25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、「鞆の浦」に残る大河ドラマ「麒麟がくる」と「龍馬伝」のゆかりの地に関する情報です。
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この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
「鞆の浦」に残る、特筆すべき歴史と事件が登場する大河ドラマは、「麒麟がくる」と「龍馬伝」。

「麒麟がくる」
鞆の浦は足利家ゆかりの地

足利尊氏 肖像画/出典:東建コーポレーション
「麒麟がくる」の放送は2020年で「龍馬伝」の10年後だが、史実としては古い「足利氏」の話から始めよう。
鞆の浦と室町幕府を開いた「足利家」のゆかりは古く、一説では1338年から1573年まで、実に200年以上にわたって続いた室町幕府の、『起りと滅びの地』とも云われている。
その説によると、室町幕府は1336年に「後醍醐天皇」軍との戦に敗れた「足利尊氏」が、九州への都落ちを余儀なくされた際に、潮待ちで立ち寄った鞆の浦で、「後醍醐天皇」の政敵となった「光厳上皇」から、再起に向けた院宣を受け取ったことが実質的な始まりになる。
九州で体制を立て直して再び京に戻り、「後醍醐天皇」軍にリベンジを果たして室町幕府・初代将軍の座についた「足利尊氏」以降、室町幕府は15代にわたって将軍を擁立していく。

戦国の世に最後の将軍となった15代将軍「足利義昭」は、その擁立を後押しした「織田信長」と袂を分かち、京を追われた後は毛利氏を頼って、「足利尊氏」ゆかりの鞆の浦に腰を据え、1576年に再起を期した政権を構えた。
ちなみに、
一般的には「義昭」が京都を離れた1573年の時点で、室町幕府は滅んだとされているが、「義昭」はその後も征夷大将軍の地位にあり、近年は「義昭」が鞆の浦を去る1587年までの11年間の政権を、「鞆幕府」と呼ぶ研究者もいるようだ。

「義昭」は鞆の浦で、各地の大名に御内書(将軍が発する文書)を下すなどして精力的に活動し、鞆の浦を一望できる「鞆城」を居館としていた。

出典:NHK
2020年に放送された大河ドラマ「麒麟がくる」では、「滝藤賢一」が時代の渦に巻き込まれる、かよわい「足利義昭」を巧みに好演。

出典:NHK
いっぽう2023年に放送された大河ドラマ「どうする家康」では、「古田新太」がまったく違うキャラを怪演し、驚かせたというか、笑わせたというか…
いや呆れさせたというのが、いちばん相応しい表現だったかもしれない(笑)。

当初に幕府が置かれた「鞆城」の跡地に建つ「福山市鞆の浦歴史民俗資料館」には、足利氏の御所に飾られていたと考えられる鬼瓦が保管されている。

出典:サライ.jp
なお「信長」の死後、鞆の浦から京都に戻った「義昭」は、翌年に将軍職を辞して出家し、朝廷から准三后という高い位を受け、1万石を拝領。
晩年は御伽衆(おとぎしゅう)として、「秀吉」の話し相手を務めた。
「龍馬伝」
鞆の浦は「いろは丸」の沈没賠償交渉の舞台

1867年4月、「坂本龍馬」ら海援隊を乗せた蒸気船「いろは丸」は、大阪に向かう途中、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、鞆沖で沈没した。
「龍馬(福山雅治)」たちの命は助かったが、賠償金を得るため、「弥太郎(香川照之)」も加わり、長崎で談判が始まる。
衝突の経緯は、明光丸に不利だったが、御三家である大藩紀州は海援隊を相手にしようとしない。
この談判は“幕府との戦い”だとする「龍馬」は、「船を沈めたその償いは 金を取らずに 国を取る」と自作の俗謡を長崎の花街で流行らせ、民衆を煽って紀州藩を批判。
さらに万国公法を基に、イギリス海軍提督に審判を依頼し、形勢逆転に持ち込んだ。
ほんの触りしかないが、以下がその事件を取り上げた「龍馬伝」42回の動画だ。
「いろは丸事件」の結末は、事故から1か月後に紀州藩が折れ、土佐藩が主張する積荷代に相当する賠償金、8万3526両198文を支払うことが聖福寺での交渉の席で取り決められた。
賠償金額は現在の貨幣価値に換算すれば、約25億円~42億円に匹敵する巨額だったが、最終的には7万両に減額され、11月7日に長崎で土佐藩に支払われている。
その後「龍馬」に支払われるはずだったが、8日後の11月15日、龍馬はその大金を受け取ることなく、京都の近江屋で暗殺されて帰らぬ人となった。
さて。
この話には、とんでもないオチがある。

沈没した「いろは丸」の船体は、1980年代に海底で発見されたが、その後実施された潜水調査では、「龍馬」らが主張した銃火器などの積荷はまったく発見されておらず、8万両もの請求が「はったり」であったことが発覚した。
”海千山千”的側面を持つ「龍馬」だけに、人生最後となった「いろは丸事件」は、その利口さと豪胆さを伝えるエピソードとして、今なお語り継がれているのだろう。

出典:NHK
ちなみに「龍馬伝」では、紀州藩家老が“悪のお代官役”をやらすと天下一品の、「中尾彬」だったのが印象的だった(笑)。
その「いろは丸」にゆかりのある「鞆の浦」の施設で、お勧めなのがここだ。
いろは丸展示館

「海援隊」が伊予大洲藩から借用し、鞆沖で沈んだ「いろは丸」に関する資料館。

引き揚げ品や沈没状態のジオラマ、調査風景写真の展示のほか、龍馬の隠れ部屋も再現されている。
建物は、江戸期に建てられた堂々たる浜蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれている。
☎084-982-1681
おとな200円
10時~16時30分
月~木/年末年始 休館
駐車場なし
公式サイトより詳しいのはこちら(笑)。
その他にも、ゆかりの地は3件残されている。
龍馬交渉跡(御舟宿いろは)

かつての「魚屋萬蔵」の邸宅は、「龍馬」が紀州藩の船長と賠償交渉を始めた場所で、写真右横の角に「いろは丸事件談判跡」の石碑が建つ。
「魚屋萬蔵」の邸宅は、2008年(平成20年)にスタジオジブリの宮崎駿監督のデザイン画を元にリノベーションされて、宿・食事処として生まれ変わり、現在は「御舟宿いろは」として営業している。
坂本龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅

「いろは丸」の船員たちの宿となった、江戸時代の廻船問屋「桝屋清右衛門」邸宅。
「坂本龍馬」ら海援隊は、「いろは丸」事件の後、4日間にわたり鞆の浦に滞在したが、「龍馬」は変名の「才谷 梅太郎」を名乗り、屋根裏部屋に隠れて泊まっていた。
福禅寺 對潮楼

なお、「鞆の浦」の歴史的絶景が眺望できる「福禅寺 對潮楼(たいちょうろう)」でも、紀州藩との談判が行われており、「いろは丸展示館」と合わせて行くなら、ここがいいと思う。
鞆の浦 車中泊旅行ガイド

「日本遺産」と「重要伝統的建造物群保存地区」さらには、日本で最初に国立公園である「瀬戸内海国立公園」の一部にも指定されている鞆の浦には、大河ドラマ絡みの史跡以外にも、多くの見どころがある。
それをまとめているのが以下の記事だ。

こちらには、鞆の浦の駐車場&車中泊情報もあわせて詳しく掲載しているので、ぜひ合わせてご利用いただきたい。
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