25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、岡山県発祥の地「吉備エリア」の歴史と見どころを盛り込んだ車中泊旅行ガイドです。
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この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づき、全国各地の「クルマ旅にお勧めしたい観光地」を、「車中泊旅行者目線」からご紹介しています。

~ここから本編が始まります。~
3つの日本100名城を有し、桃太郎伝説の舞台となった古代「吉備国」の史実と見どころをご紹介。

吉備エリアの筆者の歴訪記録
※記録が残る2005年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2005.05.28
2015.01.12
2016.12.18
2018.10.07
2025.11.21
「日生と牛窓」での現地調査は2025年12月が最新です。
吉備エリア 車中泊旅行ガイド

吉備エリアのロケーション
吉備路(きびじ): 岡山市から総社市、倉敷市にまたがるエリア。巨大古墳(造山古墳)や吉備津神社、備中国分寺などが残る観光名所です。
古代のロマンを感じる歴史遺産と、豊かな自然環境が調和した地域です。
吉備国は倭国最大のライバルだった
吉備国
古代の吉備の国(きびのくに)は、現在の岡山県全域と広島県東部を含む広大な地域を指し、弥生時代から古墳時代にかけて、日本有数の大勢力として栄え、大和朝廷と並び称されるほどの力を持った地方国家でした。
肥沃な平野と瀬戸内海の恵みを背景に、巨大古墳の築造や朝鮮半島との交流を通じて発展しましたが、5世紀後半には大和王権との対立(吉備の反乱)で勢力を弱め、奈良時代には備前・備中・備後・美作の四国に分割されてその歴史を閉じました
吉備国が7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割されて成立された
古墳時代になると畿内(きない=現在の奈良県・大阪府・京都府南部・兵庫県南東部)にヤマト王権が成立しました。ヤマト王権は、各地の有力な勢力が連合して生まれたとされており、吉備国はヤマト王権の創立メンバーとして参画
吉備国とヤマト王権の関係性を示すわかりやすい例
古墳時代最初期の古墳で有名なのが、3世紀半ばに築造された奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはか こふん)。そして岡山市東区浦間には、その箸墓古墳とほぼ同じ時期に築造された浦間茶臼山古墳(うらま ちゃうすやま こふん)があります。
箸墓古墳の縮小コピー版
吉備国がヤマト王権の中で、大和に次ぐナンバー2くらいの重要なポジションだったことを意味します。そして浦間茶臼山古墳に眠っているのは、ヤマト王権の設立メンバーとして関わった吉備国の首長だと考えられるのです。
古代「吉備国」は、大和、筑紫、出雲と並ぶ古代日本の四大王国の一つとされる。
古墳時代前期、「ヤマト王権(大和朝廷)」の第十代 崇神天皇は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」を吉備へ派遣し対立する豪族を征伐し平定したとされ、これが「桃太郎伝説」の元になっているともいわれる。
「彦五十狭芹彦命」は第七代 孝霊天皇の皇子で、のちの「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」(以下「吉備津彦」)と同一人物とされる。
征伐の際は「吉備の中山」に陣を構えたといわれる。「吉備の中山」は吉備の中心となる山で、現在、山上に残る前方後円墳「中山茶臼山古墳」は「吉備津彦」の墓とされている。
「吉備国」は689(持統天皇3)年発布となる日本最初の律令「飛鳥浄御原令」で「備前国」「備中国」「備後国」に分割され、さらに713(和銅6)年に「備前国」の内陸部が「美作国」として分割された。分国の理由は「吉備国」の強大な勢力を弱体化させるためだったとも考えられている。現在の岡山市内においては、「吉備の中山」を分割する形で、東側が「備前国」、西側が「備中国」となった。
