歴史が好きで経験豊かな「車中泊旅行家」が、戦国武将「毛利元就」のプロフィールと、日本100名城に選ばれた居城「吉田郡山城」の概要と歴史及び、駐車場等を詳しく紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
先に「毛利元就(もうり もとなり)」を知らずして、安芸高田の山中にある、時代から取り残された山城「吉田郡山城跡」は楽しめない。

吉田郡山城 DATA
吉田郡山城
〒731-0501
広島県安芸高田市吉田町吉田
現地電話なし
城跡は常時開放
「吉田郡山城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2022.04.27
「吉田郡山城」での現地調査は2024年4月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2025年8月に更新しています。
「毛利元就」とその居城「吉田郡山城(日本100名城)」

「毛利元就」プロフィール

出典:安芸高田市観光ナビ
戦国時代の武将「毛利元就(1497-1571)」は、卓越した知略を発揮しただけでなく、一族の結束を重んじて家臣や領民から信頼を得る、カリスマ性を兼ね備えていた人物だ。
「吉田郡山城」を拠点に、一代で国人領主(こくじんりょうしゅ)から勢力を伸ばし、中国地方の安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国を支配して、西国随一の大大名へとのし上がった。
75歳で亡くなるまで、二百数十回におよぶ合戦を繰り返したその人生は、生誕500周年にあたる1997年に放送された、NHKの大河ドラマ「毛利元就」の中でこと細かに描かれている。
NHK大河ドラマ「毛利元就」

出典:NHK
キャスティングは、歌舞伎俳優の三代目中村橋之助(現・8代目中村芝翫)・中村梅雀・中村獅童、アイドルの森田剛・松本恵、舞台俳優の上川隆也・笹野高史、宝塚出身の一路真輝、当時、駆け出しの若手俳優であった西島秀俊、お笑いタレントの恵俊彰など様々なジャンルに富んでいた。

筆者も見ていたが、若きの日の「元就」は、頭は切れるが愚痴っぽくてどこか女々しく、その頃に仕えていた、現在の島根県安来市にある「月山富田城」の城主で、当時の山陰で大きな勢力を誇っていた「尼子経久」から、多くのことを学んでいた。
若き「元就」を翻弄しつつ、その才を買う「尼子経久」を演じた「緒形拳」のカッコ良さは際立っていて、30年近く経った今でも鮮明に覚えているが、後に「元就」はその「尼子氏」と袖を分かち、壮絶な戦いを繰り広げることになる。
実は「毛利氏」飛躍のきっかけとなるのは、1540年にその「尼子氏」との間で起きた「郡山合戦」だ。
「尼子氏」を裏切った「元就」を討つべく、「経久」の後を継いだ孫の「尼子晴久(詮久)」が、3万とも云われる大軍勢を率いて「吉田郡山城」に迫り、そこから4ヶ月に及ぶ戦いが始まったが、「元就」は「尼子勢」の10分の1ほどの手勢でこれを迎え撃ち、「大内氏」他からの援軍も得て、「尼子軍」を退けることに成功した。
これを機に力をつけた「元就」は、1555年に「大内氏」を滅ぼし、さらに1562年には「尼子氏」から「月山富田城」を奪取し、西日本最大の戦国大名となる。

その「月山富田城」も、難攻不落の山城として有名だ。
「毛利軍」に敗れた後も、忠臣「山中鹿介」が先頭に立ち、尼子氏再興を目指す悲運の物語が続くこともあり、歴史ファンには昔から根強い人気を誇っている。
もし興味があれば、こちらもご覧いただき、ぜひ島根県の松江にほど近い現地まで、足を運んでみていただきたい。
そして中国地方平定から5年後の1571年、
「元就」は「吉田郡山城」で、病のため75年に及んだ波乱の生涯を終える。
この時「信長」は37歳、「秀吉」35歳、「家康」はまだ29歳だった。

「毛利家」は、「元就」の長男「隆元」が若くしてこの世を去っており、その嫡男で「元就」の孫にあたる「輝元」が家督を継ぎ、1591年には勢いに乗って海に近い広島に進出して築城し、長年親しんできた「吉田郡山城」を”卒業”する。
この頃が「毛利家」の全盛期だ。

ここからは少し余談になるが、西軍の総大将として臨んだ「関ヶ原の戦い」に敗れた後、「毛利輝元」は密約を交わしていた「徳川家康」から濡れ衣とも云える仕打ちを受けて失脚させられ、嫡男の「秀就」が左遷先の山口県萩市に城を築いて、長州藩の初代藩主となる。

この時に深く刻みこまれた「徳川幕府」に対する「長州藩」の怨念は、それから約260年後の幕末に炸裂する。

舞台は下関から京都、江戸、そして会津若松、さらには函館へと北上し、ようやく徳川の時代が終焉を迎える。
「吉田郡山城」が日本100名城に選ばれた理由

さて。
「吉田郡山城」が「日本100名城」に選ばれたのは、「毛利元就」の居城であり、中国地方の政治・軍事の中心地だった歴史的価値と、広大な山城として防御に優れた要害の地であったことが評価されたためと云われている。
また、中国地方最大級の山城として、その規模と構造が日本の城郭史において重要な存在であることも理由のひとつらしい。
ちなみに「公益財団法人日本城郭協会」が、文部科学省・文化庁の後援を得て選定した、「日本100名城」の選考基準は以下の通り。
●優れた文化財・史跡であること
国宝や国の史跡に指定されているなど、文化財としての価値が高い。
●著名な歴史の舞台であること
歴史上の重要な事件や人物に関わるなど、歴史的な意義が高い。
●時代・地域の代表であること
日本の各時代(古代の城柵から近世城郭まで) や各地域を代表する城である。
これらに加え、『すべての都道府県から最低1城以上、5城以内』という地域的なバランスも考慮され、城郭研究の専門家による選定委員会の審査を経て決定された。

