25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、古代からの歴史を持つ岡山県のメイン観光エリア「吉備路」の車中泊旅行ガイドです。
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この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づき、全国各地の「クルマ旅にお勧めしたい観光地」を、「車中泊旅行者目線」からご紹介しています。

~ここから本編が始まります。~
「吉備路」は、古代からの歴史を持つ岡山県発祥の地

吉備路の筆者の歴訪記録
※記録が残る2007年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2007.11.12
2009.11.21
2012.05.11
2013.03.11
2015.10.10
2016.12.03
2022.04.20
2025.12.28
「吉備路」での現地調査は2025年12月が最新です。
吉備路 車中泊旅行ガイド

吉備路のロケーション

現地でよく目にする「吉備路」とは、岡山市から総社市、倉敷市にまたがる、「古代吉備国(きびのくに)」に関係する歴史・文化・遺跡が集中する地域の総称だ。
明確な一本の道路名ではなく、歴史的景観・遺跡群を結ぶエリアを表す、観光・歴史用語として定着している。
マップを見れば一目瞭然だが、「吉備路」はまさに『岡山県観光のストライクゾーン』と云えるわけだが、それには古代に端を発する大きな理由がある。
「ヤマト王権」が恐れた、先進文明国家「吉備国」

出典:きびのくにねっと
弥生時代から古墳時代にかけて、この地で栄えた「吉備国(きびのくに)」は、現在の岡山県全域と広島県東部を含む広大な地域を支配した日本有数の地方国家で、「大和」「筑紫」「出雲」と並ぶ古代日本の四大王国のひとつとされている。
肥沃な平野と瀬戸内海の恵みを背景に、巨大古墳の築造や朝鮮半島との交流を通じて発展し、長きに渡って「ヤマト王権」と共に歩んできたが、5世紀後半の「雄略天皇」の時世に、中央集権化を図りたい「ヤマト王権」と対立する(吉備の反乱)。
その結果、武力衝突が起こり、戦いに敗れて勢力を奪われた「吉備国」は、軍事的制圧を受けて7世紀後半の奈良時代に、「備前」「備中」「備後」「美作」の四国に分割されて歴史を閉じた。
分国の理由は「吉備国」の強大な勢力を弱体化させるためだったと考えられており、現在の岡山市内にある精神的聖地であった「吉備の中山」を分割する形で、東側が「備前国」、西側が「備中国」となった。

国家としての「吉備国」は消滅したが、その後の奈良時代には吉備出身の「吉備真備(きびのまきび)」が、また平安時代には「和気清麻呂(わけのきよまろ)」が朝廷で活躍し、吉備の文化的・政治的影響力の高さを示している。

出典:日本遺産ポータルサイト
「吉備真備」は、遣唐使として渡航し、約17年間滞在して当時最先端の学問を修得後、帰国して「聖武天皇」「孝謙天皇(称徳天皇)」のもとで、右大臣(現在の副首相クラス)として日本の国家運営を「学問で支えた」人物」だ。

また「和気清麻呂」は、奈良時代後期から平安時代初期に活躍した貴族で、苦難を乗り越え、悪僧「道鏡(どうきょう)」の天皇即位を阻止した「宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)」で知られている。
そのことから、「忠義の鑑」「日本の皇室を守った人物」と称賛され、その後は平安京の造営にも深く関わった。
「和気清麻呂」の2つの功績については、以下の記事で詳しく触れているので、興味があれば後ほどぜひご覧いただきたい。

いっぽう室町時代から江戸時代には、姫路から九州へ向かう交通の要衝として、「日生(ひなせ)」や「下津井」などの良港が栄え、「宇喜多氏」「池田氏」が治めた「岡山城」を中心に城下町が発展する。

また江戸時代に天領とされた「倉敷」は、米・綿・塩・干物などの集散地として発展し、明治・昭和・そして現代へと独自の道を歩んできた。
かくして古代から現代に至るまで、その地理的・文化的優位性を活かしながら、歴史の荒波を乗り越えてきたこの地からは、『「吉備国」の優れたDNA』を感じざるを得ない。
吉備の反乱

造山古墳 出典:岡山観光WEB
少し話は遡るが、全盛期の「吉備国」は鉄資源の確保や高度な造船技術、製鉄技術を持ち、畿内の「ヤマト王権」を脅かすほどの強大な勢力を誇っていた。
「吉備の反乱」は、5世紀後半に「吉備国」が「ヤマト王権」に対して起こしたとされているが、現代ではそれは「吉備国」の勢力を削ぐための口実だったとされており、「ヤマト王権」側が仕掛けた歴史的転換点と見なされている。
桃太郎伝説の真相

