「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
読みだしたら止まらない!
会津の歴史のポイントは、Before&After「会津藩」

「会津若松」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2009.07.22
2010.08.23
2012.04.29
2021.04.11
2024.10.12
※「会津若松」での現地調査は2024年10月が最新で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2025年5月に更新しています。
旅行者が知ってて得する、会津の歴史

なぜゆえに、幕末の会津藩は
幕府にも新政府にも”狙われた”のか
会津エリアを旅する際に、”絶対知っておきたい大事な話”

まず、この話には「プロローグ」にあたる記事がある。
筆者のサイトは、日本を車中泊のクルマ旅でめぐりたい人に向けて書かれたもので、あくまでも「旅」が主役だ。
それはユニークな歴史を持つ「会津」でも同じだが、この地の場合、「本気」で旅しようと思う人には、これから紹介する情報がどうしても欠かせないと思う。
以下がその理由を詳しく記したもので、この記事は云わばその続きにあたる。
そしてもうひとつ。
筆者が伝えたい『旅行者が知ってて得する、会津の歴史』というのは、

例えばこの「鶴ヶ城」にある、「千利休」の子「千少庵」が建てたと伝わる茶室の「麟閣」を見て、『はは~ん、なるほど。「蒲生氏郷」は本当にいい人だなぁ』とほくそ笑むことができるような、「エピソード」に近いものだ。
割引特典や景品がもらえる話ではないので、あしからず(笑)。
Before「会津藩」。
その時代のキーマンは「蒲生氏郷」

最近の教科書では、鎌倉時代の初頭にあたる1189年の「奥州合戦」で、「源頼朝」が現在の岩手県「平泉」を拠点としていた「奥州藤原氏」を滅ぼして以降、安土桃山時代までの「会津」は、「黒川(現在の会津若松)」を本拠地とする「蘆名(あしな)氏」の勢力下に置かれていた。

「蘆名氏」は「常陸太田(後の水戸)」を本拠地とする「佐竹氏」と手を結び、「米沢」の「伊達氏」と対立していたが、1589年に「伊達正宗」に敗れ、「会津」は「伊達氏」の所領に変わった。
しかし「伊達政宗」は、「小田原征伐」に成功して天下統一を果たした「豊臣秀吉」に、わずか1年足らずで「会津」の領地を没収される。

その結果、「会津」は関東・東北を抑える枢要の地として、「秀吉」から信頼の厚い「蒲生氏郷(がもううじさと)」が治めることになる。
会津が軍事戦略上、重要な拠点となるのはここからだ。
当時の「会津」は、北側に「伊達政宗」、南側には「徳川家康」がおり、会津の領主には、両者の監視役を果たす高い政治手腕と有事の際の軍事力が必要だった。
そのため「会津」に入った「蒲生氏郷」は、次々と領内の改革に着手する。

「黒川城(のちの鶴ヶ城)」の改修では、近江国から引き連れた多くの技術者によって、「野面積」(のづらづみ)の石垣を構築し、その上に7層にも及ぶ天守を建造。

また城下町の整備にも力を注ぎ、領内を流れる「車川」を利用して外堀を築くと、郭内に家臣の屋敷、郭外に庶民を住まわせ、要所に神社や寺などを移した。
この区画整備は、現在の「会津若松」市街の骨格にもなっている。
さらに「氏郷」は交易を盛んにするため、近江国から「木地師」や「塗師」を移住させ、「会津木綿」と「会津漆器」の基礎を築かせている。

また室町時代に会津に伝わったとされる「蝋燭(ろうそく)」も、「蒲生氏郷」が近江国より技術者を招いて熱心に改良を進め、絵が描かれるようになったという。
蒲生氏郷のプロフィール

