25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、「独眼竜」こと初代仙台藩主「伊達政宗」のプロフィールと功績です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「伊達政宗」の経歴と功績。

仙台の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2009.07.21
2014.04.13
2015.07.10
2020.07.16
2025.06.04
※仙台での現地調査は、2025年6月が最新です。
旅行者が知っておきたい、「伊達政宗」の経歴と功績

「政宗」が戦で勝ち取ったのは、「黒川城(現在の会津若松城)」
旅人には、「伊達政宗」のプロフィールの”ここが大事”

出典:NHK
それまでは「奥州の覇者」と形容されることが多かった「伊達政宗」に、「独眼竜」のイメージを浸透させたのは、1987年に放送されたNHK大河ドラマ第25作で、若き「渡辺謙」が主役をつとめた「独眼竜正宗」だろう。
原作は「山岡荘八」の「伊達政宗」で、仙台藩62万石の礎を一代で築いた、奥州の覇者「伊達政宗」の生涯を見事に描いた。

「山岡荘八」といえば、代表作の「徳川家康26巻」が、世界最長小説のひとつとしてギネスに認定された、日本を代表する歴史小説家で、歴史上の人物を深く掘り下げ、人間味あふれる描写を得意としている。

出典:NHK
筆者は「独眼竜正宗」をLIVEで全話見ているのだが、さすがに記憶は薄れている。
ただ2025年1月に放送された、『NHK放送100年 レジェンド俳優が語る大河ドラマ名場面スペシャル』で取り上げられた、「勝新太郎」演じる「豊臣秀吉」との対面シーンは印象的でよく覚えている。
以下の記事には、その時の「渡辺謙」の思い出が綴られているのだが、大河ドラマはこういうエピソードを数多く残しているから役に立つ(笑)。
あと10年、20年生まれるのが早ければ、天下を取っていたかもしれないと囁かれる「伊達政宗」は、実は謝罪と処世術の達人でもあった。
さて。
少し話が逸れかけたが、ここからはタイトルに掲げた通り、『旅行者が知っておきたい、「伊達政宗」の経歴と功績』について語っていこう。
なぜなら、「伊達政宗」は仙台だけの人ではないからだ。
特にこれから東北地方をめぐりたい車中泊の旅人にとって、各地に残る「伊達政宗ゆかりの地」を知っておくことは、旅に新たな深みを加えることになると思う。
「伊達政宗」が生まれたのは、山形県の米沢城

「伊達政宗」は1567年(永禄10年)8月に、米沢城で生まれている。
父は伊達家16代当主の「輝宗」、母は山形城主「最上義守」の娘「義姫」(兄が最上義光)で、幼名は「梵天丸」。
「梵天丸」は5歳くらいの時に天然痘にかかり、右目を失明したと伝えられているが、傅役(もりやく)【今で云う教育係】の「片倉小十郎景綱」や、「輝宗」が米沢に招いた美濃の高僧「虎哉宗乙(こさいそういつ)」の下で、学識と教養を身に付けていった。
のちに領内の松島を再構築していく「政宗」が、仏教はもとより、漢学や五山文学など幅広い教養の素地を身に付けていたのは、幼少期の「虎哉宗乙」の影響によるものなのだろう。

出典:NHK
ちなみに大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「虎哉宗乙」を演じたのは「大滝秀治」。
ドラマ「北の国から」や、映画「あなたへ」などで、車中泊の旅人にはお馴染みの役者だが、今思えば、これもまた「はまり役」だったと思う。
「政宗」が戦で勝ち取ったのは、「黒川城(現在の会津若松城)」

