この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
旅行者のためのお城用語集
冒頭の「お城めぐり入門講座」で記したとおり、このサイトには特に「お城が大好き!」というわけではない旅人が、「知っておいても損はないレベルの知識」をまとめている。
そこで最後まで読めるよう、「ひこにゃん」のように明るく楽しく、そしてゆるくガイドを交えて解説しよう(笑)。
旅行者のためのお城用語集
INDEX
石垣
日本には石垣しかないお城はあるが、石垣のないお城はほとんどない(笑)。
つまり「お城を語るには、まず石垣から」というのが筆者のスタンスだ。
その石垣は大きく野面(のづら)積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの3つに分けられる。
ちなみに「接ぎ(はぎ)」は、つなぎ合わせるという意味で、江戸時代以降に登場する技法だ。
野面積み
自然石をそのまま積み上げる野面積みは、もっとも古い石垣の積み方とされ、戦国時代に建造されたお城の大半で見られる。
加工していないため、石の形に統一性がなく、隙間や出っ張りが多いことから、敵に登られやすいという欠点がある一方で、排水性に優れている。
中でも有名なのは、滋賀県の大津市坂本の近くにある穴太(あのう)の石工集団、「穴太衆」が手が掛けた石垣だ。
「穴太積み」とも呼ばれ、写真の安土城の石垣も、彼らが積み上げたと云われている。
織田軍の石垣には、寺社の灯籠や石像まで使われていることもある。
この写真は、明智光秀が近世城郭へ大改修した福知山城の石垣。光秀という武将はこういうことを嫌うが、信長の意向には逆らえなかったのだろう。
武者返し
熊本城の石垣も穴太衆が手がけたとされているが、地面付近は勾配が緩く、上に行くにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、「武者返し(むしゃがえし)」と呼ばれている。
狭間(さま)
塀をはじめ、天守や櫓の壁面に設けられている防御用の穴や窓のこと。
戦の際にはそこから弓矢や鉄砲などで攻撃するが、外側になるほど狭くなっており、内側にいる射ち手にとっては動きやすく、敵から狙い撃ちされにくい造りになっている。
写真は「大河ドラマ真田丸」のイントロで使われた備中松山城。テレビではこの城にCGIを合成して、リアルな映像を創り出していた。
縄張
城全体のグランドデザインを設計することを、この世界では「縄張」と云う。
具体的には「本丸」をどこに置くか、「二の丸」「三の丸」などの曲輪はどう配置するか、また防御のための「堀」と「石垣」をどうめぐらし、要となる「門」と「櫓」をどこに設置するかなどになるが、それには、周辺の地理・地形を有利に活かせる場所選びまでもが含まれる。
広い視野と知識が求められる「縄張」には、何人かの名人がいたとされる。
古いところでは、武田信玄の軍師で、上杉謙信との「川中島の合戦」に備えて松代城(旧海津城)を築き、「甲州流築城術」を極めた山本勘助が挙げられる。
2007年に放送された大河ドラマ「風林火山」の主人公なので、覚えている人も多いだろう。
その後は加藤清正や藤堂高虎が次々と名城を手がけていくが、忘れてならないのは、このふたりの師匠筋ともいえる黒田官兵衛、そうV6の岡田准一が2014年の大河ドラマで好演した「軍師官兵衛」だ。
官兵衛の代表作は、徳川家康が最後まで手を焼いた大坂城と、朝鮮出兵に向けて佐賀県の呼子に建造した、「本物の侍ジャパン」が集う名護屋城。
いずれも日本最大級の城郭だった。
城門
城郭の出入口のことを、お城用語では「虎口(こぐち)」と呼ぶ。
その「虎口」を守るのが「城門」だが、城門は城内の位置や役割、形式によって多くの種類に分類されている。
ちなみに、今でもよく耳にする「大手門/追手門(おおてもん)」とは、お城の正門、「搦手門(からめてもん)」は逆に裏門のこと。
写真は江戸城(現在の皇居東御苑)の大手門。
さすがに立派だ(笑)。
もうひとつ覚えておきたいのが、城門防衛策の完成形と呼ばれる「枡形門(ますがたもん)」。
枡形門は最初の門が突破されても、次の門からの攻撃で敵を殲滅できる構造で、特にこの内枡形の場合は、敵は真っ直ぐ進入できず、次の門を攻撃している間に、三方向から攻撃を受け続ける。
櫓(やぐら)
語源を辿ると、武器の保管庫だった「矢倉(やぐら)」が発展したものというのが「定説」のようで、実際には武器だけではなく、塩、味噌、薪、炭などの保管庫も兼ねていた。
また「物見櫓」として見張り台、時には「見物台」のようにも使われていた。
戦国時代に入って戦が激しくなると、そこに天守を敵から守るという重要な役割が加わる。
そのため城門の上や横に建てられたり、複合式天守や連結式天守のように櫓を連結させて、天守を守るという構図が生まれる。
写真は上田城。真田昌幸が2度に渡って徳川軍を打ち破った伝説の名城だ。
曲輪(くるわ)
曲輪はお城を構成している区画のこと。よく耳にする「本丸」「二の丸」「三の丸」はその曲輪(区画)の名称で、基本的には段差で区分され、それぞれ異なる役割を有している。
写真は雲海に浮かぶことで有名な竹田城だが、曲輪がよく分かるいい例だ。
本丸
天守が建っている最上段の曲輪が本丸。
広い面積が確保できる大きな城では、天守の近くに本丸御殿もあり、奥半分が藩主とその家族の住まい、前の半分が藩の政庁として使われていた。
写真は「現存十二天守」で唯一本丸が残る、高知城の本丸御殿。
二の丸・三の丸
「二の丸」は隠居した前藩主やその側室、あるいは世継の住まいとして使われた。また家臣団も居住し、防衛上の最終拠点となっていたと云われている。
さらに下段にある「三の丸」は、「本丸」と「二の丸」を守る戦の際の最前線。精鋭部隊が布陣し、いざという時は敵と直接刀や槍を交えて戦った。
天守
「籠城」という言葉があるように、戦国の世ではお城そのものが「最期の砦」になるが、本丸に建つ「天守」はその核心とも呼べる存在だ。
そもそも、お殿様が「天守」に上がるのは、家督相続の儀式や戦の軍議、さらには最終局面で自刃するなどの「特別な時」に限られていた。
そのため戦国時代の「天守」には、金属を貼り付けた頑丈な扉や、付櫓(つけやぐら)、さらには急勾配で幅の狭い階段など、敵兵がすぐには天守に入れないための様々な工夫が施されている。
破風(はふ)
最後は天守を飾る大きな三角屋根、破風について説明しよう。
天守最上階の屋根は必ず破風で飾られているが、お城によってはそれが下層階にも設けられている。装飾とはいえ、破風は採光を兼ね、中を射撃用の小部屋にできる実用的なものだ。
なお、屋根の上を丸く盛り上げた「唐破風」は格式の高い破風で、僅かなお城でしか見られない。「現存十二天守」では写真の犬山城の唐破風が有名だ。