25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、日本100名城の「山形城」と、山形藩57万石を一代で築き上げた名将「最上義光」に関する情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
山形城は、羽州の驍将と称される「最上義光(もがみよしあき)」が造り上げた東北最大の平城で、その城下町が今の山形市のルーツになる

山形城 DATA
山形城
〒990-0826
山形県山形市霞城町3
☎023-641-1212
(山形市観光戦略課)
山形城跡にあたる「霞公園(かじょうこうえん)」は入場無料
ただし、園内周辺施設(山形市郷土館、山形県立博物館、山形美術館、最上義光歴史館)は有料
5時~22時
※11~3月は5時30分~
年中無休
「山形城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2024.10.15
※「山形城」での現地調査は2024年10月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2025年10月に更新しています。
山形城と最上義光

プロローグ
えっ、山形市内にお城があったの?

実を云うと、
恥ずかしながら筆者は、国指定史跡及び日本100名城に名を連ねるほど有名な、「山形城」の存在そのものを、つい最近まで知らなかった。

確かに、もともと天守がないうえに、近くに見事に再建された「上山城」があるものだから、てっきりそちらが山形ではメインの城だと勘違いしていた。
ゆえに「上山城」には2012年に早々と足を運んでいる(笑)。

出典:最上まるごと百貨店
加えて「最上町」は、今の山形市よりかなり北の「新庄市」に近いところにあるため、「最上義光」も名前は知っていたが、そちら出身の武将だと思っていた。

出典:NHK
その間違いに気づかせてくれたのが、2024年9月に放送されたNHKの「歴史探偵~戦国ご当地大名シリーズ 最上義光~」という番組だ。
筆者は昔から、歴史学者の「磯田道史」氏がコーディネイターをつとめる「英雄たちの選択」と、俳優の「佐藤二朗」氏がパーソナリティーの「歴史探偵」を、”日本史の通信教育”代わりに見ているのだが(笑)、近頃は「歴史探偵」のほうがおもしろいネタが増えてきたように感じている。
とりわけ、この「~戦国ご当地大名シリーズ~」は、他にも「長曾我部元親」や「島津義久」なども取り上げていて、旅人である筆者には大いに役立つものだった。

そして運のいいことに、2025年6月に八幡平の「ドラゴンアイ」を見る機会を得たので、そこまで行く道中で、念願の「山形城」を訪ねてきた。
こういうことができるのも、車中泊クルマ旅の特権だろう。
ちなみに、
筆者は仕事柄、国内の史跡の話をたくさん紹介しているが、大学受験時には「世界史」を選択しており、日本の歴史は40歳くらいまで、中学生レベルかそれ以下でしかなかった(笑)。
それゆえの”通信教育”だが、あと加えるとしたら、大河ドラマもそのカリキュラムのひとつといえる。

出典:NHK
「最上義光」を知っていたのは、1987年に放送された「独眼竜 正宗」のおかげだ。
「義光」を、いかにも戦上手の策士らしく振る舞った「原田芳雄」の演技は素晴らしく、強烈なインパクトが今も残っているのだが、ちょうど2025年の今年は、BS4Kでその再放送をやっている。
山形城の始まり

「山形城」の歴史は、室町幕府が地方統治のために設置した役職「羽州探題(うしゅうたんだい)」に任命され、1356年(延文元年)に山形に入った、「足利尊氏」と同じ「清和源氏」の流れを汲む「斯波兼頼(しばかねより)」が、翌1357年に築城したのが始まりとされている。

その後に姓を改め、初代「最上氏」となった「兼頼」は、夏は農作に恵まれ、冬は比較的雪が少なく、地震や風水害も少ないこの地で、「山寺(立石寺)」を筆頭にした寺社の整備復興につとめながら、コツコツと民衆の心を掴んでゆき、現在の山形市が誕生するきっかけを作った。
もっとも当時の「山形城」は、四方百数十メートル程度の小規模な館ようなものだったと推定されている。
飛躍は「最上義光」の時代

