25年のキャリアを誇る車中泊旅行家がまとめた、「郡上八幡城」の概要とマイカーアクセスについての情報です。
特筆すべき歴史もなく、日本100名城でもないのに、「郡上八幡城」が有名なのは”おらが町の誇り”だから。

郡上八幡城 DATA
郡上八幡城
〒501-4214
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659
☎0575-67-1819
天守入場料 おとな400円
※八幡城・郡上八幡博覧館共通入場券 750円
駐車場有料
「郡上八幡城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2025.07.21
「郡上八幡城」での現地調査は、2025年7月が最新です。
続日本100名城 「郡上八幡城」

「郡上八幡城」はなぜ有名なのか?

天守がある城趾が、町のシンボルになっているのは、郡上八幡に限った話ではない。
戦国時代の1559年(永禄2年)に、「遠藤盛数」が牛首山(現在の八幡山)の山上に築いた砦がルーツの「郡上八幡城」は、ご覧の通りの典型的な山城だが、築城の経緯から歴代の城主、また舞台となった戦などに、これといった有名なエピソードのない、云ってみれば”平凡な城”だ。

同じ山の上に建つ、近くの国宝「犬山城」や、日本100名城の「岐阜城」に比べれば、明らかに地味で知名度も低い。
しかも現在の天守は、大垣城を参考に1933年(昭和8年)に再建された模擬天守で、城跡は岐阜県指定史跡、天守は郡上市指定有形文化財と、史跡・文化財としての評価も高いわけではなく、文部科学省と文化庁の後援を受けて選出された、「日本100名城」にも入っていない。

しかしその割には立派で、町も観光施設としてその存在を強くPRしている。
それはなぜ?
実は「郡上八幡城」のおもしろさを紐解く鍵は、そこにある。
ある程度、各地の城を周った人間なら分かると思うが、城のおもしろさは石垣・天守・砦といった建造物だけでは測れない。
「郡上八幡」の町の魅力は、”城下町”であること

「重伝建」に指定された古い町並みと、日本三大盆踊りのひとつに数えられる「郡上おどり」が残る郡上市の八幡地区には、近世以来の城下町の姿が保全されており、その景観から「奥美濃の小京都」とも呼ばれているのだが、
城がなけば城下町は形骸化し、城下町として特色を失えば、伝統文化も色褪せる。

つまり、城下町らしさと伝統文化を保ち続けるために、「郡上八幡城」は再建され、今も大事にされているわけだが、この町が素晴らしいのは、この三つ巴の関係を住人がよく理解し、町ぐるみでキープできていることだ。
筆者は何人かの町の人と話をしてみて、今でも「郡上八幡城」が住民の”心の拠りどころ”になっているように感じた。
そしてそこに気づかなければ、
『この程度の城なら、他にいくらでもあるし、特に行く必要もあるまい』
となっていたかもしれない。
後ほど詳しく説明するが、「郡上八幡城」はクルマでも徒歩でも、登城するのが容易ではなく、まったく予習なしに訪ねても、『骨折り損のくたびれ儲け』になる可能性は否定できない(笑)。
そんなわけで、城下町「郡上八幡」の魅力と見どころを、以下に詳しくまとめているので、後ほどあわせてご覧いただきたい。
「郡上八幡城」の歴史と歴代城主を簡単に。

冒頭で少しふれたが、戦国時代末期の1559年(永禄2年)に、それまで郡上一円を支配していた「東氏(とうし)」を「遠藤盛数」が倒すが、「東氏」の居城「赤谷山城」を攻撃するために築いた砦が、「郡上八幡城」の起源とされている。
その後「遠藤盛数」の長男「慶隆」が城主となったが、「本能寺の変」の後、「織田信孝」の傘下に属していたため、対立していた「羽柴秀吉」によって追放された。

1588年(天正16年)に「秀吉」の命を受けて「稲葉貞通」が新たな城主となり、「郡上八幡城」は大改修を受ける。
現在見られる、近世城郭としての「郡上八幡城」の基礎が築かれたのはこの時代だ。

その後、徳川方に身を寄せていた「遠藤慶隆」は、「関ヶ原の戦い」の功によって再び「郡上八幡城」の城主に返り咲き、5代藩主「常久」まで「遠藤氏」が、以後「井上氏」2代、「金森氏」2代、「青山氏」7代と城主は変遷。
「青山幸宜」が藩主の時に明治維新を迎え、廃城の翌年の1870年(明治3年)に、石垣だけを残して取り壊された。

現在の天守は、大垣城を参考に1933年(昭和8年)に木造4層の模擬天守として建造され、同時に隅櫓2基と築地塀も整備された。
天守は2023年(令和5年)に、再建90周年を機に耐震補強工事と展示内容の一新が行われ、4月29日にリニューアルオープンして今日に至っているが、現存する木造再建城としては日本最古となる。
ゆかりの人物で有名なのは、『山内一豊の妻・千代』