出典:日野観光協会
近江国の日野城主「蒲生賢秀」の子として生まれた「氏郷」は、幼くして「織田家」の人質となるが、「信長」の寵愛を受けて娘「冬姫」を娶る。
以降「織田家」の家臣として、持ち前の才覚を発揮し武功を立てていくが、「信長」の弔い合戦となった「山崎の戦い」で、「羽柴秀吉」が「明智光秀」を討ったことで、その後は「秀吉」に臣従した。
「秀吉」のもとでは「小牧・長久手の合戦」で活躍し、「伊勢国松ヶ島(後の松坂)」に12万石を与えられ、さらに「九州征伐・小田原征伐」の功により、「会津」40万石を拝領し、後に92万石にいたる大大名へと飛躍を遂げる。
またいっぽうでは、親友「高山右近」の影響を受けてキリスト教に入信したり、「千利休」の弟子となり、「利休七哲」の筆頭に挙げられるほどの一流茶人になるなど、文化人としての顔も持ち合わせていた。
だが、そんな「蒲生氏郷」が「会津」城主を務めたのは、36歳だった1590年から、40歳で病死する1595年までの約4年間に過ぎない。
「氏郷」は、朝鮮出兵の拠点として九州の呼子(佐賀県)に築かれた、「名護屋城」への出兵中に病を発症し、最期は京都で息を引き取っている。
病名は、腹水がたまり顔や手足に浮腫ができるといった徴候から、今でいう直腸癌ではないかと推測されている。
本人にすれば『さあ、これから』だったと思うが、これほど短期間に城下町の整備から地場産業の振興まで、幅広く領内整備を進め、現代へ続く「会津若松市」の基礎を築きあげた功績は大いに評価されるべきで、これは「会津」を訪れる旅人にも、ぜひ覚えておいてほしいと思う。

それに町の人たちも、そのことを忘れてはいないようだ。
「氏郷」亡き後の会津

「氏郷」亡き後の「会津」は、嫡男「鶴千代(のちの秀行)」が13歳の若さで跡を継いだが、3年後に下野国・宇都宮18万石に減封され、「会津」は「秀吉」の命により「上杉景勝」の所領となった。
転封の理由は諸説あるようなのでここでは端折るが、それもつかの間、同年に「秀吉」がこの世を去ると、情勢は一変する。
豊臣政権で「五大老」を務める「上杉氏」は、「太閤」亡き後に「天下取り」の準備を露骨に進める「徳川家康」に対して、後世に「直江状」と呼ばれる弾劾文書を送りつけ、それを見た「家康」は「上杉成敗」の兵を挙げる。

そしてそれが、そのまま「関が原の合戦」開始のスイッチとなった。
その結果、「関が原の合戦」で西軍に味方した「上杉氏」は、120万石から30万石に減封されて「米沢」に追われ、「会津」には「徳川家康」の娘「振姫」を妻にしていた、「蒲生氏郷」の嫡男「秀行」が60万石で再入城する。
「家康」はすでに「伊達政宗」と婚姻関係を結んでおり、両者の関係は良好だったので、「上杉」を弱体化できた時点で、「会津」は『かつての軍事拠点』としての役割を終えていた。
ゆえに「家康」としては、娘婿がほどほどに治めてくれれば良かったのだと思う。
成長した「秀行」は、期待に応えるべく町方の振興に努めた。
だが大地震や干ばつに悩まされ、思うように進まないまま30歳でこの世を去る。
さらにその後の「蒲生家」は、家中の乱れや当主の若死が相次ぎ、わずか4代で途絶えてしまった。
しかも代わって「会津」を引き継いだ「加藤家」では、お家騒動が勃発する。
幕府にすれば、『ちょっとアタマの痛い存在』が、この時代の「会津」だったんじゃないのかな~(笑)。
After「会津藩」。
初代藩主「保科正之」参上

さて。
「徳川家光」が3代将軍となり、「幕藩体制」が固まりつつあった1643年、落ち着く気配のない「会津」の初代藩主に選ばれたのは、「家光」の異母弟で、名君の誉れ高い「保科正之」だ。
保科正之のプロフィール

「保科正之」は2代目将軍「徳川秀忠」の庶子だが、正室・側室以外の母から生まれたために、信濃・高遠の「保科正光」の養子として育てられた。
もともと聡明なうえに、幼年時代から英才教育を受けてきた「正之」は、21歳で「高遠藩3万石」の藩主となり、それがきっかけでこれまで「正之」の存在さえ知らなかった、異母兄の「徳川家光」に見出され、やがて将軍を補佐する幕閣となる。
「家光」の信頼の深さに感激した「正之」は、より強く将軍家への忠義を誓い、「会津藩」拝領後も、ほとんど国許へは帰らなかったという。