その山形を大きく躍進させたのが、11代目の城主にあたる「最上義光」だ。
「武士とは扇のようなもの、要は大将、骨は将(はた)、面(おもて)は兵(つわもの)」の名言を残し、背丈が180センチを超える巨漢だったと伝わる、戦国武将を絵に書いたような「最上義光」は、東北地方の大名を次々と打ち破り、「最上川」を辿るように領土を拡張していき、ついには「庄内」から「酒田」を押さえて日本海に到達する。
しかし時代は「豊臣秀吉」の天下統一目前で、「義光」は庄内地方を「上杉氏」に返上し、「戦」ではなくお家安泰のために「秀吉」の配下になる道を選択する。
その後しばらくして、『東国一の美少女』と呼ばれた愛娘の「駒姫」を、時の関白「豊臣秀次」からせがまれ、否応なしに『15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせる』と約束する。
養子とはいえ「豊臣家」の実質的な”跡継ぎ”との縁談だけに、政略結婚としては悪い話ではなく、断わることも難しかったに違いない。

しかし「駒姫」が京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒している間に、「秀次」は高野山で切腹して果ててしまう。
理由は諸説あるようだが、いずれにしても「秀吉」の「秀次」への憤りは収まらず、未だ「秀次」の顔も見ていない「駒姫」までもが、無念にも他の「秀次」の側室達とともに三条河原で処刑された。
この事件がきっかけで、正室まで失った「最上義光」は、復讐を誓って「豊臣」を見限り、「徳川家康」に傾倒していく。
その結果、『北の関ヶ原』と呼ばれる「慶長出羽合戦」で、兵力に勝る西軍の「直江兼続」率いる「上杉軍」の侵攻を食い止め、甥の「伊達政宗」の援軍もあって、「関ヶ原」で決着がつくまで踏ん張った恩賞で、「伊達藩」62万石に次ぐ、57万石の大大名へと登り詰めていった。
いっぽう戦ではなく、現代に通じる経済面においても、「最上義光」は大きな功績を残しており、我々旅人が着目すべきは、むしろそちらのほうかもしれない。

まず「山形城」は、多くの領地を抱える城主にふさわしい城にするため拡張され、城下町の繁栄を呼んだ。
そしてそれが、現在の山形市の基盤になったと云われている。
また当時は、米がすべての価値観の基準であり、『江戸の穀倉地帯』とされていた東北において、「最上川」は年貢米を輸送する交通路として重用されていた。
初代「山形藩主」となった「最上義光」は、その「最上川」を生かした商業の流通をさらに促進するため、道路と水運の整備にも尽力している。

とりわけ大きかったのは、『最上川の三難所』とされていた、碁石を並べたように岩が突起する「碁点」、川底に細い岩礁が三層をなす「三ヶ瀬」、岩礁が川底全体を覆い急流になっている「隼」を、大掛かりな工事によって開削し、最上川の舟運の憂いを取り除いたことだ。

これにより、最上地方に産出する物産の多くが「酒田」の港に運ばれるようになり、米作りも盛んだった「酒田」は、北前船の西廻り航路の寄港地として発展を遂げ、『西の堺、東の酒田』と称されるほどの港町文化を根付かせていった。
Before「最上義光」

「最上義光」がもたらせた繁栄は、その死後に勃発した「最上騒動」により終焉を迎え、「最上氏」は「改易」となる。
その後に、「山形藩主」となったのは「鳥居忠政」だ。
「鳥居」と聞いて、「ピン」ときた人は「サントリー」のファンと(笑)、2023年に放送された、大河ドラマ「どうする家康」を見ていた人だろう。

出典:NHK
「忠政」の父「鳥居元忠」は、「関ケ原の戦い」の前哨戦ともいえる「伏見城の戦い」で、命をかけて西軍を食い止めた古参の忠臣で、「どうする家康」では「音尾琢真」がその役を演じていた。
その父への恩返しもあったと思うが、「徳川幕府」の譜代大名としての入城は「伊達政宗」以下、東北諸大名を監視する使命を任されてのことだった。
それに応えるべく、「鳥居忠政」は「山形城」の大規模改修を行い、この時代にほぼ現在の姿の原型が完成する。
ただ「鳥居氏」は世継ぎに恵まれなかったため、その後に「徳川家」のサラブレッドともいえる、2代将軍「徳川秀忠」の子で、3代将軍「家光」の異母弟にあたる「保科正之」がやってくる。

