この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
世界遺産・富岡製糸場は、「青天を衝け」と「花燃ゆ」の2本の大河ドラマのゆかりの地
世界遺産「富岡製糸場」 車中泊旅行ガイド【目次】
1.プロローグ
筆者が「富岡製糸場」を初めて訪ねたのは、世界遺産に登録された2014年の10月のことだった。
ちなみに現在の見学料は1000円。7年で2倍は、なかなかの値上げだと思う(笑)。
その時は、たぶん長野方面に向かう途中で、PRポスターか何かを目にして立ち寄ったと思うのだが、実は事前知識をほとんど持たないまま、門をくぐっている。
早い話が「行けば何とかなるだろう」って奴だが、さすがにここは、そうは問屋が卸してくれなかった(笑)。
6月に正式登録されたばかりで、周辺を含めてまだ観光客を受け入れる準備が整っていなかったこともあるが、「なんで昔の絹糸工場が世界遺産に?」という「基本中の基本」すら、ロクに理解できないまま帰ってきた記憶がある。
そりゃまあ稼働してない工場の見学だもの、凡人にはつまらなくて当たり前(笑)。
そんなわけでアンティークな機械の写真だけ撮って、施設を足早に駆け抜けてきた。
まずは、それが下の記事を書く背景になっていることを話しておきたい。
ただこの時点で云えるのは、よほどの動機がないと、貴方もたぶん筆者の二の舞になるだろう。
さて。
その後すっかり忘れていた富岡製糸場は、翌年に放送された大河ドラマ「花燃ゆ」によって、筆者の脳裏に呼び戻される。
おかげで生糸が当時の日本にとって、どういうものだったかが見えてきた。
1-1.楫取素彦と富岡製糸場
小田村伊之助改め楫取素彦(かとりもとひこ)は、新政府の参与を皮切りに国政や県政に関わり、1876 年(明治 9 年)48 歳で初代群馬県令に就任する。
富岡製糸場は4 年前の1872 年(明治 5 年)に創業を開始していたが、無理な経営がたたり、窮地に立たされていた。
そのため、1880 年(明治 13 年)に明治政府は民間払い下げか、引取先が見つからない場合は、富岡製糸場自体を閉鎖する意向を固める。
その際に明治政府へ、従業員への痛手が伴う閉鎖を避け、民間払い下げの目処がつくまで、官営としての存続を強く訴え続けたのが楫取素彦だった。
楫取の粘り強い交渉は、1893 年(明治 26 年)に三井家(後の三井財閥)への払い下げが成立するまで、富岡製糸場を官営のまま操業し続ける結果を導き、富岡製糸場は昭和の終わりまで、実に115年間にわたって生糸を紡いでいくことになる。
「花燃ゆ」では、経営不振に陥った富岡製糸場が取り上げられたが、2021年の「青天を衝け」では、おそらくその創設の話に触れられるだろう。
「だろう」というのは、この記事を書いている2021年5月現在の「青天を衝け」は、まだ幕末までしか進んでおらず、これは「筆者の予測」にすぎないからだ。
しかし渋沢栄一と富岡製糸場の関わりを知れば、その予測も納得いただけるに違いない。
2.富岡製糸場ができた頃の日本と世界
富岡製糸場は1872年(明治5年)に誕生した日本初の官営模範工場だが、その設備を紹介する前に、当時の日本と世界がどういう状況にあったのかを振り返ってみよう。
2-1.日本の情勢
明治維新に成功したとはいえ、財政基盤が脆弱だった新政府は、西洋諸国に対抗できる近代国家設立のため、外貨を獲得できる殖産興業(しょくさんこうぎょう)が急務だった。
殖産興業とは機械制工業・鉄道網整備・銀行設立などの、資本主義による国家の近代化を推進できる諸政策を意味している。
そこで新政府が目をつけたのが、当時海外からの需要が高かった生糸だ。
養蚕と生糸づくりは古くから日本でも行われており、生糸の輸出が始まった頃は品質も良かったのだが、いかんせん生産量が少なく、高値で取引されるようになると、今度はそれに乗じた粗悪な生糸が出回るようになり、日本製の生糸全体の価格が下落し始めた。
そこで新政府は洋式の器械を使った製糸技術を導入し、高品質の生糸の安定供給を目論んだ。
2-2.世界の情勢
当時の日本の生糸の輸出拡大の背景には、大きく2つの要因があったとされる。
1.ヨーロッパの生糸生産地のフランス、イタリアで微粒子病という蚕の病気が大流行し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を受けていた。
2.同時にアジアの生糸生産地の清は、国内で起きた太平天国の乱によって生糸の輸出が振るわなくなっていた。
つまり日本の生糸が際立って優れていたというより、世界的に生糸の需要が高まっていたのである。
