25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、「仙台城(青葉城)」の具体的な見どころと、広大な場内をくたびれずに周るための情報です。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
記念写真が撮りたい人は本丸跡へ、仙台城のことがちゃんと知りたい人は「青葉城資料展示館」へも足を運ぼう。

仙台城 DATA
仙台城 本丸跡(青葉城公園内)
〒980-0862
宮城県仙台市青葉区川内
現地電話なし
見学自由 無料
※駐車場は有料
「仙台城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2009.07.21
2014.04.13
2015.07.10
2020.07.16
2025.06.04
「仙台城」での現地調査は、2025年6月が最新です。
日本100名城 「仙台城」

初代藩主「伊達政宗」の経歴と功績

どう転んでも、「仙台城」の話をすれば、築城した初代城主「伊達政宗」の紹介を避けては通れない。
しかし、いったんその話を始めると、長くなりすぎるのが”世の常”だ(笑)。
そこで、当サイトでは後回しもにできるよう、別立てにしてまとめているのだが、筆者の紹介は他とは明らかに違って、『旅行者が知っておきたい、「伊達政宗」の経歴と功績』になっている。
なので教科書とは違い、眠くもならずにスラスラ~と読める(はずだ)(笑)。
ただ睡眠不足の貴方のために要約すると、
「仙台」は「伊達政宗」が生まれ育った土地ではなく、江戸時代になって初めて手に入れた領地で、その歴史は徳川幕府とともに始まった。
「仙台城」には最初から天守がなかった!?

初めて「仙台城」の本丸跡を訪ねた人が目にするのは、アスファルトで固められた、この『およそ城跡とは思えない光景』だ。
なので、あまりのイメージとのギャップに唖然とするかもしれない(笑)。
そりゃそうだ。
62万石の大大名「伊達政宗」の居城で、当然のように日本100名城にも名を連ねているだけに、「大阪城」のように鉄筋コンクリートであったとしても、再建された天守があって然りと、普通は誰でも思うに違いない。
しかし「仙台城」の天守は、再建のしようがなかった…
「仙台城」は、「伊達政宗」が「関ヶ原の戦い」の翌年にあたる1601年(慶長6年)から普請に着手し、翌1602年(慶長7年)に一応の完成を見ているのだが、「政宗」は「徳川家康」に対する恭順の意思を明確に示すため、天守を建てることを遠慮したとされている。
理由は他にもあるようだが、要は最初から天守はなかったということ。

その代わりに、ここに「千畳敷」とも呼ばれる「大広間」を造り、数多くの美術品を飾っていたという。
さすがは派手好みで知られる、「伊達男」の本領発揮というところだろう。

その片鱗を展示しているのが、隣に建つこちらの小さな「仙台城見聞館」だ。
見学は無料で、9時から17時まで年中無休で開館している。

出典:仙台城VRゴー
1610年(慶長15年)に完成した、この本丸跡の北側に位置する「大広間」は、「仙台城」初期の主要な建物で、藩の政治や儀式を行う場として使われていた。
畳敷き部分に縁側を含めると、約430畳にも及ぶ大規模な武家御殿建築であったと伝えられているが、残念ながら明治初頭の廃城令により取り壊されている。

ちなみに、地面がアスファルトで固められているのは、発掘調査を終えた後で勝手に掘り返されないようにしているからだ。
同様の処置は、奈良の藤原京跡や、福岡の大宰府支庁跡などでも行われている。
さて。

「仙台城」の本丸跡まで来た人の多くは、そんなことより『早くこの像とともに、記念写真を撮らなくては!』とソワソワするに違いないと思うので(笑)、さっそく本命の場所へと案内しよう。

ところが2025年に訪ねてみると、その姿が見当たらない…
そこで「仙台市博物館」の受付けで確認すると、なんと2023年に完成した「青葉山公園仙臺緑彩館」の裏庭に移転したとのことで、わざわざ撮り直してきた。

個人的には前の場所のほうが『知る人ぞ知る』みたいで良かったような気もするが、「正宗君」と記念撮影をするんだったら、ぜひ初代と二代目の両方でどうぞ(笑)。
こちらのほうが、圧倒的に顔の近くに並べるし、ほとんどの人はこのことをまだ知らないと思う。
ただし両者は、1キロ近く離れた「仙台城」の本丸跡(頂上部)と、「片倉小十郎」屋敷跡(麓)に鎮座しており、順序よく周らないと、とんでもない距離を歩くことになるのでご注意を。
「仙台城」築城の背景

