歴史が好きで経験豊かな「車中泊旅行家」が、萩の町を築いた長州藩の始まりから終わりまでを分かりやすく解説しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「萩」観光のための「エピソード・ゼロ」は、江戸時代初めの毛利家による「長州藩」成立のあらましと、明治維新にいたるその歴史

「萩」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2009.05.09
2010.10.11
2011.04.24
2013.03.11
2015.05.06
2022.04.27
2025.11.23
「萩」での現地調査は2025年11月が最新です。
長州藩成立のあらましと、幕末までの歴史

長州藩主「毛利家」の系譜

江戸時代の城下町の「町割り」が、今でもはっきり残る『小京都・萩』。
歴史にさほど興味のない人からすれば、それがどこの藩とか、どんな経緯で生まれたとかは気にならず、要はインスタ映えする写真さえ撮れればいいのかもしれない…
また多少は知っていたとしても、『観光旅行なんだから、何もそこまで遡らなくてもいいんじゃないの?』という声があることも承知している(笑)。
しかし、この「エピソード・ゼロ」とも呼べる話を抜きに、「萩」の町と正面から向かい合うのは難しい…
というより想像できない。
なぜなら「萩」は、初代長州藩主の「毛利家」に始まり、「毛利家」で終わる。
すなわち、約260年に及ぶ「萩」の歴史は、「毛利家」の歴史そのものだ。

さて。
その「毛利家」を、一代で西国ナンバーワンの大国に導いた武将が、こちらの「毛利元就(もうりもとなり)」だ。
卓越した知略を発揮すると同時に、一族の結束を重んじ、広島県の山中にあった「吉田郡山城」を拠点に、中国地方の安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配して、大大名へとのし上がった。

「元就」亡き後、「毛利家」は”天下布武”を目論む「織田信長」と激しくぶつかり合うが、「本能寺の変」で「信長」が自刃し、「豊臣秀吉」が天下人になると、両者は和合し、「元就」の家督を継いだ「毛利輝元」は、山城の「吉田郡山城」を”卒業”して、瀬戸内海に近い今の広島市内に新たな居城を築いた。
「長州藩」の『エピソード・マイナス1』みたいなここまでの詳しい話は(笑)、以下の記事にまとめているので、「毛利元就」の快進撃に興味のある方は、ぜひ後ほどご覧いただきたい。
長州藩成立のあらまし

「秀吉」がこの世を去ると、「徳川家康」がいよいよ天下取りに腰をあげる。
そして「関ヶ原の戦い」が勃発した。
「輝元」は「秀吉」の晩年に、「豊臣五大老」の一人に推され、「関ヶ原の戦い」では「石田三成」方に付くかたちで、西軍の総大将として大坂城・西の丸に入った。

ここで登場するのが、「家康」率いる東軍の勝利を確信していた、「輝元」の従兄弟にあたる「吉川広家」だ。
「毛利家」家老の方針に不安を抱く「広家」は、独断で「黒田長政」を通じて「家康」に内通し、自らが「毛利軍」の参戦を食い止める代わりに、西軍が負けても「毛利家」の所領安泰の約束を取り付けた。
ところが西軍の敗北後、「家康」は「輝元」が西軍に積極的に関与していた書状を、大坂城で押収したことを理由に約束を反故にし、「毛利家」に約112万石から約30万石という大幅な減封処分を下す。
その結果「輝元」は隠居の身となり、嫡男「毛利秀就」が元々の所領のうちの周防・長門の2か国だけを受け継ぎ、それがそのまま江戸時代に「長州藩」となった。
結論を先に云ってしまうと、

その「積年の恨み」は、約260年後に「薩摩藩」と手を組み、「徳川幕府」を打倒することで晴らされるのだが、この経緯を知らずして、「吉田松陰」や「桂小五郎(木戸孝允)」「高杉晋作」など、『幕末の志士』と呼ばれる人材を数多く輩出した、『本当の萩』を語ることができないことが、ご理解いただければ幸いだ。

