「真田丸」は真田親子の武勇伝【大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地を旅する】

真田幸村 車中泊で歴史旅
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この記事は車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
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祖父・幸隆の時代から始まる真田の快進撃

上田城

【目次】

「真田三代」と云われる所以

祖父は、川中島の合戦の火種を作った調略の将・真田幸隆

父は、二千で七千の徳川軍を打ち破った武勇の将・真田昌幸

三代目の真田信繁が、徳川家康を嫌った理由

「真田丸」は信繁の集大成

大河ドラマ「真田丸」とエピソード

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「真田三代」と云われる所以

上田城 おもてなし武将隊

「真田」と云えば、やっぱり「幸村」。

若い世代は、実話より漫画や映画化された「真田十勇士」のほうをよく知っているのかもしれない。

おじさん・おばさん好みの大河ドラマ「真田丸」も、あの三谷幸喜の作品だけあって史実に忠実とまではいかないが、内容的は「真田十勇士」のほうが、かなりぶっ飛んでいる(笑)。

真田氏本城跡

さて。

真田幸村は長野県の生まれだが、実は故郷の上田にはコレといったゆかりの場所は見当たらない。

上田城

長野にある真田氏ゆかりの主だった見どころは、日本100名城に数えられる上田城と、上田市郊外にある「真田の郷」に残る祖父・幸隆と父・昌幸の遺構と資料館、そして江戸時代に松代に築かれた兄の信之の城下と屋敷になる。

真田三代

つまりそれは「親族のゆかりの地」といえるわけだが、そこにはもともと信濃の豪族だった真田氏が、世代を跨いで城持ち大名に上り詰めるまでの歴史が刻まれている。

その「なりそめ」を知らずして、幸村が大坂の陣で「ひのもといちの兵(つわもの)」と呼ばれるほどのモチベーションを持つにいたる姿は想像できない。

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祖父は、川中島の合戦の火種を作った調略の将・真田幸隆

真田氏発祥の郷

「真田氏中興の祖」と呼ばれる名将で、もともとは上杉氏の配下にいたが、領地を武田信虎に攻められて失う。

だが武田家の家督を晴信(後の信玄)が継ぐと、上杉氏を見限って武田氏に仕え、晴信のもとで頭角を現す。

砥石城

中でも晴信が2度攻略に失敗したことから「難攻不落」と呼ばれた砥石城を、一夜で調略し、所領を回復した話は有名だ。

だがこの一件が、後の「川中島の合戦」につながる火種となる。

父は、二千で七千の徳川軍を打ち破った武勇の将・真田昌幸

長篠の合戦

父と同様に晴信からの信頼が厚く、昌幸は武田の奥近習衆に加わり、以後武田勝頼と2代に渡り仕えることになる。

だが信玄が病に倒れ、家督を継いだ勝頼が「長篠の戦い」に敗れて、武田氏は滅亡。

そこから昌幸は、織田信長・北条氏直 ・ 徳川家康 ・ 上杉景勝 と主君を変えつつ、卓越した智謀を発揮しながら、戦国の世を渡り歩いていく。

上田城

とりわけ有名なのは、1585年に徳川家康が7000人の兵力で昌幸の居城・上田城を攻めてきた際に、1/3にも満たない2000人の兵力で、徳川勢に3000人もの死傷者を出させて勝利した上田合戦(第1次上田合戦)だ。

石垣山一夜城

この勝利により真田氏は諸国から大名と認められ、豊臣秀吉に臣従することになるのだが、北条氏との領地をめぐるイザコザは解消されておらず、それが1590年の秀吉による「小田原征伐」の引き金となった。

秀吉亡き後、家康に深い不信感を抱く昌幸は、次男の信繁とともに「関ヶ原の戦い」で豊臣側につく。

だがこの時に長男の信之を徳川方に送り、いずれが勝っても真田家が生き残れる策を打っている。

それが世にいう「犬伏の別れ」だ。

昌幸は上田城に入り、今度はわずか5000人あまりの数で、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢を待ち構え、徳川軍を足止めして、家康の本隊と美濃で合流するのを遅れさせる作戦に出る。

狙いは見事的中し、先を急ぐ秀忠は上田城の攻撃をあきらめ、西へと去った(第2次上田合戦)。

ちなみに、この2度にわたる徳川との戦いには、信繁も参加している。

九度山 真田庵

しかし真田の健闘は報われず、天下分け目の戦いはわずか1日で決着がつき、囚われの身となった昌幸と繁晴は紀州の高野山に幽閉される。

徳川についた信之の懸命な嘆願により、なんとか打首は免れたが、昌幸は死ぬまで放免されず、最後は高野山の麓の九度山でこの世を去った。

三代目の真田信繁が、徳川家康を嫌った理由

上田城

信繁の父・昌幸と家康の間には、前述した「上田合戦」の原因となった約束不履行から来る確執があった。

簡単に整理すると、家康が北条氏との争いに苦しんでいる時に、昌幸は「今の真田の領地を認め、さらに領地を増やす」という条件で、それまで従っていた北条氏から徳川氏に寝返った。

その結果家康は勝利したが、北条氏と和睦を結ぶ際に、勝手に真田の領地である沼田を北条氏に差し出す約束をする。

これに激怒した昌幸は沼田を明け渡さず、家康は上田に兵を向けた。

しかし戦いには真田氏が勝利しており、繁晴が家康を憎む動機がそこにあったようには思えない。

繁晴が家康を憎むようになった一番の理由は、「関ヶ原の戦い」で敗れた後、九度山に幽閉された昌幸が、どんなに困窮し、老いぼれようと、一切赦免しようとしなかったことにあるのだろう。

それに加えて、太閤亡き後の豊臣家への容赦ない仕打ち…

大阪冬の陣・夏の陣で見せた、あの不屈の闘争心の源泉はそこにある。

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「真田丸」は信繁の集大成

真田幸村

ご承知の通り信繁は、人質時代に目をかけてもらった亡き秀吉への忠義を貫き、2度にわたる徳川家康の大阪攻めに対して孤軍奮闘する。

「大阪冬の陣」では、出丸として築いた「真田丸」を盾に、徳川の大群が大阪城に迫るのを食い止め、淀君の浅はかな和睦で「真田丸」を失ったにもかかわらず、その後の「大阪夏の陣」でも再び3500の浪人兵を率いて、徳川家康の本陣深くまで切り込んでいる。

安居神社

最後は疲れ果て、享年48歳で茶臼山近くにある安居神社の境内で最期を迎えてしまうのだが、戦のない泰平の世になると、真田信繁の知略に満ちた勇猛な戦いぶりが、軍記物、講談、小説、寓話などに描かれるようになった。

真田幸村

ただし作家たちは幕府からのお咎めを恐れ、その中に登場するヒーローを、実名ではなく「幸村」と記した。

真田十勇士

中でも1911年(明治44年)から1924年(大正13年)にかけて刊行された立川文庫(たつかわぶんこ)は人気が高く、忍びの真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として、幸村は日本中の庶民にも広く知られる存在となってゆく。

大河ドラマ「真田丸」とエピソード

上田城

実は真田丸のドラマ化にはちょっとした縁がある。

それは2012年の秋に、取材で上田城を訪ねた時のこと。

その日は上田城の敷地内にある真田神社で、「幸村の生き様を大河ドラマにしよう!」という署名運動が行われていた。

地元の大阪がずいぶんお世話になった幸村だけに、そう云われるとさすがに放ってはおけない。

つまり「真田丸」の放送決定には、清き一票を投じた、うちの家内も一役買っているというわけだ(笑)。

そんなわけで、こういう記事も用意をしている。

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