それを裏付ける写真がこちら。
写っている風景は、先ほどの「初代」騎馬像があったところから、「仙台城」の本丸跡を見上げたものだ。
よくこんな写真を撮ってましたね。
そう思うかもしれないが、プロというのは頭の中にどんな記事を書くかをある程度イメージしながら取材しており、こういうカットが文章構成上必要になると思ってシャッターを切っている。
シンガーソングライターと同じく、写真と執筆の両方できるクリエイターとはそういうものだ。
「仙台城」は天守こそないものの、天然の要害である青葉山に築かれ、本丸は東西245m、南北267mという、諸大名の城郭の中でも最大級の規模を誇っていた。

「徳川家康」が「関ヶ原の戦い」に勝利し、事実上の天下人となった直後に築城された「仙台城」が、なにゆえこんな不便な崖の上の高台につくられたのか…
考えてみればおかしな話だが、その理由はただひとつ。

「関ヶ原の戦い」以降も、豊臣家と親密な関係を保つ、「上杉氏」への睨みを効かせるためだった。
「家康」から厚い信頼を得ていた「伊達政宗」は、「上杉氏」の動きを監視し、もしもの時には防衛拠点となる重要な使命を受けて、仙台の地を任されるのだが、そのためには「守るに易く、攻めるに難い」山城を築くことが急務だった。
それゆえ「仙台城」は、自然の要害に囲まれた丘陵地と、交通や城下町の発展が期待できる平野部をあわせ持った、青葉山の地に築かれたと考えられている。
そう聞くと、わずか2年という突貫工事で築城されたことにも合点がいくわけだが、当初の敵だった「上杉氏」は、1601年に会津120万石から米沢30万石に、さらに1604年には15万石にまで減封され、その力を急速に奪われていった。
おかげで「仙台城」は戦に備えた要塞から、藩の政庁へとシフトし、財政も城下町の整備や、領内の歴史と文化の再興に費やされるようになっていく。
その恩恵を受けた、いちばん分かりやすい場所が「松島」だろう。

同時に「仙台城」も、本丸から麓に近い場所に中心が移り、「政宗」の死後、二代目藩主「伊達忠宗(ただむね)」は山麓部に二の丸を造営。
二の丸が完成した1639年(寛永16年)以降、幕末まで藩政の中心となった。
明治の廃藩置県以後、「仙台城」は明治政府の管轄となり、1871年(明治4年)には、二の丸に軍の施設が置かれたが、1882年(明治15年)の火災により、その建物のほとんどが焼失した。
現在、二の丸は「東北大学川内キャンパス」に、三の丸は「仙台市博物館」にその姿を変えている。
本丸跡に残る「清水の舞台」の痕跡

そんなわけで、実は「仙台城」の実態からすると、本丸は「政宗」が生きた時代にしか機能していなかった。
「政宗」は死際に、『この城は泰平の世には向かん。わしが死んだら修築しろ』と、家臣や「忠宗」に言い残したという逸話が残っているのもおもしろい。
ただ本丸には、「正宗」が本気で上方に負けない気品ある城を目指していた痕跡が、もうひとつ残されている。

それがこちらだ。
懸造とは、崖に突き出した数寄屋風書院造りの建物のことで、かつては写真の柵の向こうに「眺瀛閣(ちょうえいかく)」という懸造があったとされる。
現在は石垣や礎石しか残っておらず、現場で見てもなんのことだかよく分からないのだが、古図や「青葉城資料展示館」の再現CGで、往時の姿を偲ぶことができる。

確かに再現されたイメージを見ると、まさに清水の舞台そっくりだった。

またその横には、仙台出身の詩人「土井晩翠」の銅像と、代表作「荒城の月」が刻まれた石碑がある。
春高楼の花の宴
めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし
むかしの光いまいずこ
「荒城の月」は、「土井晩翠」が作詞し、「瀧廉太郎」が作曲した歌曲で、その歌詞は、廃墟となった城の姿を通して、時の流れや人生の無常を表現しており、「仙台城」と「会津若松城(鶴ヶ城)」をモチーフに創作されたと云われている。
明治34年に「土井晩翠」は「荒城の月」を発表しているが、彼が「仙台城」や「会津若松城」を訪れていた当時は、いずれも明治の廃城令により取り壊された後で、今では想像ができないほど場内は荒れ果てていたはずだ。

また「仙台城」と「会津若松城」は、いずれも「伊達政宗」ゆかりの城というのも、どこか因縁を感じさせてくれる。
ちなみに「秋川雅史」が歌い上げる、この現代語字幕付き「荒城の月」はゾクゾクするほどすごい(笑)。
さて。

とりあえず、ここまで本丸跡の見どころを中心に紹介してきたが、「仙台城」にも櫓や石垣といった城郭としての見どころがないわけではない。
ただそれらは、どちらかといえば「お城マニア」のテリトリーで、旅行者にとってさほど興味があるものとは思わない。
ということで、ここからは「仙台城」に関する資料や展示が見られるミュージアムを紹介したい。
そもそも「城跡」というのは、今はもうないものを、残された遺構から、あった当時の姿を想像して楽しむもので、それなりの知識がなければ「本当のおもしろさ」が分かるものではあるまい。

だがそれをサポートし、解説してくれるのが「ミュージアム」で、たいした「お城マニア」ではない筆者は、いつもその恩恵を受けている。
「青葉城資料展示館」はここがいい!