ただ「吉田郡山城」は、天守どころか櫓も堀もない『これぞまさしく山城跡』と呼べるようなところなので、他の「日本100名城」に比べると、相当に地味であることは否めない。
ちなみに「吉田郡山城」に残された、お城ファンをくすぐる写真の本丸跡のような”遺構”の見どころは、こちらのサイトで分かりやすく解説されている。
その中でも、一際よくできた動画があるのでリンクしておいた。
これを見れば、史跡好きの「吉田郡山城」の楽しみ方も伝わると思う。
ただし「吉田郡山城」は、坂だらけで本当にくたびれる(笑)。

見学は1時間半ほどの登山になるので、動きやすい服装とスニーカーは必須。また夏は飲み物と虫よけも用意していくほうがいいだろう。
それからすると一般の観光客には、
ガイドと一緒でなければ分からないような遺構を見るより、『有名な毛利元就ゆかりの場所』を訪ねることが、「吉田郡山城」の楽しみ方になると思う。
そこで、そのための秘訣を紹介しよう。
一般の観光客が「吉田郡山城」を楽しむ秘訣

それはご覧の有名な「三本の矢」、正確には「三矢の訓(みつやのおしえ))」の逸話のトリックアートが出迎えてくれる、「道の駅 三矢の里あきたかた」に先に立ち寄ることだ。
「吉田郡山城」から4キロほどのところにあるこの道の駅は、「毛利元就で有名な安芸高田市の玄関」という明快なコンセプトを持って、県外から訪れる観光客を迎えているので、その情報を無料で気軽に入手することができる。

また物販飲食施設も充実しており、多少入浴施設までは遠いものの、車中泊にも適している。
実際に筆者は、前日の夕方にここに到着して車中泊し、体力が回復した翌日の朝から「吉田郡山城」へと向かっている。

なお「吉田郡山城」の近くには、前述のVTRを制作した、郡山城ガイド・展示解説等を行っている「安芸高田市歴史民俗博物館(おとな500円)」があり、そこへ行けば、道の駅よりさらに深くて詳しい情報を得ることもできる。また100名城スタンプもここに置かれている。
「吉田郡山城」の見どころ

「吉田郡山城」には「元就」や「隆元」など、毛利一族の墓所があり、麓には「毛利元就像」も建てられているが、やはり誰もが見たいのは、「元就」の有名な逸話が宿る次の2つの石碑だろう。
三矢の訓(みつやのおしえ)跡

“一本の矢ではたやすく折れるが、三本束にすれば折れがたい”と、「元就」が臨終の間際に三人の息子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)を枕元に呼び、結束を説いたとされる有名な逸話。
逸話の初見は江戸時代の書物で、真偽のほどは不明だが、「元就」がその旨を書き残した「三子教訓状」がそのルーツと云われ、「元就」の人柄を象徴するエピソードとして定着している。

ただし石碑は、「吉田郡山城」の麓の「郡山山麓御里屋敷」の伝承がある、現在の「安芸高田市多文化共生センターきらり(旧:少年自然の家)」の敷地内にあるので、最初か最後に寄るといい。
碑の裏面には、『元亀2年6月14日毛利元就卿この地に逝く。往時より、この所を御里屋敷とよび、その居館の跡と伝え卿死に臨み、諸子を集め弓矢の訓を垂れし跡なりという。よって碑をたて以て後世に遺さんとす。』と書かれている。
百万一心(ひゃくまんいっしん)

郡山城拡張の際に、「元就」が人柱に代えて埋めたとされる礎石に、彫り込まれていた文字の拓本を基に作られたという石碑。
幕末に山中でその礎石を発見した長州藩士が、文字を写し取って帰ったと自書して、山口県の豊栄神社に奉納されたと伝えられているが、肝心の本物の礎石が未だ見つかっておらず、「吉田郡山城」最大の謎となっているとか。
「百万一心」には『一日一日を、一人一人が力を合せ、心をひとつに束ねたうえで、ものごとを行うこと』という意味が込められている。
なお「百万一心」の石碑は、「吉田郡山城」の「毛利元就墓所」入り口付近に立てられており、そこまで行って、「毛利元就」の墓前に手を合わせて来るだけでもいいと思う。

出典:ひろしま公式観光サイト「Dive!Hiroshima」
「吉田郡山城」の駐車場&アクセスマップ

「吉田郡山城」にもっとも近いのは、無料の「大通院谷川砂防駐車場」で、10台ほど止められトイレも完備している。
ただ、そこよりは多少「吉田郡山城」まで遠くはなるが、前述した「安芸高田市歴史民俗博物館」にも無料駐車場があるので、そちらのマップをリンクしておいた。
博物館に行く人には、500円は駐車場代だと思えば高いものではあるまい。






