さらに吉備国が独自の発展
造山古墳
世界遺産になっている巨大前方後円墳と同じ5世紀前半、なんと吉備国にもほぼ同クラスの巨大前方後円墳が築造されています。それが岡山市北区新庄下にある「造山古墳(つくりやま こふん)」
吉備国に巨大古墳が生まれたのは、5世紀になり吉備国の体制が変わって強大な力をもつ大首長が誕生した可能性が考えられます。造山古墳と同じ時代、吉備国内のほかの地域では古墳がほとんどつくられていません。それほど造山古墳に埋葬されている大首長の権力が強大だったのではないでしょうか。
このころの吉備国は、朝鮮半島と独自の通商ルートをもっていたといわれています。そして鉄器を入手したり、鉄生産の技術者を招いたり、須恵器という焼き物の技術を導入したりして勢力を増したのです。
古墳時代後期に吉備国は衰退
『日本書紀』には、吉備国の豪族が3度にわたり反乱をおこしたが、いずれも鎮圧されたという伝承が書かれています。これらの反乱は、ちょうど5世紀後半の雄略天皇の時代に起こりました。5世紀後半といえば、ちょうど吉備国で大きな古墳が見られなくなるころです。吉備国の勢力が弱まる何かが起こったのかもしません。
最初は吉備国はたのもしく強力なパートナーじゃったが、強大な力をつけすぎてしまったんじゃな・・・。
吉備の国の歴史
古代の吉備(きび)の国は、弥生時代後期から古墳時代にかけて大和(ヤマト)王権と並ぶ強大な勢力を持ち、巨大古墳(造山古墳・作山古墳など)を築き、朝鮮半島との交流も深かった有力な地域で、
後に備前・備中・備後・美作の四国に分割され、現在の岡山県域を中心とする広大な地域を指します。『日本書紀』にはヤマト王権への「吉備の反乱」伝承が残るものの、考古学的には鉄資源や海の交通の要衝として独自の発展を遂げ、日本史の中心的な役割を果たしたことがうかがえます。
弥生時代〜古墳時代初期:勢力の萌芽と独自文化
特殊器台・壺: 楯築弥生墳丘墓などから出土する特殊器台・壺は、吉備独特の祭祀文化を象徴し、埴輪のルーツとも言われます。
初期前方後円墳: 箸墓古墳と同時期か、より早い時期に日本最大級の造山古墳が築かれ、吉備の豪族がヤマト王権と対等な存在であった可能性を示唆します。
古墳時代中期〜後期:大和王権との関係と内部発展
「吉備の反乱」伝承: 5世紀後半、雄略天皇の時代に吉備が反乱を起こしたとする伝承がありますが、実際には吉備の首長層が権力を保持しつつ、ヤマト王権と複雑な関係を築いていたと考えられます。
大規模古墳: 造山古墳や作山古墳は吉備の繁栄を象徴し、5世紀後半には各地で有力首長の墓が多数造られ、金銅製装身具や馬具などが出土します。
「吉備と畿内の連合政権」: 岡山大学などが提唱する説では、ヤマト王権と吉備が協力して日本列島を治める「連合政権」を形成していたとされます。
大和朝廷VS吉備国:対立と変遷
吉備国の力: 当時の吉備(岡山県周辺)は、鉄資源の確保や高度な造船技術、製鉄技術を持ち、畿内の大和朝廷を脅かすほどの強大な勢力でした。まっぷるウェブの調査によると、この勢力は「鬼」として恐れられ、桃太郎伝説のモデルになったという説があります。
激しい対立: 4世紀から5世紀にかけて、吉備の大王たちは朝廷に匹敵する「造山古墳」などの巨大古墳を築き、対抗しました。
吉備の反乱
吉備の反乱は、5世紀後半(雄略天皇の時代)に巨大豪族「吉備氏」がヤマト王権(朝廷)に対して起こしたとされる3度の反乱です。『日本書紀』の伝承によると、吉備氏の勢力を削ぐための口実とも言われ、これを機に吉備は急速に弱体化したとされています。
吉備の反乱の概要
時期と内容: 5世紀後半、雄略天皇の時代に吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)らが新羅と通じて謀反を企てたなど、3回にわたる不敬や反乱が記録されている。