出典:東京新聞
そんな「正之」の功績の中で、とりわけ有名なのは、江戸の急激な人口増加に対応するため、「玉川上水」を開削して水不足を解消した話だが、なんと今それを、世界遺産に登録しようという運動が行われているというから驚きだ。
また他にも多くの制度を改正して、人道的・先進的な政策を次々に実施している。
なお「保科正之」の詳しい話は、以下の記事をご覧いただくほうが楽しめると思う。
長野県の高遠でも未だに「正之」は大人気で、NHK大河ドラマ化の要望運動が長年続いている。
ただ、筆者が気になったのは、
様々な資料を見ても、「保科正之」の転封が「会津の立て直し」のためとは書かれていないことだった。
話の流れでは『ここで、満を持してエースを投入』と書きたいところなのに(笑)。
思うに「保科正之」に対する「会津藩23万石」への加増格上げは、その「立て直しを図るため」というよりは、それまでの功績に対する「褒美」的な意味合いと、これまで不幸な出生のために軽視されてきた、徳川宗家の血筋に対する正当な評価というほうが強かったのかもしれない。
「家光」にすれば『俺の弟なんだから、このくらい貰って当然だろう』ってね!
また「会津藩主」就任後も、「正之」は江戸に滞在しており、「幕府」は「会津」よりは「江戸」での活躍に期待をしていたようにも思える。
保科正之の功罪

だが新たな国元となった「会津」でも、「正之」は手を抜かなかった(笑)。
江戸で成果をあげてきた「法制」や「学問」の感化によって領民を治める「文治政治」への転換を「会津」でも実践し、領民感情を大きく改善することに成功する。
具体的には、低税率や親孝行者の表彰制度、残酷な刑罰の廃止、余剰米の貯蔵による飢饉対策といった、人道的・先進的な政策を実施すると同時に、「会津家訓(かきん)十五条」を定めて、徳川本家に対する忠誠や藩士の心構えを明らかにし、「会津風土記」を編纂して、領内の由来を明らかにしている。
これは「会津」が「藩」になる前に、「蒲生氏郷」が行った城や城下町、すなわち「会津のハード」の改革に対し、家臣や領民の精神、すなわち「会津のソフト」の改革と呼ぶべきものだ。

このことは「鶴ヶ城」の観光とも関係があるので、もう少し深堀りしておこう。
「鶴ヶ城」は「戊辰戦争」時に、砲撃を受けて大きな損傷を受けたこともあり、その後修理されることなく解体されている。
そのため現在の天守は、1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリートで再建されたもので、中は歴史資料館になっている。
オリジナルの「鶴ヶ城」は、「蒲生氏郷」の時代に大改修を受けて、石垣と7層に及ぶ天守が建てられたが、1611年の大地震で倒壊した。
しかし「加藤嘉明・明成」の時代に、今の「鶴ヶ城」のモデルとなった5層の層塔型天守に築造し直された。
つまりここまでの話は、「Before会津藩」の業績になる。
ゆえに「保科正之」の時には、手を加える必要はほとんどなかったのだが、唯一彼は屋根を、黒塗りの瓦から現在も使われている赤瓦に葺き替えた。
理由は、北国・雪国ならではの低温や積雪に耐えられるように、鉄分を多く含んだ釉薬を用いた赤瓦を会津で開発させたからだというが、その後赤瓦は東北各藩の天守にも伝播していった。
これも派手さはないが確実に成果が望める、彼らしい改革の一例といえるだろう。
ただ「会津」には、「正之」がもたらした「罪」もある。

出典:福島市
この「会津家訓15か条」に、「将軍家への忠誠を失えば我が子孫にあらず」と明記した、強くて純粋すぎる「将軍家」への忠誠心が、200年後の『腐敗した幕府』に、「会津」の領民が窮地へと引きずり込まれる口実を与えてしまった。
なぜゆえに、幕末の会津藩は
幕府にも新政府にも”狙われた”のか

