全書」を講義する。
1848年(嘉永元年) 19歳
藩校明倫館の独立師範となる。
1849年(嘉永2年) 20歳
御手当御用内掛(海防掛)に任命され、藩内の日本海沿岸の防備を調査する。
1850年(嘉永3年) 21歳
九州遊学のため萩を出発。長崎、平戸、熊本を訪れ、平戸藩では葉山佐内、肥後藩では宮部鼎蔵を訪ねる。
1851年(嘉永4年) 22歳
藩主に従って江戸へ赴き佐久間象山らに入門する。東北遊歴に関所手形を持たずに出発し、脱藩となる。
1852年(嘉永5年) 23歳
現在の福島、新潟、佐渡、青森、岩手、宮城、栃木を巡り、江戸に戻る。
藩より帰国命令が出され、萩に帰り杉家自宅で謹慎。
その後、脱藩の罪により藩士の身分をはく奪され、父である杉百合之助の育(はぐくみ)となる。
1853年(嘉永6年) 24歳
藩命により、2回目の江戸幽学(諸国遊学)に出発する。
黒船来航を知り、浦賀へ。その後、江戸を出発し、ロシア艦隊の来航した長崎へ向かう。しかし、松陰が長崎に到着する前にプチャーチン率いるロシア艦隊は長崎を去ってしまう。
1854年(安政元年) 25歳
下田にて、金子重輔(かねこしげのすけ)とともにペリー艦隊へ乗船し、密航を画策するも失敗。海外渡航の罪を自首し、下田の牢屋を経て、江戸の伝馬町牢獄に監禁される。その後、金子重輔とともに江戸から萩へ送還。松陰は野山獄へ、金子は岩倉獄へ投獄される。
野山獄で、後に松下村塾の教授となる富永有隣と出会う。
「二十一回猛子」の号を使用し始める。
1855年(安政2年) 26歳
野山獄を出獄し、生家の杉家で蟄居の身となる
1856年(安政3年) 27歳
杉家の幽囚室で教授を開始
1857年(安政4年) 28歳
野山獄で出会った富永有隣を松下村塾の教授として招く。
納屋を改修して塾舎とし、松陰主宰の松下村塾を開く。
高杉晋作が松下村塾の塾生となる。
妹・文が久坂玄瑞と結婚。
1858年(安政5年) 29歳
塾生の手で松下村塾の増築工事を行う。
老中・間部詮勝を待ち伏せて討つ計画を立てる。
藩より謹慎を命じられ、松下村塾が閉鎖される。
萩・野山獄へ再入獄を命じられる。
1859年(安政6年) 30歳
江戸へ護送、斬刑となり生涯を閉じる。