車中泊旅行歴25年の歴史に精通するクルマ旅専門家がまとめた、2023年4月現在の松江城の歴史と見どころ及び、車中泊事情に関する情報です。
この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
現存十二天守に数えられる松江城は、「国宝」に再認定された曰く付きの名城
松江城は「現存十二天守」のひとつで、1935年(昭和10年)に一度国宝指定されている。
しかし文化財保護法の制定によって「国宝の基準」が変わり、1950年(昭和25年)に重要文化財に格下げされた。
だが松江市はその後も地道な調査を継続し、60余年を経た2012年、遂に江戸時代初期に完成していたことを示す証拠を発見する。
それが写真の「慶長十六年」と記された2枚の祈祷札(きとうふだ)で、その後の研究により、天守が1611年(慶長16年)の完成であることが明確になる。
さらに2階分の通し柱や、包板を用いた特徴的な柱構造が解明され、天守建築に優れた技法を用いた事例であることが判明した。
かくして2015年7月8日、松江城は再び国宝に再登録され、その名誉を回復することに成功した。
ここからは城主の歴史を辿るとしよう。
「松江開府の祖」とされる堀尾吉晴は、豊臣秀吉、徳川家康の二人の天下人に仕え、特に豊臣政権下では三中老のひとりとして功績を残した人物で、城普請の名人と呼ばれていた。
吉晴は、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、出雲・隠岐両国を拝領した嫡男の忠氏(ただうじ)と共に、浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目し、居城の移転を決意する。
忠氏は享年27歳で病死するが、吉晴は孫の忠晴を助けて松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いた。
堀尾家の後を継いで、小浜(福井県)から松江に入国したのは京極忠高だ。
正妻の「初(常高院)」は、あの「淀君」の妹であると同時に、徳川二代将軍・秀忠の正妻「江」の姉で、関白秀吉の義理の弟、二代将軍の義理の兄、さらに豊臣秀頼と三代将軍家光の叔父という、とんでもない立場にあたる(笑)。
それがあってかどうかはわからないが(笑)、3年余りの短い統治期間中に、幕府の直轄領であった石見銀山(世界文化遺産)の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主のなかで最大の領地を治めていた。
その京極家の次に松本(長野県)から転封されてきたのが、徳川家康の第二子・結城秀康の第三子、つまりは大御所の孫にあたる松平直政。
まさに「真打ち」の登場だ。
1614年(慶長19年)、松平直政は14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣で力戦奮闘する。
それを救ったのが、元藩士の高城権八と、出東村の豪農・勝部本右衛門だ。
彼らは資金を調達し、落札額を納めることでその確保に成功。以降天守は保護され、今日に至っている。
最後は、その守り継がれてきた天守について。
松江城の天守は「五重六階」で、現存する天守のなかでは、大きさ(平面規模)で2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目になる。
よく「正統天守閣」と云われるが、正統天守とは安土城 の流れを汲む望楼型の天守を指しており、他では大阪城や岡山城、萩城などにも当てはまったが、松江城と姫路城以外は、既にその原型を失っている。
城内は一部が展示スペースになっているが、籠城に備えた倉庫や井戸など、当時のままの様子も伺える。
ただし階段はすこぶる狭いので、できればジャケットの要らない季節に、手ぶらに近い格好で行くほうがいい。
なお、天守のテラスからは宍道湖も見渡せるが、絶景というほどではない。
松江城 オフィシャルサイト
☎0852-21-4030
松江城に登城するなら、その前に「松江歴史館」を見ておくことをお勧めする。
城内は狭いだけでなく空調も悪く、冬は寒くて長居はできない。同じ展示物を見るなら近代設備の整った歴史館のほうが断然いい(笑)。
駐車場は松江城大手前駐車場(1時間300円)が近くて便利だが、土日限定で隣接する島根県庁の「おもてなし駐車場」が無料で使える。もちろん午前中には満車になるので、ここを狙うなら朝一番がお勧めだ。
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