そしてここから、史実が伝説に化けていくわけだが(笑)、結論から先に云うと、話は3段階に分かれている。
まず「吉備国」と「ヤマト王権」の戦いは、「吉備国」の大将「温羅(うら)」を、「ヤマト王権」から派遣された「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が打倒するところまでが史実だ。
「吉備津彦命」は、「孝霊天皇」の皇子「五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)」として歴史書に登場する皇族で、実在人物であった可能性が高いが、「温羅」は実在不詳で、そのモデルとなった人物は、実は百済から来た渡来人で、製鉄などの先進技術をこの地に伝えた技術者・武装集団の長であったとも云われている。
そしてその戦いが、「吉備津彦命」の「温羅」征伐の伝説として語り継がれる。

出典:妖怪リアル図鑑
「温羅」は鬼のような形相の巨人で、住民の物を奪ったり人を釜茹でにしたりの悪行を繰り返したため、朝廷は「吉備津彦命」に討伐を命じた。
激しい闘いが始まったが、二人の射る矢はことごとくぶつかって落ちてしまう。
そこで「吉備津彦命」は一計を案じ、同時に二本の矢を放った。すると一本の矢は「温羅」の矢に当たって落ちたが、もう一本の矢は「温羅」の目を射抜いた。目からは血がどくどくと流れ、血吸川という川になった。
「温羅」はキジに姿を変えて逃げ、「吉備津彦命」が鷹になって追いかけると、今度は「温羅」は鯉になって自らの血が流れる血吸川に逃げ込んだが、「吉備津彦命」は鵜になってこれを捕まえ、ついに「温羅」の首を刎ねた。
しかしそれでも「吉備津彦命」と「温羅」の物語は終わらない。
「温羅」の生首は、死してもうなり続け、骨になってもまだうなるので、頭蓋骨をかまどの下に埋めたところ、「吉備津彦命」の夢に「温羅」が現れ、「わしの妻に、この釜で神饌を炊かせよ。幸福が訪れるなら釜はゆたかに鳴り、不幸が訪れるなら荒々しく鳴るだろう」と告げた。

つまり、釜を炊き、その時鳴る音で吉凶を占うということだが、これが「吉備津神社」に残る「鳴釜神事」の始まりで、この神事は現在も行われており、一般の人も希望すれば受けることができるという。
そしてこの吉備平定の伝承が、現在の「桃太郎伝説」へ受け継がれていく。

出典:廣榮堂
おとぎ話としての「桃太郎」は、室町時代に「御伽草子(おとぎぞうし)」として成立し、江戸時代にストーリーが標準化されて広く普及した。
そのストーリーが、川を流れてきた大きな桃から生まれた桃太郎が、村を荒らし悪さをする鬼と戦うために、道中で家来となった犬、猿、雉とともに鬼を退治するというお馴染みの話だ。
ちなみに桃太郎の名の由来となった桃は、晴天が多く温暖な気候に恵まれた吉備の地では、古くから栽培されていた。
また桃太郎が犬、猿、雉を従えるために与えた「きびだんご」の原料の黍は、吉備の地名に由来すると云われ、江戸時代から吉備津神社の門前で売られてきた。
最後は桃太郎の家来が、なぜ犬・猿・雉なのかという理由だが、鬼に勝てる思想的な相性・戦闘での役割分担の合理性・霊的に力のある動物・語りやすさ・覚えやすさなど諸説諸々で、はっきりした「唯一の正解」があるわけではないとのこと。
いずれにしても、岡山の気候・風土・歴史と、「温羅」征伐の伝説が密接に結びつき、桃太郎は吉備の地で生まれたと考えられているようで、ここまでの話は、『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』として日本遺産にも登録されている。
さて。
ここからは、そんな吉備路に残る史跡の紹介に移るのだが、その筆頭にはやはり「吉備津彦命」と「宇羅」の伝説に関わる「吉備津神社」が相応しいと思う。
吉備津神社

国宝に指定されている本殿・拝殿を持つ「吉備津神社」には、大きなミステリーが潜んでおり、それを解決することが本質を理解するための近道になる。
前述したように、5世紀後半に「ヤマト王権」との友好関係が崩れ、中央に抗う「吉備国」を制圧するために送り込まれた「吉備津彦命」が、「吉備国」の王である「温羅」を討ち果たし、それを機会に建てられたのが「吉備津神社」建立の真相だ。
しかし、よほどの悪政を行っていないかぎり、自分たちの国王が征服者に討たれて喜ぶ領民がいるのだろうか?
いくら「ヤマト王権」が、立派なお社を建ててくれたとしても、敵を祀る神社をありがたがって参拝するとは、とてもじゃないが思えない…
以下の記事には、その答えが明快に記されている。
鬼ノ城

