源頼朝の人生と主なゆかりの地 【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」連動】 2022年12月更新

源頼朝 後世に語り継ぎたい日本人

【2022年12月更新】
国内旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、源頼朝と「鎌倉殿の13人」に関する記述です。

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この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
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源頼朝を理解するには、源義仲と源義経、そして後白河法皇とのかかわりを知ることが大事

鶴ヶ岡八幡宮

源頼朝の人生と主なゆかりの地

源頼朝の人生

源頼朝と源義仲(木曽義仲)

源頼朝と源義経(牛若丸)

源頼朝の年表

源頼朝の主なゆかりの地

こんなとこにも、源頼朝

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源頼朝の人生

源頼朝は平安時代後期の1147年5月9日に、源氏の棟梁・源義朝の息子として生まれた。

長男ではなかったが、母が熱田大宮司藤原季範の娘で身分が高かったことから、義朝の嫡男として扱われ、大切に育てられたようだ。

そのせいか、幼年期から聡明で、容姿も端麗だったと云われている。

人生の最初の転機が訪れるのは1159年。

13歳の時に、父の義朝が「平治の乱」を起こし、平清盛に負けてこの世を去る。

嫡男の頼朝も殺される運命だったが、清盛の義母にあたる池禅尼(いけのぜんに)の温情で伊豆へと流された。

一説では、朝廷と深い関わりを持っていた実母の父・藤原季範の図らいがあったとされているが、いずれにしても平清盛に、源氏を根絶やしにする気がなかったことが大きかったといえそうだ。

ここまでの話は大河ドラマでは「鎌倉殿の13人」より、「平清盛」に詳しく描かれていた。

蛭ヶ小島

さて。

伊豆では北条時政の監視下に置かれるが、時政の長女・政子と出会い結ばれてから、頼朝の人生は大きく変わる。

「北条家」という味方を得た頼朝は、1180年に後白河法皇が糸を引く「平家」打倒の機運が高まると、それに呼応して挙兵する。

ししどの窟

まずは河内源氏の二代目・源頼義のゆかりの地である鎌倉を目指すが、石橋山の戦いで平家に味方する大庭景親に敗れ、命からがら海路で房総まで逃げ落ちた。

しかし房総で体制を立て直して鎌倉に入ると、東国武士の支持が一気に高まり、同年10月の有名な「富士川の戦い」で勝利し、流れを引き寄せた。

壇ノ浦

その後は義経や木曽義仲が参戦して、幾度となく源平合戦が繰り広げられるが、1185年に壇ノ浦でついに平氏を滅ぼし、1192年に征夷大将軍となる。

源頼朝の人生で面白いのは、「鎌倉殿の13人」に詳しく描かれた、1180年に挙兵してからの話なのだが、それを楽しく見るには、平家を没落に導いた従兄弟の木曽義仲(源義仲)と、異母弟の牛若丸こと(源義経)、そして何より武家の大逆転を画策した黒幕の後白河法皇との関係を知ることだ。

源頼朝が「いい奴なのか悪い奴なのか」を語るのは、それからでも遅くはない(笑)。

ただ、もともと家来を持っていなかった頼朝が、見知らぬ東国で「血筋」を頼りに武家の棟梁へと登りつめていくためには、家人それぞれの能力を把握し、彼らを信頼して任せるところは任せるという「組織戦略」が不可欠だった。

後世に、徳川家康が手本にしたともされる武家政権の仕組みを築いた頼朝は、幼い時期に身に着けた教養とともに、政治家としても高い能力を備えた、まさに「武家」と呼ぶに相応しい人物だったのかもしれない。

後白河法皇との関係

木曽義仲との関係

源義経との関係

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源頼朝の年表

源頼朝の墓

1147年(久安3年)1歳
源義朝の三男として生まれる。

1159年(保元4年/平治元年)13歳
「平治の乱」で初陣を果たす。

1160年(平治2年/永暦元年)14歳
しかし「平治の乱」に敗れたために、平家に捕えられ伊豆国に流される。父・源義朝は死罪。

1177年(安元3年/治承元年)31歳
伊豆の豪族・北条時政の長女・北条政子と結婚。

1180年(治承4年)34歳
後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が発令した平家打倒の詔を受けて挙兵する。

しかし伊豆の石橋山で敗れ、海路で安房国へ脱出。安房国で体制を立て直して、鎌倉へ進軍する。

富士川の戦いに勝利し、黄瀬川で異母弟・源義経と対面する。

1181年(治承5年/養和元年)35歳
平清盛が死去。
嫡男・源頼家が誕生。

1183年(寿永2年)37歳
頼朝と同じく、1180年に挙兵していた従兄弟の源義仲(木曽義仲)が、「俱利伽羅峠の戦い」で平家を破り上洛を果たす。

しかし後白河法皇の不信を買い、頼朝の上洛を望む空気が院中に強まる。

1184年(寿永3年/元暦元年)38歳
頼朝が派兵した弟の源範頼(のりより)と義経の軍勢が、「粟津の戦い」で源義仲を討つ。

1185年(元暦2年/文治元年)39歳
源義経が「屋島の戦い」で平家を海上へ追いやり、「壇ノ浦の戦い」にて平家を滅亡させる。

しかし頼朝は、後白河法皇の策略にはまって官位を受け取ってしまった義経への不信を募らせ、鎌倉への帰還を拒否。

鎌倉入りを乞うために源義経は、源頼朝に腰越状を送るが却下され、源義経は所領もすべて没収される。

1189年(文治5年)43歳
奥州平泉で源義経を自害へと追い込む。
さらに藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を追討。

1190年(文治6年/建久元年)44歳
上洛して権大納言・右近衛大将(うこんえのだいしょう)に任ぜられるが、のちに辞退。

1192年(建久3年)46歳
後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開く。

1199年(建久10年/正治元年)53歳
出家を果たすも、わずかその2日後に死去する。

こんなとこにも源頼朝

 

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