その答えは単純明快、『会津藩が素直で優秀だったから』にほかならない。
そろそろ読まれている貴方も、書いている筆者も疲れてきたということで(笑)、ここから一気に、ラストスパートをかけるとしよう。
「保科正之」が持ち込んだ「文治政治」に力を注ぐ「会津藩」では、教育にも力を注いできた。
その象徴とも呼べる存在が、「什の掟」と藩校「日新館」だ。
ただこの2つができたのは、5代藩主「松平容頌(かたのぶ)」の時代で、「保科正之」の頃からあったわけではない。
待望の「太平の世」を迎えた江戸時代だったが、中期になると「参勤交代」や「国家普請」などの負担が重なり、各藩は財政難に喘いでいた。
そうなると「会津藩」でも、「正之」の時代の頃のようにはいかなくなる。
「容頌」はその立て直しに迫られ、「田中玄宰(はるなか)」を家老に据えて、藩政改革に乗り出した。

出典:Guidoor Media
「玄宰」は財政改革の柱に、「蒲生氏郷」の施策によって特産品となった漆器や絵蝋燭に加えて、養蚕・薬用人参・紅花・藍などの栽培強化を据えると同時に、将来の藩政を支える優秀な人材の育成にも本腰を入れて取り組んだ。

ご存知の方も多いと思うが
「薩摩藩」には、「西郷隆盛」や「大久保利通」を育んだ「郷中(ごじゅう)教育」と呼ばれる独自の青少年教育システムがあり、「長州藩」にも「木戸孝允」や「高杉晋作」が学んだ「明倫館」と「松下村塾」の2つの優れた学び舎がある。

だが「会津」の『文武がバランスよく取り入れられた教育制度』も、後の明治政府を支える「薩長」両藩に引けを取らない、優れたものだった。
ゆえに、幕末にその「薩長」両藩に押されて劣勢に立たされた江戸幕府は、強く賢いうえに将軍に強い忠誠心を持つ「会津藩」に白羽の矢を立て、半ば強引に「京都守護職」を押し付けたわけだ。
すなわち、幕府から狙われた。
そして当然、京都でも「会津藩」は、攘夷派からその治安を守るべく踏ん張った。

その当時の会津藩主は、9代目で「水戸藩」から養子入りした「松平容保(かたもり)」だったが、初代藩主「正之」の意向を汲んで、勤勉に誠意を尽くして職務に取り組んだため、「孝明天皇」から信頼を得て、裏で公家を操り尊王攘夷を画策する「長州藩」の高い壁となっていた。
その結果、シビレを切らして強硬策に出た「長州藩」と、京都御所前で激しい戦闘が生じ、「長州藩」には「会津藩」を許せないまでの深い遺恨が刻まれた。
それが世に云う「禁門の変」で、
分かりやすく云うと、「新政府」は無力に近い徳川幕府を政治の舞台から降ろすだけでよくても、「長州藩」は手強く知略にも優れ、かつ何度も煮え湯を飲まされた「会津藩」だけは許しがたかった。
というより『このまま生かしておくと、また復活してくるのが怖い』という方が、的を得ていたのかもしれない。

ちなみに、1868 年の「会津の戦い」の最中に「飯盛山」で自決した「白虎隊」19人は、「日新館」での訓練通り、敵軍に捕らえられるのではなく、自ら命を絶つことを選択している。
まさに『死んでも戦いはやめない』。
云いかえれば、「什の掟」に示された『ならぬことは、ならぬものです』を忠実に実行している。
それを考えると、『あってはならない』ことなのだが、「新政府軍」の判断は、第二次世界大戦で「連合軍」が日本を降伏させるために、「原爆」を投下する決断を下したことに通じる気がした。
最後に。

「会津の戦い」で「籠城戦」となって以降、平城にもかかわらず「鶴ヶ城」は約1ヶ月持ち堪えているが、それは「豊臣秀吉」の時代に「蒲生氏郷」が、難攻不落の城造りをしてくれたおかげだ。
NHKの「歴史探偵」では、「籠城戦」のやり方を間違わなければ、新政府軍を押し返せたという検証もあったほど。
それにしても…
最後の最後まで、「蒲生氏郷」と「保科正之」が残してくれた「ハード」と「ソフト」の遺産が「会津」を支えていたというのは、なんともすごい話だが、日本人でも「会津」をちゃんと理解するには、ここまで歴史を遡らないと難しい。
というわけで、この記事を書いた。
これで貴方も「会津通」!
ほんまかいな(笑)。
中古キャンピングカーの相場が知りたい人は、こちらをチェック!
福島県・会津エリア 車中泊旅行ガイド

車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
この記事がよく読まれています。
