「桃太郎伝説」によると「鬼ノ城」は「鬼」の棲家で、ここが物語の舞台になっているのだが、実は史実では「桃太郎伝説」とはまったく無関係で、伝説が生まれるよりも、はるか以前からこの地に築かれていた『日本の防衛基地』だった。
吉備路に残る戦国時代の2つの名城

ここからは「吉備路」というより、「備中」と呼ぶほうがフィットするところもあるのだが、この地には「桃太郎伝説」ゆかりの地以外にも、歴史ファンなら誰もが知る、戦国時代に”難攻不落”を誇った名城が残されている。

ひとつは、天守が残る日本唯一の山城で、「現存12天守」及び「日本100名城」に認定されている「備中松山城」で、晩秋から早春にかけて、雲海にその天守が浮かんで見えることでも有名だ。

もうひとつは、「羽柴秀吉」の軍師「黒田官兵衛」の奇抜な「水攻め」により、沼に取り残されて落城した「備中高松城」で、その城趾一帯が公園として整備され、「水攻め」の遺構とともに続日本100名城に選ばれている。
いずれも単なる史跡ガイドにとどまらず、観光という視点から「トリビア」を交えて紹介しているので、特に大河ドラマを見ている人には、ぜひ記事をご覧になってから、現地を訪ねていただきたい。
幕領地として栄えた吹屋

最後は、備中でもかなり山深い高梁(たかはし)地区に残る重伝建をご紹介。
幕領地として銅鉱山を営んでいた「吹屋」の町は、幕末以降ベンガラの産地として繁栄した。
赤褐色のベンガラは、防虫・防腐の機能性から家屋の外壁塗料にも適しており、外観が統一されたその町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
「旧吹屋小学校」や銅山跡の「笹畝坑道」などの観光施設も点在し、繁栄の歴史を感じることができることから、2020年6月には「ジャパンレッド発祥の地」として、文化庁の日本遺産に選定されている。
吉備エリアの車中泊事情

残念なことに、岡山市内と倉敷界隈には道の駅がなく、ロケーションからすると「前泊」にお勧めなのは、スマートインターのある山陽自動車道の「吉備SA」になる。
県外から来るなら、ここで車中泊をすればETC深夜割引も適用される。
ただし「吉備SA」の下りは、スマートインターから入ると、店舗と駐車場が利用できないし、そもそもスマートインターから入ると、同じスマートインターからは出ることができないなど、事前に知っておくべき留意点があるので、利用する場合は、以下の記事をよくご覧いただきたい。

次は有料にはなるが、予約ができるため確実に車中泊ができる、「吉備津神社」から約9キロ・10分ほどのところにある「RVパーク農マル園芸吉備路農園」がお勧めだ。
料金は電源代込みで1泊2000円、電源不要なら1500円とリーズナブルで、利便性も良さそうだが、4区画しかないため、その存在の認知が広まれば、なかなか予約が取れなくなる可能性は否定できない。

なお無料の車中泊スポットは、「倉敷美観地区」に近く、「吉備津神社」までは約14キロ・20分ほどのところにある「酒津公園」があるにはある。
ただし「酒津公園」は、地元市民の憩いの場なので、理由を云うまでもなく、いつまで車中泊に使えるかは分からない(笑)。
筆者が知らないうちに「車中泊禁止」になる可能性は十分あるので、ここでの車中泊を考える場合は、確実に最新情報をチェックしていただきたい。
と云ってもネットで根気よく探すしか手はないと思う。

いっぽう、瀬戸内海方面からなら「後泊」、逆に中国自動車道方面からなら「前泊」地に適しているのは「道の駅 かよう」だろう。
ここは冬季に、「備中松山城」の天守が雲海に浮かんで見える「雲海展望台」に近く、朝からそこへ行きたい人には”うってつけ”と云える車中泊スポットだ。
また約36キロ・50分と近くはないが、前述した「吹屋」を訪ねる際にも、最寄りの道の駅になる。
「吉備路」の見どころのおさらい
最後にこれまで紹介した「吉備路」の見どころの一覧を用意しておくので、ぜひあなたのクルマ旅にお役立ていただきたい。
ご覧いただいたように、「吉備路」は懐が深く、予習無しでどうにかなるような旅先ではないが、逆に予習して行けば、これほどおもしろいところは少ないと思う。
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