この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
大阪夏の陣における、松平直政の武勇を讃える品
この話は、その松平直政が松江城の主になる遥か前に得た、真田幸村の軍扇についてである。
幸村からこの軍扇を直接受け取ったのは、松平直政が14歳の時。
直政は大坂夏の陣で、幸村が守る玉造門の攻防戦で初陣を飾るが、若武者ながら勇敢に攻め込むその姿を見た幸村は、「敵方ながらあっぱれ」と讃え、自らの軍扇を真田丸から投げ与えた。
松平直政は徳川家康の次男で、現在の福井県にあたる越前北ノ荘藩主・結城秀康の三男として生まれた。
つまり早い話が、家康直系の孫にあたる。
越前軍は大坂夏の陣で真田軍と激突するが、最後は幸村を筆頭に多くの敵将の首を獲り、大いなる戦功を挙げている。
成長して大名となった直政は、上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て、寛永15(1638)年に松江に転封され、堀尾家2代、京極家1代の次の出雲国松江藩藩主となる。
幸村の軍扇は、以降、幕末の十代藩主・松平定安にいたるまで、230年間松平家の家宝として松江で大切に保管されてきた。
なお、本物の軍扇は長い間松江城内に展示されていたが、現在は松江歴史館に展示されたレプリカしか観ることができない。
ちなみに軍扇は、戦場での縁起物の道具として使われていた。
中央の円形は太陽を意味しており、裏面に描かれた三日月とあわせて、その表裏で昼間と夜間を区別する。
使い方の基本は、まず「昼間は、太陽側を表にし、骨を6つ開き、残りは畳んで使う。夜間は逆に、三日月側を表にし6つ開いて残りを閉じる。全部が開かれるのは合戦の勝利後だという。
興味深いのは、悪日に戦をする際には、昼間は三日月側を表にして使い、夜間は太陽側を表にして使うという点。
軍扇を使用する事で、悪日を吉日に変えてしまうというのは、大将のカリスマ性と兵の士気を高めるための重要なファクターだったのかもしれない。
その意味からすれば、真田幸村は「軍扇の使い手」に相応しい武将だったのだろう。