車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家がまとめた、2023年9月現在の真田三代ゆかりの地(大河ドラマ「真田丸」と連動)を、とことん詳しくご紹介します。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
~ここから本編が始まります。~
大河ドラマ「真田丸」に描かれた、主人公・真田信繁(幸村)の祖父・幸隆の時代から始まる、真田三代の快進撃の軌跡を辿る。
まずはこちらで記憶を呼び覚まそう(笑)。
真田三代ゆかりの地【目次】
真田氏の家系図と「真田三代」
結論から云うと、真田氏は親子三代にわたり、兄弟あわせて6人が表舞台に立つかたちで、武田・上杉・北条、さらに徳川・織田・豊臣のメジャーな戦国大名たちとの接点を持ってきた、類まれなる一族だ。
であるがゆえに、誰の時に誰と組み、誰と争い、日本史に刻まれたどの出来事に関わってきたのかを時系列で整理しないと、なかなかその歴史の全容は掴めない。
逆にそれが解かれば、日本史の戦国時代そのものの理解が進み、もっと云えば、大河ドラマが10倍はおもしろく見られるようになる(笑)。
それはまさに、「葉を見るよりも枝を見よ、枝を見るよりも木を見よ、そして木を見るよりも森を見よ」。
いささか面倒だが、読めばきっと納得していただけると思う。
さて、「真田三代」という言葉をよく耳にする。
文献によって諸説あるようだが、定説では「真田幸隆」「真田昌幸」「真田信繁(幸村)」を指し、2代目「真田昌幸」の兄「信綱」と弟「信尹(のぶただ)」、そして3代目「真田信繁」の兄「信幸(信之)」を加えた6人が、真田氏の躍進を支えた重要人物と云えそうだ。
そこで、まずはあまり知られていない2人の「脇役」から簡単に紹介していこう。
真田信綱(のぶつな)
真田幸隆の嫡男で、晴信(信玄)と勝頼の2代にわたって武田家に仕えた猛将。
信頼は厚かったが、「長篠の合戦」で次男の昌輝とともに39歳の若さで討ち死した。
ただ大河ドラマ「真田丸」には登場していない。
真田信尹(のぶただ)
真田幸隆の四男で、武田家滅亡後に徳川家康に仕えた。
大河ドラマ「真田丸」では、元劇団四季の俳優・栗原英雄が演じ、真田家のスパイ的存在としてたびたび登場。
大坂の陣前には、信繁に徳川に寝返るよう説得にも現れていた。
なお真田信幸(信之)については、江戸時代以降の真田家本流となるので、「簡単に」というわけにはいかない(笑)。
後ほど松代の話を含めて、詳しい話をするとしよう。
初代・真田幸隆の年表とゆかりの地
これを見れば、真田氏が誰の代の時に誰と組み、誰と争い、日本史に刻まれたどの出来事に関わってきたのかが見えてくる。
そこで真田三代の世代別の動向が分かりやすいよう編集した。
1513 真田幸隆 誕生
1537 真田信綱 誕生
1541 武田信玄傘下へ
1543 真田昌輝 誕生
1547 真田昌幸 誕生 真田信尹 誕生
1551 真田幸隆 砥石城攻略
1561 第四回川中島合戦に真田幸隆・信綱加わる
1566 真田信幸(信之) 誕生
1567(or 1570)真田信繁(幸村) 誕生
1573 武田信玄 没 53
1574 真田幸隆(幸綱)没 62
初代・真田幸隆 ゆかりの地
初代・真田幸隆は、「真田氏中興の祖」と呼ばれる名将で、もともとは上杉氏の配下にいたが、領地を武田信虎(信玄の父)に攻められて失う。
だが武田家の家督を晴信(信玄)が継ぐと、上杉氏を見限って武田氏に仕え、晴信のもとで頭角を現していく。
中でも晴信(信玄)が2度攻略に失敗し、「難攻不落」と呼ばれた砥石城を、一夜で調略して所領を回復した話は有名だ。
だがこの一件が、後の「川中島の合戦」につながる火種となった。
二代目・真田昌幸の年表とゆかりの地
1575 長篠・設楽原の闘いで信綱39・昌輝33戦死。三男の昌幸が武藤家より戻って、真田家を継ぐ
1580 真田昌幸、上野沼田城を攻略
1582 武田勝頼 織田信長により滅ぼされ、昌幸は信長の支配下へ
1582 本能寺の変 信長没
徳川傘下へ入るが、沼田領をめぐって対立
1584 真田信尹、徳川家康に仕える
1585 信繁(幸村) 人質として上杉景勝のもとへ
1585 第一次上田合戦 徳川軍撃退
1587 昌幸、家康と和解
1587 信幸(信之)に本多忠勝の娘・小松姫が輿入れ
1589 名胡桃城事件。豊臣秀吉、北条征伐を決定
1590 小田原城落城。北条氏滅亡。
昌幸、豊臣秀吉に仕える。信繁(幸村)は秀吉の人質から養子となる