歴史的背景: 当時の吉備は、造山古墳に代表されるようにヤマト王権に匹敵する強大な勢力を誇っており、その力を恐れた朝廷側が仕掛けた歴史的転換点と見なされている。
反乱の結末: いずれも鎮圧され、吉備氏の勢力は縮小。のちに7世紀の分割(備前・備中・備後・美作への分国)を経て、さらに弱体化した。
以上が歴史的真実 時代は5世紀後半
平定と服属:
伝説的対立: 大和朝廷の吉備津彦命が吉備の大王(温羅)を討ったという伝説が残っています。
歴史的服属: 5世紀後半の雄略天皇の時代、吉備田狭(きびたさ)による反乱(吉備氏の乱)が起きましたが、最終的に鎮圧され、勢力は大きく後退しました。
分割統治: 朝廷は強大な吉備を恐れ、555年に白猪屯倉(しらいのみやけ)、556年に児島屯倉(こじまのみやけ)を設置して直接支配(屯倉の設置)を強めました。これにより、吉備国はいくつかの地域に分割され、大和朝廷の支配下に組み込まれていきました。
律令時代〜中世:国家体制への組み込みと武士の台頭
国造り: 天武・持統天皇の頃に備前・備中・備後三か国に分割され、713年には美作国が分かれ、四国体制が確立します。
吉備真備・和気清麻羅: 奈良時代には吉備出身の吉備真備(きびのまきび)や和気清麻呂(わけのきよまろ)が朝廷で活躍し、吉備の文化的・政治的影響力の高さを示しました。
中世: 『平家物語』の妹尾兼康や『太平記』の児島高徳など、源平合戦や南北朝の動乱期にも吉備の武士が活躍します。
近世以降:物流の要衝・「岡山」の発展
港と城: 江戸時代には、姫路から九州へ向かう交通の要衝として、日生や下津井などの良港が栄え、宇喜多氏・池田氏が治めた岡山城(烏城)を中心に城下町が発展しました。
このように、吉備の国は古代から近世に至るまで、その地理的・資源的優位性を活かし、日本の歴史の大きな流れの中で独自の文化と力を持ち続けた地域です
桃太郎伝説の真相
桃太郎伝説の舞台は主に4〜6世紀頃(古墳時代)の「吉備の国(岡山県)」とされ、大和朝廷が地方勢力(温羅)を制圧した歴史がモデルといわれます。一方、おとぎ話としての物語は室町時代に『御伽草子』として成立し、江戸時代に広く普及しました。
具体的な時代設定と背景は以下の通りです。
1. 伝説・歴史のモデル(4〜6世紀頃)
時代背景: 古墳時代、大和朝廷が勢力を広げていた時期。
場所: 吉備の国(現在の岡山県周辺)。
内容: 大和朝廷の皇子である「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」が、吉備の地で略奪を行っていた異国の王子「温羅(うら)」という鬼を征伐したという伝説(温羅伝説)。
桃太郎伝説には、古代日本で実際に起こったとされる「温羅(うら)伝説」という歴史的背景があり、これは大和朝廷による吉備の国の平定(征伐)が元になっているという説が有力です。
これは、ユーザーが示唆する「吉備の反乱」に関連する歴史的事件を指していると考えられます。
温羅伝説の概要
桃太郎のモデル: 第7代孝霊天皇の皇子とされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)。
鬼(温羅)のモデル: 吉備国(現在の岡山県周辺)に住み、地域を荒らしていたとされる異国の人物「温羅」。
歴史的背景: 大和朝廷が勢力を拡大する過程で、強大な勢力を持っていた吉備の国を支配下に置く必要がありました。そのために派遣されたのが吉備津彦命で、温羅との戦いは、中央政権による地方豪族の征伐(反乱鎮圧)を象徴していると解釈されています。
吉備津彦命は歴史書に登場する皇族であり、実在の人物であった可能性が高い一方、温羅は伝説上の存在であり、歴史的事件における対立勢力の象徴として描かれたと考えられます。
伝説と史跡
岡山県には、この温羅伝説に関連する多くの史跡が残されています。
鬼ノ城(きのじょう): 温羅の居城跡とされる古代山城で、古代朝鮮式山城の典型例です。
血吸川(ちすいがわ): 吉備津彦命が温羅の左目を射抜いた際、流れ出た血で川が真っ赤に染まったという伝説の残る川。
