【2022年12月更新】
車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、中高年のための鎌倉を車中泊で旅するための情報です。
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

中高年に優しい鎌倉の歩き方
中高年が興味を感じる鎌倉の見どころは、若者でごった返す「小町通り」界隈ではなく、北鎌倉で静かな佇まいを見せる禅宗の古刹だと思う。
そこでここでは、時間と体力を反映したオリジナルの「鎌倉観光コースガイド」をご紹介したい。
これは実際に筆者が朝8時半頃スタートして、写真を撮りながらゆっくり進み、午後2時過ぎにクルマに戻った時のルートだ。
中高年のための、欲張らない鎌倉日帰り観光ガイド
休日の鎌倉へは、パーク&江ノ電ライドが無難
年間1900万人以上の観光客が訪れるという鎌倉の駐車場事情の悪さは、あの京都以上だとも云われている。
だが両方を知る筆者は、平日に関して云えば「そうでもない」と感じた。
場所を選べば、ハイエースクラスのクルマが停められるコインパーキングはけっこう見つかる。
以下にその駐車場の在処を記しているので、平日に動ける方は参考にどうぞ。
ただし休日は別だ。
東京駅から鎌倉駅までは約63キロ。空いていれば1時間15分ほどで行ける距離なので、老若男女を問わず、日帰り客が次から次へとやってくる。
ゆえに車中泊どころかクルマの乗り入れさえも諦めて、少し離れた駐車場から「パーク&江ノ電ライド」でアクセスするほうがいいと思う。
幸いにも、鎌倉から比較的近い由比ケ浜には、「パーク&江ノ電ライド」の割引特典がついた大きな駐車場が用意されている。
晴れた日の由比ガ浜は、開放感に満ちていて気持ちもいい。
※なお割引は、コロナウイルスの感染状況次第で中止されている場合があるので、行く前には以下のサイトで確認を。
散策ルート① 鶴岡八幡宮
源氏の氏神を祀る「鶴岡八幡宮」は、武家の古都・鎌倉のシンボルと呼ぶに相応しい存在で、1028年(長元元年)に勃発した「平忠常の乱」で活躍した、河内源氏2代目の「源頼義」が鎌倉の地を寄進された際に、東国支配の拠点とするべく、それまで氏神として信仰していた京都の「石清水八幡宮」を、由比郷鶴岡に「鶴岡若宮」として勧請し、創建したことに始まる。
鎌倉駅で降りると、「若宮大路」の二の鳥居から参道を歩くことになるので、この若宮大路を歩いて行こう。
「若宮大路」は、源頼朝が妻「政子」の安産祈願のため造営したと伝えられる、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へ通じる参道で、「日本の道百選」のひとつに数えられている。
なお鶴岡八幡宮の見どころと、2022年に放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にゆかりのある場所、そしてそれに関連するエピソードは、以下の記事にたっぷりとまとめてある。
散策ルート② 建長寺
「建長寺」は、1253年(建長5年)に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼によって創建された、鎌倉五山の第一位にランクされる臨済宗建長寺派の大本山。
初代住職は、南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が務めた。
鎌倉五山とは…
鎌倉時代に中国の五山制度にならって格づけされた5つの臨済宗寺院のこと。具体的には、鎌倉にある建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺を指す。
北条時頼は熱心な仏教信者で、栄西禅師が開いた臨済宗に深く帰依していたが、その背景には、禅が持つ戒律的で自己の修行や鍛錬によって悟りの境地を開くという姿勢が、闘争的な武士の気風に合っていたからとも云われている。
いっぽう社会に目を向けると、当時の日本は1221年の承久(じょうきゅう)の乱を経て、北条氏の権力基盤が安定していた。
承久の乱とは…
1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が朝廷の復権を企て、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、力及ばず敗れ去った戦い。
この敗戦で朝廷の支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となる。
そういった時代背景の中で、禅宗は隆盛を迎え、個性豊かな文化芸術を育んだ。
「禅宗美術」もその一例で、写真の「法堂雲龍図」には、雨を呼ぶ天井の龍が、修行僧に法の雨(仏法の教え)を降らせるという意味が込められている。
散策ルート③ 円覚寺
鎌倉時代に九州に攻め寄せてきたモンゴル帝国(元)の侵略戦争、「元寇」による戦没者の菩提を弔うため、1282年(弘安5年)に鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が建立した。