「正之」は7年間の治世で精力的に町づくりを行い、領内の検地や流通網の整備を行い、名君と呼ばれたが、さらなる加増を受けて「会津藩」へと転出する。
「保科正之」の有能ぶりは、会津の記事で紹介しているので、興味があればぜひ。
その後も「山形城」は、松平氏・堀田氏・秋元氏・水野氏と、すべて譜代大名が城主を担っていくのだが、かつて57万石を誇った「山形藩」の石高は、幕末頃にはわずか5万石まで減少し、1870年(明治3年)には、長く使われずにいた城郭は破損し、外壁・矢倉も風雪に耐えかねるほどの惨状に化していたという。
その後「山形城」は、山形市が購入して陸軍駐屯地として使われたが、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。
戦後になって、ようやく城跡は「霞城公園」として整備され、江戸末期の資料に基づいて、「東大手門」や「本丸」の復元が始まった。
山形城と上山城

結論から云うと、「上山城」は「最上一族」の支配下にあった城で、「最上義光」の時代には、領地にある最南端の支城として、「伊達氏」や「上杉氏」との防衛上の要になっていた。
そのため、上山城は「日本100名城」にも「続日本100名城」にも選ばれていない。
現在建っているのは”模擬天守”で、1982年に二の丸跡に建造されたもの。
内部は郷土資料館になっており、最上階からは市街を望むことができる。
模擬天守とは

もともと天守がなかった城や、過去に天守があったかどうか不明な城に、近現代に建てられた天守のこと。
また、天守が存在していても、築城当時の様式と異なる形状で再建されたり、本来の場所とは異なる位置に建てられたりした場合も含まれる。
紛らわしい話だが、戦後の復興や町おこしのシンボルとして建てられたものが多く、地域の文化施設や観光拠点として活用されている。

本城にあたる「山形城」には天守がなく、目立つものは「二ノ丸東大手門」と「本丸一文字門大手橋」、そして「最上義光の騎馬像」くらいしかないため、何も知らなければ、立場が反対かと思ったりするのだが(笑)、「山形城」は史実に忠実に再現されているため、あえてそれを容認しているのだろう。
とはいえ、
『観光地と史跡のせめぎ合い』とか、『復元された時代により価値観が違う』ことを考慮しても、「山形城」には『こっちが本城だぜ!』と云えるようなインパクトが欲しいのは確かだ。
ただいまさら、ハード面の建造物にお金をかけるのは、たぶん”焼け石に水”だ。
理想を云うなら、「山形城」は「最上義光」が「大河ドラマ」の主人公になれば注目度は大きく変わるだろうし、持っている歴史から見れば、そのポテンシャルはすでにドラマ化された「仙台藩」や「会津藩」に劣らないとも思う。
ただし近年の大河は、「中園ミホ」や「三谷幸喜」といったヒットメーカーが脚本を担当し、”ホームドラマチックな脚色”が加えられているのが特徴で、そこが還暦以下の世代にウケている。
つまり大河ドラマでなくても、オリジナルのキャラを加えたそういうストーリーのアニメがあって、『ここがあのシーンの舞台となっている山形城の中の場所だよ!』みたいな仕掛けがあるとノッてくる。
分かりやすいのは「真田十勇士」とか「里見八犬伝」かな。それこそ売れれば「実写版」を作ればいい。
またこういうVR/ARも、それに連動することで、よりいっそうおもしろいものになるわけだ。
観光客にとって大事なのは、アニメのようなCGの出来栄えよりドラマ性だと思うが、それは地方の観光協会だけでは到底難しく、間違いなく電通クラスの大手広告代理店のサポートが必要だろう。
それでも筆者は、「山形城」は”やる価値あり”だと思うけどな(笑)。
山形城の駐車場とアクセスマップ

「道の駅 天童温泉」から約14キロ・30分ほどのところにある「霞城公園(山形城跡)」には、3ヶ所の無料駐車場が設けられており、年中無休だが、クルマで出入りができる「北門」には、開門時間と閉門時間が定められている。

そのためトイレはあるが、車中泊には使えない。
料金:無料
台数:230台
利用時間:
4月1日~10月31日
5時~22時
11月1日~3月31日
5時30分~22時
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