ここまでの話では、「郡上八幡城」は「大河ドラマ」に登場する著名な人物との関わりが薄そうに見えるが、近年の研究では、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕え、24万石の初代土佐藩主にまで駆け上がった武将「山内一豊」の妻「千代」が、この城と深い関わりを持つという説が有力視されている。
大河ドラマを見ている人なら、『山内一豊の妻・千代』と聞けば、2006年に放送された『功名が辻』を思い出すと思う。

出典:NHK
45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」は、「司馬遼太郎」の同名小説を原作に、脚本を「大石静」が担当し、「ごくせん」で大ブレークした当時26歳の「仲間由紀恵」が、大河ドラマ史上最年少でヒロインの「千代」役を、「上川隆也」が「山内一豊」役を演じたことで話題を呼んだ。
大河ドラマでは、原作にならって「千代」の生まれを近江の国「長浜」周辺としていたが、近年では「千代」は「郡上八幡城」の初代城主「遠藤盛数」の娘という説が有力だ。

ちなみに「千代」は、”内助の功”で知られる女性で、有名なのは「馬揃え」の逸話。
夫の「一豊」が名馬を手に入れたいと考えていた際、「千代」は持参した10両を差し出して夫を喜ばせるが、その駿馬が「織田信長」の目に留まり、「一豊」出世の糸口となったと云われている。

「郡上八幡城」の本丸跡(城山公園)に建てられているこの銅像は、その逸話を再現したものだ。

なお「高知城」にも、「千代」の内助の功の逸話を伝える記念碑が建てられている。
だがいずれも、この逸話を知らなければ、目に留まらないかもしれない。
「郡上八幡城」は、晩秋になると”天空の城”になる

出典:郡上八幡城
いっぽう「郡上八幡城」には、”天空の城”と呼ばれるもうひとつの顔がある。
”天空の城”とは、11月~2月頃にかけて、朝霧に周囲を包まれる城のことで、関西では福井県の「越前大野城」や兵庫県の「竹田城跡」、また岡山県の「備中松山城」などが挙げられる。
基本的にはどこも雨の降った翌朝など、大気の湿度が高い状態で気温が急激に冷え込んだ時がチャンスで、写真のような眺めは下呂へ向かう国道256号線にある「堀越峠」の中腹あたりから見られるらしい。

ただ「堀越峠」は、狭くて見通しの悪いカーブが続く上下1車線の道で、状況は以下のサイトを見れば察しがつく。
ゆえに筆者は行っていないのだが、テレビ朝日が公開しているその映像がこちら。
なお現地では、「郡上八幡まちなみ交流館」に行けば、同じような映像を無料で見られる。
「郡上八幡城」へのアクセスと駐車場

最後はアクセスについてだが、前述したようにその登城は容易ではない。
まずクルマがある場合は、❷の『山内一豊と妻の像』がある「城山公園」の向かいに用意された無料駐車場まで進むといい。

試しに筆者はマップの「現在地」からここまで歩いてみたが、とてもその先まで行けけそうに思えなかったので、一度クルマを取りに下まで戻っている(笑)。
なおここには公衆トイレがあるので車中泊は可能だが、長時間クルマを置いたまま市内を観光するのは勧めない。
「郡上おどり」に参加して、市内の公共駐車場から夜に移動してくるならいいと思うが、トイレは和式だ。

問題はここからで、「郡上八幡城」までは一方通行になるので、クルマも人もこの奥の道を登っていくことになる。
案内にはクルマで5分、徒歩12分と書かれているが、徒歩にはたぶん休息時間は加味されておらず、筆者なら20分で行けるかどうかもわからない。

その道がこちら。
幅が狭いうえにけっこう勾配があって、カーブもきつく溝まである。
そのためハイエースナローでも、脱輪を警戒して何度か切り返しを入れて登った。
それを考えると回転半径の大きな4WD車はさらに厳しく、スーパーロングは間違いなく諦めたほうがいいだろう。

そしてこちらが、その難所を乗り切った先にあるマップ❷の山頂駐車場。
こちらも無料でトイレがあるが、まあここで車中泊する人はいないだろう(笑)。
ここまで来れたら、天守までは息が上がることもなく辿り着ける。
あと気をつけるべきは時間帯だ。
山頂駐車場は20台ほどしかキャパがないので、満車になると、さきほどの恐るべき坂道の途中で渋滞にはまる。
さらに昼間は横を歩行者がどんどん通るので、動けても徐行になるだろう。
ゆえに❷まで行くなら、午前8時の天守開場時間前がお勧めだ。
10時以降になりそうなら、❶にクルマを置いて、そこから城まで歩くほうがいい。
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