吉備津神社(きびつじんじゃ): 吉備津彦命を祀る神社で、温羅の首が埋められているとされる「御釜殿(おかまるでん)」では、現在も「鳴釜神事(なるかましんじ)」が行われています。
きびだんご: 桃太郎が家来に与えた「黍団子(きびだんご)」は、吉備の特産品である「黍」に由来し、江戸時代には吉備津神社の門前で売られていました。
これらの史実や伝承が長い時間をかけて融合し、現在の童話「桃太郎」の原型になったと考えられています。このストーリーは「日本遺産」にも認定されています。
桃太郎伝説の真実
吉備津彦命と温羅の戦いは、実は吉備国とヤマト王権の対立を反映
吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、大和朝廷から派遣された皇族です。
吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子(五十狭芹彦命・いさせりひこのみこと)であり、第10代崇神天皇の時代に「四道将軍」の一人として、大和から西道(山陽道)へ派遣されました。
これは、大和朝廷の支配下に入っていなかった吉備国(現在の岡山県を中心とした地域)を平定し、朝廷の支配を広めるための軍事的な派遣であったとされています。この吉備平定の伝承が、現在の「桃太郎伝説」の原型となっています
その吉備津彦命が朝廷に従わぬ者を倒して吉備国を平定したという伝承が桃太郎のストーリーに変化し、この地に根づいた。簡単に言えば、大吉備津日子命=吉備津彦命=桃太郎ということ
温羅(うら)
温羅(うら)とは吉備津彦が倒した獰猛な巨人で、桃太郎伝説における鬼のモデルである。
温羅は、桃太郎の鬼と違って単なる悪役ではない。大和朝廷に従わなかったため討伐されたが、本当は吉備の人々に慕われ、穏やかに統治をしていた可能性もある。
出自には諸説あるが、実は百済から来た渡来人で、製鉄など先進の技術をこの地に伝えたとも言われている。吉備津彦神社の境内に温羅神社があるのは、そんな温羅に感謝し、その霊を慰めるためであろう。おとぎ話と違って、歴史には単純な勧善懲悪では割り切れない部分がある。そしてそれは、時に少し悲しい。
吉備津彦の温羅征伐のストーリーを紹介する。温羅は鬼のような形相の巨人で、住民の物を奪ったり人を釜茹でにしたりの悪行を繰り返したため、朝廷は吉備津彦に討伐を命じた。
激しい闘いがはじまったが、二人の射る矢はことごとくぶつかって落ちてしまう。そこで吉備津彦は一計を案じ、同時に二本の矢を放った。すると一本の矢は温羅の矢に当たって落ちたが、もう一本の矢は温羅の目を射抜いた。目からは血がどくどくと流れ、血吸川という川になった。温羅はキジに姿を変えて逃げ、吉備津彦は鷹になって追いかけた。温羅は鯉になって自らの血が流れる血吸川に逃げ込んだが、吉備津彦は鵜になってこれを捕まえ、ついに温羅の首をはねた。ここまでは、なかなか血なまぐさい物語である。
桃太郎のお話は鬼を退治してめでたく終わるが、吉備津彦と温羅の物語はまだ終わらない。温羅の生首が、死してもなお、うなり続けたのである。骨になってもまだうなるので、頭蓋骨をかまどの下に埋めたところ、吉備津彦の夢に温羅があらわれ、「わしの妻に、この釜で神饌を炊かせよ。幸福が訪れるなら釜はゆたかに鳴り、不幸が訪れるなら荒々しく鳴るだろう」と告げた。つまり、釜を炊き、その時鳴る音で吉凶を占うということだ。
これが鳴釜神事の始まりである。この神事は現在も行われており、一般の人も希望すれば受けることができる。
鬼ノ城
築城の背景
動乱に明け暮れる7世紀後半の朝鮮半島で、百済に援軍をおくっていた日本は、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。
唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要がありました。鬼ノ城もそれらの一つとする考えが有力です
鬼ノ城(岡山県)は、7世紀後半(白村江の戦い後)にヤマト王権が築いた古代山城で、吉備の反乱(温羅伝説)より後に作られたというのが考古学的な通説です。