ちなみに江戸時代以降、「萩」の城下では正月の儀式として、家老が藩主に対し「(徳川に攻め入るのは)今年はいかがで…」と問い掛け、藩主が「時期尚早じゃ」と答える挨拶が定着していたという。
儀式が事実だったかどうかは分からないが、1866年の元旦に「時期尚早じゃ」が、「時期は今じゃ!」に変わるのだから、歴史はおもしろすぎる(笑)。
江戸時代の長州藩

この話は、あまり表には出てこないのだが、わずか30万石にまで落ち込んだ「長州藩」が、いかにして幕末に「江戸幕府」を打倒するほどの武力を持つに至ったのか…
その疑問にも答えておきたいと思い、用意した。

まず、領地を4分の1に減封された「毛利家」は、新たな検地に着手するが、その結果は、公表されていた30万石を大きく上回る53万石だったという。
さらにその後の新田開発などにより、幕末期には実際の石高が100万石を超えていたとも推定されている。
そのいっぽうで、藩債処理や倹約による財政立て直しを繰り返し進め、同時に国内外との交易を盛んにして、着実に財力を身につけていった。
いっぽう既にこの時期、産業革命を達成した西洋列強が日本近海にも勢力を伸ばしており、本州の西端にあって三方を海に囲まれていた「長州藩」は、その国際情勢を敏感にキャッチし、養ってきた財力を使って、早くから西洋医学や近代的な軍制を積極的に取り入れていった。
200年以上に及ぶこうした”胎動期”を経て、「長州藩」はいよいよ「尊王攘夷」の花を咲かすべく、京の都に打って出るのだが、ことはそう容易には運ばなかった。
幕末日本と長州藩

再興を期して苦難を乗り切った「長州藩」は、さらに密貿易で富を築き、京に兵を送って幕府に「尊王攘夷」を迫った。
尊王攘夷とは…
天皇を尊び、特に外国との通商に反対し、武力で外国人を排斥しようとした思想。
元々は「水戸藩」から派生したが、幕末には「長州藩」や「土佐勤王党」などが中心となり、それを行おうとしない幕府政治を批判し、倒幕や明治維新へと繋がる大きな流れを形成した。

しかし「長州藩」のツメは甘く、佐幕派の「会津藩」と「薩摩藩」によって、再び徳川幕府の軍門に降ってしまう。
それに凝りた「長州藩」の家老は、徳川幕府への恭順の意を示したが、ここで「尊王攘夷」の意思を「吉田松陰」から受け継いだ弟子たちが踏ん張り、藩内の主権を奪い返すと、「坂本龍馬」の仲介を得て、まさかの「薩長同盟」が実現する。
その結果、関門海峡の馬関で、再度「長州成敗」を行うべく派兵された幕府軍を撃破し、まさに今で云う「ジャイアント・キリング」を引き起こした。
これを境に江戸幕府は求心力を失い、一気に「大政奉還」へと時は流れる。
この最後のくだりは、これまで何度も大河ドラマで繰り返されてきたので、多くの方がご存知だと思うが、云ってみればここまでが『萩の基本』だ。
極端な話、最後の幕府軍との戦いに勝利したからこそ、城下町はそのまま残った。
実はこのドラマチックな背景に絡む物語が、「萩」には数え切れないほど埋まっていて、掘っても掘っても底が見えない。
だからこそ、リピートのしがいがあるわけで、筆者はこれまで7度この地に足を運んできた。
ちなみに以下は、「坂本龍馬」にピントを合わせて書いた「薩長同盟」の記事で、もし興味があれば合わせてご覧いただけるとおもしろいと思う。

そしてそんな「萩」の幕末の様子を、詳しく教えてくれたのが、2015年に放送されたNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」だった。
以下のサイトでは懐かしい、その動画も見ることができる。
萩 車中泊旅行ガイド






