鎌倉五山・第二位に位置づけられた鎌倉有数の巨刹で、北鎌倉では建長寺に並ぶ観光スポットとされる。
夏目漱石の作品「門」の舞台になった山門は、煩悩を取り払い涅槃・解脱の世界である仏殿に至る入口だ。
禅寺らしく、仏殿の天井にはやはり龍が描かれている。
国宝の舎利殿や洪鐘(おおがね)、さらには季節の花々など、見どころ満載と云われる円覚寺だが、ところどころに安置された名もなき仏像が、国を守った武士の菩提寺らしさを感じさせる。
また、いかにも禅寺らしい建物が、1699年に建立された坐禅道場の選仏場。
中には運慶派の南北朝時代の作品とされる、薬師如来が安置されている。
散策ルート④ 源氏山公園
ここからは折返しルートになる。
源氏山は、後三年の役(1083~1087年)で、八幡太郎義家が奥羽(東北地方)に向かう際に、山上に白旗を立て戦勝祈願したという、源氏ゆかりの地。
園内には源頼朝が鎮座しており、一般的にはここが鎌倉で、もっとも源頼朝を忍ばせてくれる場所と云えるかもしれない。
ちなみに頼朝の墓は、鶴岡八幡宮を挟んだ反対側の、白旗神社の近くに残る「大蔵鎌倉幕府跡」の高台にある。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、このエリアを舞台に描かれているが、同時に1日で周るのはちょっと厳しいと思う。
散策ルート⑤ 銭洗弁天社
「名水でお金を洗うと金運上昇のご利益あり」と伝わる「銭洗弁天社」の、正式名は銭洗弁財天宇賀福神社。
それにしても、真に受けて諭吉くんに冷水を浴びせる家内はすごい(笑)。
1185年、源頼朝の夢に宇賀福神が現われ、「この水を汲んで神仏を供養すれば天下泰平が叶う」とのお告げを受け、北条時頼が銭を洗って一族繁栄を祈ったという逸話が残る神社だが、鎌倉大仏に行く途中にあり、ひとつくらいは世俗的なところを周るのも、悪くはないかということで、余興にぜひ(笑)。
散策ルート⑥ 鎌倉大仏
像高11.39メートル(台座を含めると13.35メートル)、重量約121トンを誇る巨大な鎌倉大仏の正式名は銅造阿弥陀如来坐像。
この鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊にしているのは高徳院だが、その開山、開基は不明で、大仏の草創の経緯についても史料が乏しく、誰が何のために造ったかもわかっていない。
見学に行かれた時は、背中にもご注目。
鎌倉大仏の中は空洞で「胎内」と呼ばれているが、窓は大仏鋳造の際に、中の土や型を取り出すために設けられたもの。
現在は胎内拝観時の、明り取りの役割を果たしているが、拝観料300円に追加で20円払えば、その胎内に入れ、作られた当時の木枠の跡など、760年前の技術を垣間見ることができる。
かつてはここで、男女の密会が行われたり、ばくちが打たれたり、浮浪者がたき火をしていた時代もあったというから驚き。
まさに「お釈迦様でも知るめぇ~」だな(笑)。
さて。筆者ならずとも気になるのは、奈良の大仏様とのかかわりだろう。
奈良の大仏は、752年(天平勝宝4年)に聖武天皇の発願によって造立された、東大寺の本尊・盧舎那仏坐像(るしゃなぶつぞう)のことで、鎌倉大仏と同じ青銅製。
しかし東大寺は1180年(治承4年)に、平重衡による南都焼討で灰塵と帰した。
その再興を支援したのが後白河法皇と源頼朝で、1185年(文治元年)には大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)に大仏殿が落慶している。
そして大仏殿の落慶供養には、頼朝が参列した記録が残る。
実弟の義経を追い詰め、自刃に追いやったことから、あまりよくは云われない源頼朝ではあるが、天下人としていいこともちゃんとやっている(笑)。
そして一説によると、鎌倉大仏も源頼朝が造立を思い立ったのだとか。
本人はそれを果たすことなくこの世を去っているが、頼朝の侍女だった稲多野局(いなだのつぼね)が、頼朝の志を受け継いで大仏造立を発起し、実現を果たしたという説が、鎌倉では根強いようだ。
さて。
ここまでご覧になって、鎌倉なのに幕府の話がほとんど出てこないじゃないか?とお感じの方がいるかもしれない。
確かにそうだが、鎌倉幕府跡については現地には写真のような石碑しかないので、予習していかないと、たぶん何のことだか分からないまま、写真だけ撮って帰ることになると思う。
ただそこまでの予習は、歴史に興味があるか、大河ドラマを見ている人以外にはあえて勧めない。
「偉そうに!」と感じた人には下の記事をご覧いただきたいのだが、まず最後まで読み切ることは難しいだろう(笑)。
人間「好きこそモノの上手なれ」。
仕事でなければ、何も興味のないことまで一生懸命やる必要はない。
ちなみに「一生懸命」の語源は「一所懸命」で、中世の武士が先祖伝来の所領を命懸けで守ったことに由来し、「承久の乱」で朝廷から刃を向けられた鎌倉が、その言葉の発祥の地だと云われている。
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