鬼ノ城は、7世紀後半の白村江の戦い後、唐・新羅の侵攻に備え大和朝廷が築いた朝鮮式山城です。百済の技術を取り入れた版築土塁や石垣が約2.8kmにわたり鉢巻き状に巡り、温羅伝説の舞台としても知られる国防上の最重要拠点でした。
築城背景と時期
築城の目的
国防拠点:吉備の平野部(当時の内海)を見下ろす要衝に位置し、国土防衛の要として築かれた。
この城は、古代の高度な土木技術と、国家の危機感を表す重要な史跡となっています。
鬼ノ城は桃太郎伝説より後に作られた
鬼ノ城(岡山県)は7世紀後半にヤマト王権が築いた実在の古代山城で、桃太郎のモデルとされる「温羅(うら)伝説」の舞台です。伝説(4-6世紀頃の背景)は城の建設後に成立したか、または並行して作られた物語(ルーツ)であり、城が伝説の後にできたわけではありません。
主なポイントは以下の通りです。
実在の城は7世紀後半: 鬼ノ城は、白村江の戦い(663年)の後に唐や新羅の侵攻に備え、ヤマト王権が築いた「朝鮮式山城」です。
吉備津神社
「吉備の中山」の西麓に鎮座する「吉備津神社」は「山陽道」屈指の大社。御祭神は「吉備津彦」で、社伝では五世紀前半頃、第十六代 仁徳天皇の行幸時の創建とされる。分国後は「備中国」の一宮となった。
桃太郎
岡山のシンボルともいえる昔話の主人公「桃太郎」。駅前広場には「桃太郎」の銅像が建ち、駅前のメインストリートは「桃太郎大通り」であり、岡山県のマスコット「ももっち」も「桃太郎」をモチーフとしたもの。このように、岡山では至るところで「桃太郎」に出会うことができる。しかし、いわゆる「桃太郎伝説」は全国に伝わっていたため、今日のように「岡山といえば桃太郎」というイメージが定着したのは、意外と新しいようだ。
それは、1930(昭和5)年、岡山の彫金家・難波金之助氏が著書『桃太郎の史実』の中で発表した説に始まる。難波氏は「吉備津神社」の御祭神である「吉備津彦」による「温羅(うら)退治」の伝説が、昔話「桃太郎」のモデルと主張したのである。ちなみに「温羅」がいたのは現在の総社市の古代山城「鬼ノ城(きのじょう)」であったとされている。
「桃太郎」による町おこしは、既に香川県高松市や愛知県城東村(現・犬山市)でも始まっていたため、岡山は出遅れた形となった。しかし、岡山が全国有数の桃の産地であったこと、既に江戸後期から「吉備団子」という名物があったことなどから有利に働き、現在のような「桃太郎伝説の地」と言われるまでになった。
吉備津神社
吉備津神社と吉備津彦神社
吉備の中山と呼ばれる神体山があり、これが備前国と備中国の境目である。吉備津彦神社はこの山の北東の麓にあり、もうひとつの吉備津神社は北西の麓に鎮座している。吉備津彦神社は備前国の一ノ宮、吉備津神社は備中国の一ノ宮。徒歩圏内に同じ神を祀る立派な神社が二つあるのは、そういう理由からだ。
吉備津神社と吉備津彦神社は、主祭神(大吉備津彦命)は同じですが、祀る神様(配祀神)と神社の性格が異なります。吉備津神社は備中国一宮で国宝の本殿を持ち「温羅(鬼)」を祀る鬼退治神話の中心、吉備津彦神社は備前国一宮で子授け・安産・縁結びの神様として崇敬され、吉備津神社から分祀された神社で、桃太郎伝説ゆかりの2大神社です。
吉備津神社(きびつじんじゃ)
場所: 岡山市北区吉備津(吉備中山の北西麓)。
主祭神: 大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)。
特徴: 備中国一宮。国宝の本殿(吉備津造)が有名で、桃太郎伝説の鬼(温羅)を退治した神様として、温羅を祀る「温羅神社」も境内にある。
ご利益: 縁結び、夫婦円満、安産、長寿など。
本殿拝殿だ。京都の八坂神社に次ぐ大きさの大建築で、「比翼入母屋造」と呼ばれる独特の屋根が特徴である。入母屋造の二つの屋根を一つの大きな屋根で結合したもので、全国でも唯一の構造であるため「吉備津造」とも呼ばれる。
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)
場所: 岡山市北区一宮(吉備中山の北東麓)。
主祭神: 大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)。