「仙台城跡」というか「青葉山公園」には、「仙台城」のことが分かる2つのミュージアムがあるのだが、ここでは本丸跡のすぐ近くにあって、仙台城に特化した「青葉城資料展示館」をレポートする。
なお筆者が訪ねた2020年には、ホームページに200円の割引入場券がついていたが、2025年6月現在は見当たらない。

「青葉城資料展示館」の館内には、「仙台城」の模型のほかに、「伊達政宗」の一生や伊達家・仙台藩に関する実物資料と、解説パネルなどが展示されている。

中でも興味深いのが、鶺鴒(せきれい)型の花押(かおう)が記された「政宗」自筆の書簡だろう。
「伊達政宗」の花押には、その度胸と機転を後世に伝える逸話が宿っている。
1590年の「豊臣秀吉」による小田原征伐の際に、「政宗」が旧葛西・大崎領の支配をめぐって、その一揆に加担するという旨が記された書状が「豊臣家」の手に渡り、「政宗」は「秀吉」の前でその事実を追求されるが、とっさに『本物の花押には、鶺鴒の顔に針で穴をあけた「目」がある』との釈明を思いつき、「政宗」は絶体絶命の窮地を逃れたという。
もちろん展示されているのはその時の書状ではないが、同じ「政宗」直筆の花押が記されている。
当然穴はあいてないけどね(笑)。
ただそれ以上にお勧めなのは、『バーチャル仙台~よみがえる仙台城・城下町』と銘打たれた、こちらのCG動画だ。
仙台城のみならず、城下の様子まで精密に復元され、現在では誰も見たことのない当時の建物や町並み、そして景観を鮮やかに蘇らせている。
さらに今は、城内でのVRツアー「仙台城VRゴー」も体験できる。
青葉城資料展示館
☎022-227-7077
おとな770円
4月~11月:9時~17時
(最終入館16時40分)
12月~3月は9時~16時
(最終入館15時40分)
無休
駐車場は隣接する青葉城有料駐車場を利用
なお筆者が絶賛している、もう少し大人向けの「仙台市博物館」については、以下の記事の中でふれているので、興味があれば後ほど合わせてご覧いただきたい。
くたびれない「仙台城跡」の周り方

出典:青葉城本丸会館
ここまでの説明で、旅行者にお勧めの「仙台城跡」の見どころが、「青葉城資料展示館(青葉城本丸会館)」を含めて、本丸跡周辺に集中していることがご理解いただけたと思う。

ただ、「仙台城跡」を包含する「青葉山公園」には、麓の三の丸の跡地に建つ「仙台市博物館」に近い場所に、2023年4月に新たな文化施設の「仙臺(せんだい)緑彩館」がオープンし、その横に車中泊もできる大きな有料の観光駐車場ができている。
そのため、いずれは「仙台城跡」で検索すると、こちらにナビゲーションされるようになるかもしれない。

確かに「仙臺緑彩館」からも、森のように木立が茂る場内を抜けて、本丸跡まで徒歩15分ほどで行くことができる。

その道中には、前述した「城郭」としての「仙台城跡」の見どころが点在しているのだが、行きは中高年には息が上がるほどの坂道になっており、ここで一気にスタミナを失いかねない。
ゆえに旅行者が本丸跡に行くなら、「仙臺緑彩館」横の駐車場を利用せず、本丸のすぐ近くまでクルマで上がって、「青葉城有料駐車場」を利用するほうがいいと思う。

ただ「青葉城有料駐車場」は最初の1時間が600円で、以降30分ごとに300円とかなり割高な料金設定なので、初代の騎馬像が待つ「仙臺緑彩館」にも行くという人は、見終わったら速やかに30分100円の「青葉山公園仙臺緑彩館駐車場」に移動しよう。
面倒に思うかもしれないが、それでも仙台城本丸跡の見学は、『お金で苦労を回避する』のが得策だ(笑)。
「仙台城」のアクセスマップ
ということで、ここでは本丸跡にもっとも近い青葉城有料駐車場を案内する。
仙台 車中泊旅行ガイド

宮城県 車中泊旅行ガイド

車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
この記事がよく読まれています。
