1598 豊臣秀吉 没
1600 関ヶ原の合戦
昌幸・信繁(幸村)は豊臣軍、信幸(信之)は徳川軍へ
1600 第二次上田合戦 徳川秀忠を足止め
関ヶ原の合戦後 昌幸と信繁(幸村)は九度山に幽閉
1601 信繁(幸村)長男・大助誕生
1611 昌幸九度山で没 65
二代目・真田昌幸 ゆかりの地
父と兄同様に武田晴信(信玄)からの信頼が厚かった昌幸は、武田の奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)に加わり、以後勝頼との2代に渡り、武田氏に仕えることになる。
だが晴信(信玄)が病に倒れた後に家督を継いだ勝頼は、織田・徳川連合と激突した「長篠の戦い」に敗れ、「天目山の戦い」(甲州征伐)のあと自刃し、武田氏は滅亡した。
ちなみに「長篠の戦い」に敗れた武田勝頼が、傷ついた兵たちの治療のために、中之条を領地にしていた昌幸に命じて整備させたのが、現在の伊香保温泉だ。
空白地帯となった武田領をめぐり、東は「北条氏直(うじなお)」、南は「徳川家康」、北からは「上杉景勝(かげかつ)」の大大名による争奪合戦「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」が勃発する。
それに巻き揉まれるかたちになったのが、交通の要衝となる沼田を領地にしていた真田氏だ。
強大な勢力が旧武田領に侵攻する中、昌幸は情勢の変化を読みながら、卓越した智謀を発揮し、主君を北条氏→徳川氏→上杉氏へと鞍替えしつつ、戦国の世を巧みに渡り歩いていく。
とりわけ有名なのは、1585年に徳川家康が7000人で上田城を攻めてきた際に、1/3にも満たない2000人で、徳川勢に3000人もの死傷者を出させて勝利したとされる上田合戦(第1次上田合戦)だろう。
戦となった経緯を簡単に整理すると、家康が上野国(現在の群馬県)で北条氏との争いに苦しんでいる時に、昌幸は「今の真田の領地を認め、さらに領地を増やす」という条件で、それまで従っていた北条氏から徳川氏に寝返り、徳川の資金で上田城を築城して居城にした。
その結果、家康は勝利したが、北条氏と和睦を結ぶ際に、勝手に真田の領地である沼田を北条氏に差し出す約束をする。
これに激怒した昌幸は沼田を明け渡さず、家康は上田に兵を向けた。
昌幸はこの勝利により諸国から大名と認められ、豊臣秀吉に臣従することになるのだが、北条氏との沼田をめぐるイザコザは収まっていなかった。
そのため1589年に秀吉が仲裁に入り、 「上野国」の2/3は北条氏の領土、残りは真田氏の領土との裁定をくだす。
しかし北条氏は、秀吉の裁定を無視して真田氏の所領である名胡桃城に攻め込み、結果的にそれが秀吉の「小田原征伐」の引き金となった。
北条氏の滅亡後、再び沼田は真田信幸(信之)の領地となり、沼田城は1597年に5層の豪華な天守や3層の櫓を持つ城へと変貌を遂げる。
とはいえ…
昌幸と家康の間には、前述した「上田合戦」の原因となった約束不履行から来る確執がくすぶりつづけていた。
そのため秀吉亡き後、昌幸は次男の信繁(幸村)とともに「関ヶ原の合戦」で豊臣側につく。
だがこの時に長男の信之を徳川方に送り、いずれが勝っても真田家が生き残れる策を打っている。
それが世にいう「犬伏の別れ」だ。
もっともその背景には、信繁は秀吉の重臣・大谷吉継と、信之は家康の腹心の部下である本多忠勝と姻戚関係にあったことが挙げられる。
「関ヶ原の合戦」の前に昌幸は上田城に入り、今度はわずか5000人あまりの数で、徳川秀忠率いる3万8千人の軍勢を待ち構え、徳川軍を足止めして、家康の本隊と美濃で合流するのを遅れさせる作戦に出る。
狙いは見事的中し、先を急ぐ秀忠は上田城の攻撃をあきらめ、西へと去った(第2次上田合戦)。
ちなみに、この2度にわたる徳川との戦いには、信繁も参加している。
しかし真田の健闘は報われず、天下分け目の戦いはわずか1日で決着がつき、囚われの身となった昌幸と信繁は紀州の高野山に幽閉される。
徳川についた信之の懸命な嘆願により、なんとか打首は免れたが、昌幸は死ぬまで放免されず、最後は高野山の麓の九度山でこの世を去った。
三代目・真田信繁 ゆかりの地
さて。
実は信繁(幸村)の前半生は不明な点が多く、生まれた年もはっきりしていない。
わかっているのは前述した家康との確執により、いよいよ徳川からの攻撃の雰囲気を感じ取った父・昌幸が、上杉氏に従属することを決意し、1585年に信繁(幸村)を人質として越後に差し出したことだ。
