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幕末の指導者、吉田松陰のプロフィールと年表

吉田松陰

吉田松陰(よしだしょういん)
1830年(天保元年)8月4日ー1859年(安政6年)10月27日

長州藩士・杉百合之助常道の次男として萩で生まれるが、5歳の時に山鹿流兵学師範の叔父・吉田大助の養子となり、厳しい教育を受ける。聡明で論理的な天賦の才は瞬く間に開花し、わずか19歳にして藩校・明倫館の独立師範に駆け昇る。

その後、藩命を受けて九州から東北まで視察を重ねるが、江戸で佐久間象山に師事して以降、「開国攘夷」へと傾倒していく。その結果、海外見聞の衝動が抑えきれなくなり、25歳の松蔭はついに下田で密航を企てる。

しかし命がけの挑戦は未遂に終わり、そこから運命は急転する。

30歳でこの世を去るまでの僅か5年ほどの間に、身柄を拘束されながらも、松下村塾を通して、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与え、幕末の志士たちに、神のごとく崇敬される精神的支柱となった。

幕末を疾風のように駆け抜けた吉田松陰は、1907年(明治40年)に松下村塾出身の伊藤博文らによって創建された「松蔭神社」に祀られ、「学問の神様」として150年を経た今の世の中を見守り続けている。

なお、その生きざまは、2016年に放送された大河ドラマ「花燃ゆ」の中で詳しく紹介されていたので、記憶に新しい人も多いだろう。

吉田松陰の軌跡

1830年(天保元年)
8月4日、藩士杉百合之助の次男として萩松本村に生まれる。

1834年(天保5年) 5歳
山鹿流兵学師範の叔父、吉田大助の仮養子となる。

1835年(天保6年) 6歳
吉田大助の急死により吉田家の家督を相続する。

1839年(天保10年) 10歳
藩校明倫館で初めて山鹿流兵学を教授する。

1840年(天保11年) 11歳
藩主毛利敬親の御前で「武教全書」を講義する。

1848年(嘉永元年) 19歳
藩校明倫館の独立師範となる。

1849年(嘉永2年) 20歳
御手当御用内掛(海防掛)に任命され、藩内の日本海沿岸の防備を調査する。

1850年(嘉永3年) 21歳
九州遊学のため萩を出発。長崎、平戸、熊本を訪れ、平戸藩では葉山佐内、肥後藩では宮部鼎蔵を訪ねる。

1851年(嘉永4年) 22歳
藩主に従って江戸へ赴き佐久間象山らに入門する。
東北遊歴に関所手形を持たずに出発し、脱藩となる。

1852年(嘉永5年) 23歳
現在の福島、新潟、佐渡、青森、岩手、宮城、栃木を巡り、江戸に戻る。
藩より帰国命令が出され、萩に帰り杉家自宅で謹慎。
その後、脱藩の罪により藩士の身分をはく奪され、父である杉百合之助の育(はぐくみ)となる。

1853年(嘉永6年) 24歳
藩命により、2回目の江戸幽学(諸国遊学)に出発する。

黒船来航を知り、浦賀へ。その後、江戸を出発し、ロシア艦隊の来航した長崎へ向かう。しかし、松陰が長崎に到着する前にプチャーチン率いるロシア艦隊は長崎を去ってしまう。

1854年(安政元年) 25歳
下田にて、金子重輔(かねこしげのすけ)とともにペリー艦隊へ乗船し、密航を画策するも失敗。海外渡航の罪を自首し、下田の牢屋を経て、江戸の伝馬町牢獄に監禁される。その後、金子重輔とともに江戸から萩へ送還。松陰は野山獄へ、金子は岩倉獄へ投獄される。
野山獄で、後に松下村塾の教授となる富永有隣と出会う。
「二十一回猛子」の号を使用し始める。

1855年(安政2年) 26歳
野山獄を出獄し、生家の杉家で蟄居の身となる

1856年(安政3年) 27歳
杉家の幽囚室で教授を開始

1857年(安政4年) 28歳
野山獄で出会った富永有隣を松下村塾の教授として招く。

納屋を改修して塾舎とし、松陰主宰の松下村塾を開く。
高杉晋作が松下村塾の塾生となる。
妹・文が久坂玄瑞と結婚。

1858年(安政5年) 29歳
塾生の手で松下村塾の増築工事を行う。

老中・間部詮勝を待ち伏せて討つ計画を立てる。
藩より謹慎を命じられ、松下村塾が閉鎖される。
萩・野山獄へ再入獄を命じられる。

1859年(安政6年) 30歳
江戸へ護送、斬刑となり生涯を閉じる。

 

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