25年のキャリアを誇る車中泊旅行家が、岡山県の人気観光スポット「倉敷・美観地区」を車中泊で訪ねたい人に向けて独自にまとめた、見どころ・駐車場・車中泊スポット等を網羅した旅行ガイドです。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づき、全国各地の「クルマ旅にお勧めしたい観光地」を、「車中泊旅行者目線」からご紹介しています。

~ここから本編が始まります。~
まずは本当の倉敷に出会うことから。倉敷を紐解くキーワードは「時代の地層」だ。

倉敷・美観地区の筆者の歴訪記録
※記録が残る2005年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2007.11.12
2012.05.11
2015.09.22
2016.12.17
2022.04.20
2025.12.27
「倉敷・美観地区」での現地調査は2025年12月が最新です。
倉敷 車中泊旅行ガイド

倉敷観光の落とし穴

正直云って、倉敷は「どこをどう見ればいいのか」が理解しづらい町のひとつだ。
それは「美観地区」という甘美な表現が、いつの間にか倉敷を本来の意図とは違う、『白壁土蔵のレトロでオシャレな町』という偏ったイメージに、置き換えてしまったからにほかならない。

その結果、雑誌やウェブには若い女子を喜ばせるファッションやグルメに関する商業的な情報が氾濫し、『本来の倉敷らしさ』がほとんど掻き消されているといっても過言ではない。
その呪縛から開放され、倉敷の本質に出会うには、
なぜ倉敷は「白壁土蔵のレトロでオシャレな町」になったのか?
という”歴史の鳥居”をくぐって、この町に入る必要がある。
とはいえ、ここに記しているのは難しい話ではなく、『旅行者が倉敷の観光をより楽しむために必要な歴史知識』だ。

ゆえに内容は「5分でわかる程度」にまとめているのだが、それでも中には『面倒くせぇ奴だなぁ、講釈は要らないので、駐車場と車中泊の情報だけを教えてくれれば、それでいいんだよ』と、タダで見ている割には傲慢な人もいる(笑)。
そういう人は、こちらへどうぞ。
ここは、せっかく自由奔放に行動できる車中泊で倉敷に行くのだから、本当の倉敷を、ディスカヴァーして帰りたいという『ピュアな車中泊の旅人』が集まるサイトで、車中泊より『まず倉敷がどういうところなのか』に興味がある。
時代の地層1
昔の倉敷一帯は「海底」だった。

倉敷の歴史をネットで検索すれば、江戸時代以降のことは簡単に調べられる。
だが、なぜかそれ以前の話はなかなか出てこない。
通常、日本の古い町には鎌倉時代あたりからの歴史があるものなのに、なぜ?
理由は簡単。
実は昔の倉敷一帯は「海底」だった。

倉敷一帯が陸続きになったのは平安時代の初期といわれているが、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟で、人が住めるところではなかったようだ。

そんな倉敷を変えたのは、当時の岡山城主で「羽柴秀吉」に仕えていた「宇喜多秀家」だ。

「秀家」は堤防を築いて干潟を干拓し、それが以降の城主にも引き継がれて、倉敷の町が形成されていくことになる。
おもしろいのは干拓のヒントが、「羽柴秀吉」の”水攻め”にあったという話だった。
後世に残る「備中高松城」攻めに参戦していた「秀家」は、”水攻め”とは逆に、堤防を築いて海水の流入を防ぎ、干潟を完全な陸地にしてしまうことを思いついたという。

大河ドラマでもたびたび登場する名場面なので、ご存知の方は多いと思うが、もし興味があれば「備中高松城」は倉敷・美観地区から15キロ、クルマなら30分ほどのところにあるので、そちらにも足を運んでみるといい。
時代の地層2
倉敷のルーツは、江戸時代の「天領」

さて。
ここからが、なぜ倉敷は「白壁土蔵のレトロでオシャレな町」になったのか?という話になる。
「関が原の戦い」で西軍についた「宇喜多秀家」が所領を失った後、倉敷は徳川の備中国奉行領となり、上方への物資の輸送中継地を担うようになった。
早い話が江戸幕府お抱えの「物流基地」になったわけだ。

さらに1642年に代官所が置かれて「天領」に格上げされると、幕府の保護や周辺の豊かな産物を背景に、倉敷は物資の一大集積地へと発展し、現在の美観地区周辺はますます活気を帯びていった。

当時の倉敷川は、潮の干満を利用して多くの船が航行し、この時期に川沿いに「塗屋造り」と「白壁土蔵造り」を中心にする町並みが形成されたという。
その経緯から、倉敷の地名は「蔵屋敷」が転じたとも、中継所として物資を保管している場所のことを「倉敷地」と呼んだことに由来するともいわれている。

かつての街道筋で、倉敷川沿いより先に開けた本町から東町へ続くこの通りは、箪笥屋、桶屋などの職人が軒を連ねていたといい、今でも格子戸のある宿や、杉玉を軒に吊り下げた造り酒屋が残る。
しかし、明治になって「天領」という特権を失った倉敷は、米と綿の単なる集積地と化し、文明開化から取り残されてしまう。
時代の地層3
文明開化で工業都市へと変貌

その状況を打開すべく取り組んだのが紡績産業だ。
1889年(明治22年)、代官所の跡地で赤レンガづくりの紡績工場が操業を開始。
現在のクラボウによる新たな繁栄への挑戦が始まった。

倉敷紡績の工場は、1973年(昭和48年)に役目を終えてリノベーションされ、現在はホテルを中心にした複合観光施設「アイビー・スクエア」として営業している。

ちなみに建物は、2007年(平成19年)に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。
時代の地層4
「過去の遺産」を活かし、戦後は観光都市に転身

さらに時代は進み、昭和5年の大原美術館の開館とともに芽生え始めていた町並み保存活動は、途中、太平洋戦争による休眠期間を経て、昭和30年代に行政・住民主体の取り組みへと発展する。

そして1969年(昭和44年)に「倉敷川畔美観地区」が誕生。1979年(昭和54)年に、「重要伝統的建物群保存地区」として国から選定を受ける。
かくして倉敷は、江戸時代の「物流都市」、明治時代の「工業都市」、そして昭和後期から現在にいたる「観光都市」の3つの「地層」を持つ、他に例を見ない町となった。
ゆえに、これら3つの「地層」を意図的に分離して観光することができれば、倉敷の本質が”浮き彫り”になる。

日本の観光ガイドは”地理主義”で、近くにある順に『個々の観光スポットの関係性』を無視したような案内をやりたがる。

そこには書き手の歴史に対する知識の薄さだけでなく、ビジネスライクなマスコミの都合など、様々な理由があると思うが、それに毒されていく日本人の観光スタイルは”画一化”の道を辿るいっぽうだ。
しかし倉敷が物語るように、古い町ほど地理と観光スポットの歴史に相関関係はなく、本来は『時代ごとに関連する観光スポット』だけを記載したセロファンを、現代の地図に重ね合わせるようにしなければ、本当の姿を「ディスカヴァー(発見)」することは難しい。
その意味からすると、倉敷・美観地区には何度かリピートするのがお勧めだ。
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