大河ドラマ「真田丸」では、この時に信繁(幸村)が上杉景勝から家臣と同じような待遇を受けていた様子が描かれていた。
それもあり、信繁(幸村)は「第1次上田合戦」が勃発すると、加勢のために父の元へ一時的に戻ることを許されている。
実戦には加わっていないようだが、この時に昌幸の戦術を学んだのだろう。
その後、昌幸は台頭してきた豊臣秀吉に接近し、信繁(幸村)は上杉家を出て大坂の豊臣秀吉に仕えることになる。
信繁(幸村)は、秀吉から養子として豊臣の性を与えられるほどの寵愛を受け、重臣である大谷吉継の娘を妻に迎えた。
しかし秀吉の死後、真田氏の天敵ともいえる家康が満を持して挙兵し、豊臣の本拠地・大阪城に刃を向ける。
「関ヶ原の合戦」以降、九度山に蟄居していた信繁(幸村)は、人質時代に目をかけてもらった亡き秀吉への忠義を貫くべく立ち上がり、2度にわたる徳川家康の大阪攻めに対して孤軍奮闘する。
「大阪冬の陣」では、出丸として築いた「真田丸」を盾に、徳川の大群が大阪城に迫るのを食い止め、淀君の浅はかな和睦で「真田丸」を失ったにもかかわらず、その後の「大阪夏の陣」でも再び3500の浪人兵を率いて、徳川家康の本陣深くまで切り込んでいる。
だが最後は疲れ果て、享年48歳で茶臼山近くにある安居神社の境内で最期を迎えた。
戦のない泰平の世になると、信繁(幸村)の知略に満ちた勇猛な戦いぶりが、軍記物、講談、小説、寓話などに描かれるようになった。
ただし作家たちは幕府からのお咎めを恐れ、その中に登場するヒーローを、実名ではなく「幸村」と記した。
中でも1911年(明治44年)から1924年(大正13年)にかけて刊行された立川文庫(たつかわぶんこ)は人気が高く、忍びの真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として、幸村は日本中の庶民にも広く知られる存在となってゆく。
最後に。
信繁(幸村)が家康を憎むようになった一番の理由は、「関ヶ原の合戦」で敗れた後、九度山に幽閉された昌幸が、どんなに困窮し、老いぼれようと、一切赦免しようとしなかったことにあるのだろう。
それに加えて、太閤亡き後の豊臣家への容赦ない仕打ち…
大阪冬の陣・夏の陣で見せた、あの不屈の闘争心の源泉はそこにある。
大河ドラマ「真田丸」で、悩み多き嫡男役を演じて株をあげたのは大泉洋だが(笑)、実際の信幸(信之)も気の抜けない日々を過ごしていたに違いない。
実は第1次上田合戦で、昌幸の下知に従いながらも、独自に見事な采配を振る舞う信幸(信之)を、敵ながら家康は高く評価していたといわれている。
豊臣秀吉が天下を取ると、真田昌幸は豊臣秀吉に臣従し、秀吉の命令により徳川家康の与力大名となるが、それもあって家康は徳川四天王の一人である本多忠勝の娘を自らの養女にしたうえで、真田信幸(信之)の正室として嫁がせ、味方に引き入れた。
そして真田信幸(信之)は、沼田の城主として東軍に参加する。
「関ヶ原の合戦」後、信幸(信之)は沼田に昌幸の旧領を加増され、9万5千石の初代上田藩主を拝命するが、上田城は破却を命じられ、引き続き沼田城を本拠とした。
ちなみに上田城の再建修築は、後に上田藩主となった仙石氏が行っている。
真田氏の当主となった信幸(信之)は、家康への忠誠を誓うために、父・昌幸から授かった「幸」の字を捨てて「信之」に改名。引き続き家康からの信頼を得て、沼田・上田を預かる大名としての地位を確率していく。
その後、松代藩に転封(てんぽう)された信之は、明治維新まで真田の血を残す礎を築いた名君として、実に93歳の長寿を全うした。
番外編 大河ドラマ「真田丸」のイントロに使われたお城は?
最後は大河ドラマ「真田丸」のイントロに登場する、あのお城のお話を。初めて見た時は、そのリアルさと、まさにドンピシャの楽曲に驚かされた。
思い出せない方は、ニコニコ動画のこのページでご覧いただける。
このイントロ動画には主に2つの城が使われているのだが、冒頭に登場するのは「岩櫃城」だ。
筆者は本物を見た時、「おお、まさにこれだ!」と一目で分かった。
もうひとつは、なんと岡山県にある備中松山城だった。
この城は秋になると、雲海に天守が浮かぶ写真が撮れることで知られている。
聞くところによると、真田ゆかりの史跡ではないが、現存する城では最高の標高となる430メートルに天守があり、険しい岩山の上に残った城郭が、山深い真田の居城のイメージと重なることから、ロケ地に選ばれたという。
大手門跡の脇にある切り立った崖の上の城壁をドローンで撮影し、滝はCGで合成されている。