その後「政宗」は10歳で元服し、17歳で家督を継ぐ。
「伊達家」当主となった「政宗」は、奥州平定のために奔走し、叔父である「最上義光」のほか、「蘆名(あしな)氏」「相馬氏」らと合戦を繰り返し、ついに1589年(天正17年)に「摺上原(すりあげはら)の戦い」で「蘆名義広」に勝利して、黒川城(後の会津若松城、あるいは鶴ヶ城)を手に入れた。
しかしその頃、すでに天下は「豊臣秀吉」のもとに統一されつつあり、「伊達家」では「秀吉」の上洛の命に従うか否かで内紛が勃発する。
その危機を乗り切った「正宗」は、遅ればせながら小田原成敗に出陣していた「秀吉」の下に馳せ参じる。
それが冒頭の大河ドラマのシーンだ。
この時は、かろうじて改易や処刑は免れたものの、減封処分を下され、勝ち取っを「会津」は召し上げられて、再び「米沢城」に居城を戻すことになった。
その後「黒川城」には、「蒲生氏郷」を経て、1597(慶長2)年に「上杉景勝」が120万石で入城する。
豊臣秀吉の「奥州仕置」で宮城へ

出典:城びと
さらに「正宗」は、「秀吉」の「奥州仕置」によって生じた一揆煽動の罪により、1591年(天正19年)に現在の宮城県大崎市にある「岩手沢城」に転封される(このとき岩出山城に城名を変更)。
以降、「伊達政宗」はこの地で約12年間を過ごすことになるが、「豊臣秀吉」が死去すると、「徳川家康」に忠誠を誓い、長女「五郎八姫(いろはひめ)」と「家康」の6男「松平忠輝」との婚約を結び、さらに嫡子「忠宗」に、徳川二代将軍「秀忠」の養女「振姫」を正室に迎えるなどして、その関係を深めていった。
徳川家のもとで仙台城を築城し、初代藩主となる。

「伊達政宗」は1600年の「関ヶ原の戦い」には直接参戦していないが、「北の関ヶ原」と呼ばれる、出羽国で行なわれた「上杉景勝(西軍)」との戦いに、「最上義光」とともに出陣して勝利を収めた。
その結果、「上杉氏」は「会津」を没収され、「米沢城」に転封される。
いっぽう「正宗」は、翌年に62万石の大名として、約63キロ南に下った仙台に新たな居城を築き、「家康」「秀忠」「家光」と、徳川三代将軍から厚い信頼を得て、仙台藩の確固たる基盤を築いていった。
ちなみに「伊達家」は、「将軍家」と親戚関係にはあったが「外様大名」だ。
「外様大名」とは、「関ヶ原の戦い」前後に「徳川氏」の支配体系に組み込まれた大名で、一時的とは云え、「秀吉」に従っていた「伊達家」は「外様」のままだった。
なお、「譜代大名」は「関ヶ原の戦い」以前からの「徳川家」の家臣、そして「親藩大名」は「徳川将軍家」の一門を指す。
仙台藩主「伊達政宗」の功績

「伊達政宗」は35歳の時に仙台藩初代藩主になるのだが、実はそこが70歳まで生きた彼の人生の折り返し点で、以降の時間は太平の世となる中で、仙台藩の基盤と文化を築くことに尽力している。
その具体的な功績は以下の通り。
仙台城と城下町の建設
「関ヶ原の戦い」の後、仙台に居城を移し、仙台城と城下町の建造に着手。
領内の寺社仏閣の整備
「瑞巌寺(円福寺)」の再興や「大崎八幡宮」の建立など、領内の寺社仏閣の整備に尽力。
慶長遣欧使節の派遣
1613年には、スペインやローマに使節団を派遣し、海外との交流を推進。
文化の振興
仙台を文化の中心地とするため、茶道や和歌、能楽などの日本の伝統文化を奨励。
産業の育成
石巻港を開き、仙台米を江戸へ出荷するなど、仙台藩の経済発展に貢献。
そしてその功績を現代にわかりやすく紹介しているのが、日本遺産「政宗が育んだ“伊達”な文化」になる。
仙台から塩釜、松島、そして石巻へと宮城県の太平洋岸を旅するなら、この日本遺産のストーリーがきっと、素晴らしいガイドになってくれる。
こんな素晴らしいものがあるのに、みんなほとんど知らないんだよなぁ~(笑)。
仙台 車中泊旅行ガイド

トップページにはこちらから。
車中泊で旅する宮城県
車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
この記事がよく読まれています。
