特徴: 備前国一宮。吉備津神社から分祀された神社で、社殿が一直線に並び、夏至の日に太陽が鳥居から本殿にまっすぐ昇る配置が美しい。
ご利益: 子授け・安産・縁結びの神様として特に信仰を集める。
まとめると
主役は同じ:桃太郎伝説のモデルとされる「吉備津彦命」。
立地が違う:吉備中山を挟んで、北西麓が吉備津神社、北東麓が吉備津彦神社。
役割が違う:吉備津神社は「鬼退治の英雄」を祀る総本社的な存在、吉備津彦神社は「子授け・安産」を祈願する分社。
同じ神様を祀りながら、異なる性格を持つ、
吉備津神社
住所:岡山県岡山市北区吉備津931
https://www.kibitujinja.com/
吉備津彦神社
住所:岡山県岡山市北区一宮1043
https://www.kibitsuhiko.or.jp/
吉備エリアに残る3つの日本100名城

さて。
吉備エリアには「桃太郎伝説」ゆかりの地以外にも、歴史ファンが喜ぶ見どころが揃っている。

ひとつは既に名前の出ている「鬼ノ城」だが、実はここは史実の上では「桃太郎伝説」とはまったく無関係で、それよりももっと以前にこの地に築かれた『日本の防衛基地』だった。
残る2つは、戦国時代に”難攻不落”を誇った名城だが、山城で冬になれば雲海にその天守が浮かんで見える「備中松山城」は現在まで生き残り、もうひとつの「備中高松城」は、「羽柴秀吉」の軍師「黒田官兵衛」の”奇抜な作戦”により、沼に取り残されて落城している。
いずれも話題性十分で、大河ドラマを見ている人にはぜひ訪ねていただきたい。
幕領地として栄えた吹屋

幕領地として銅鉱山を営んでいた吹屋は、幕末以降ベンガラの産地として繁栄した。
赤褐色のベンガラは、防虫・防腐の機能性から家屋の外壁塗料にも適しており、その外観で統一された吹屋の町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
旧吹屋小学校や銅山跡の笹畝坑道などの観光施設も点在し、繁栄の歴史を感じることができることから、2020年6月に「ジャパンレッド発祥の地」として、文化庁の日本遺産に選定された。
吉備エリアの車中泊事情

残念なことに、岡山市内と倉敷界隈には道の駅はなく、無料の車中泊スポットとしては倉敷美観地区に近く、「吉備津神社」までは約14キロ・20分ほどの「酒津公園」くらいしか見当たらない。
ただし「酒津公園」は、地元市民の憩いの場になっているので、理由を云うまでもなく、いつまで車中泊に使えるかは分からない(笑)。
筆者が知らないうちに「車中泊禁止」になる可能性は十分あるので、ここでの車中泊を考える場合は、確実に最新情報をチェックしていただきたい。と云ってもネットで根気よく探すしか手はないと思う。
有料にはなるが、確実に車中泊ができるのは「吉備津神社」から約9キロ・10分ほどのところにある「RVパーク農マル園芸吉備路農園」だ。
料金は電源代込で1泊2000円、電源不要なら1500円とリーズナブルで、利便性も良さそうだが、4区画しかないため、その存在が広まればなかなか予約が取れなくなる気がした。
利用に制約はあるものの、「前泊」にお勧めなのは、スマートインターのある山陽移動車道の「吉備SA」だろう。
県外から来るなら、ここで車中泊をすればETC深夜割引も適用される。
ただし「吉備SA」は、上り下りともにスマートインターから入ると、店舗と駐車場が利用できないし、そもそもスマートインターから入ると、同じスマートインターからは出ることができない。
いっぽう、瀬戸内海方面からなら「後泊」、逆に中国自動車道方面からなら「前泊」地に適しているのは「道の駅 かよう」だろう。

ここは冬季に、「備中松山城」の天守が雲海に浮かんで見える「雲海展望台」にも近く、朝からそこへ行きたい人には”うってつけ”と云える車中泊スポットだ。
岡山県 車中泊旅行ガイド
車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
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