3.富岡製糸場と渋沢栄一
渋沢栄一が生まれ育った現在の埼玉県深谷市にある実家は、養蚕と藍玉づくりで財を成した裕福な農家で、栄一は幼い頃から養蚕に慣れ親しんでいた。
また藍玉の原料の仕入れを通じて、養蚕の盛んな群馬県や長野県にも出入りしていたことから、地理にも通じていたようだ。
この頃、明治政府の大蔵省租税正(そぜいのかみ)だった栄一は、その経験を買われて、富岡製糸場設置主任に任命される。
栄一はフランス人技師ポール・ブリュナを雇うことを決議するなど、富岡製糸場の建設に向けて尽力するが、そのメンバーには、栄一が「あにい」と慕う従兄弟の尾高惇忠も含まれており、尾高惇忠は初代場長にも就任している。
思うに「青天を衝け」の前半で、少年の栄一が蚕を育てたり、上州から信州を歩き回るシーンが多く描かれていたのは、この絡みを強調するための布石なのだろう。
5.富岡製糸場の歩み
最終的に、以下の条件を満たす富岡に、製糸場を建設することが決定した。
1.養蚕が盛んで原料の繭が確保できる。
2.工場建設用の広い土地が確保できる。
3.外国人指導の工場建設に住民が同意。
4.既存の用水を使うことで、製糸に必要な水の確保ができる。
5.燃料の石炭が近くの高崎で採取できる。
フランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに、1871年(明治4年)から工事は始まり、翌年の7月に主な建造物が完成、10月4日には早くも操業が開始された。
写真の繭から生糸を取る繰糸所には、300釜の繰糸器が並び、全国から集まった伝習工女たちが汗を流した。
官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではなかったが、高品質に重点を置いた生糸は、海外で高く評価されたという。
しかしその後も業績は下降線を辿り、1893年(明治26年)に三井家に払い下げされたのち、最終的には1939年(昭和14年)に、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併される。
第二次世界大戦後は自動繰糸機が導入され、再び製糸工場としての活気を取り戻したが、日本の製糸業の衰退とともに、1987年(昭和62年)ついに操業を停止した。
ただ、その後も片倉工業株式会社によって、大切に保管されていたほとんどの建物は、2005年(平成17年)に富岡市に寄贈され、その年には国の史跡に、翌年には主な建造物が重要文化財に、そして2014年(平成26年)には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録され、現在は繰糸所・西置繭所・東置繭所の3棟が「国宝」に指定されている。
5.富岡製糸場がよく分かる見学方法
このように「駆け足」で説明しても長くなる富岡製糸場を、普通に見学していたのでは埒が明かない。
そこでいい方法を2つ伝授しよう。
5-1.いちばんのお勧めは「ガイドツアー」
富岡製糸場では、解説員が約40分かけて場内を案内してくれる「ガイドツアー」を実施している。
筆者は実際に体験してきたが、建物や機械の説明はもちろん、建設までの経緯や、創設に尽力してきた人々の紹介、さらには創業時の様々なエピソードを加えたガイドは素晴らしく、あっという間に40分が過ぎ去った。
富岡製糸場の見どころは、例えばレンガのように洋式の施設を作るのに必要な資材を、当時はまだ作る技術がなかった日本において、いかにカバーしていったのかというところにも潜んでいる。
富岡製糸場のレンガは、良質な粘土を産出する富岡近くの甘楽町に釜を作って焼き上げたものだが、フランス人技師の指導を受けて実際に作ったのは、地元の瓦職人だった。
さらに目地は現代ならモルタルが普通だが、この時代の日本ではまだセメントは製造されておらず、代替として下仁田町から採取された石灰を原料とした漆喰と砂を混ぜて代用している。
ちなみに柱は、なんと木材!
そりゃ、世界遺産推薦機関のイコモスだって驚くわけだ(笑)。
「ガイドツアー」への具体的な参加方法は、まず正門を過ぎたところで入場料1000円を支払い、入場したら東置繭所の北側にあるこのテントに進み、そこで申込みをしてガイド料200円を支払う。
ツアーは1日6回で、以下の時間からスタートする。
【午前】9時30分/10時30分/11時30分
【午後】13時/14時/15時
ちなみに時間の都合でガイドツアーに参加できない場合は、音声ガイドという方法がないではないが、もっと手っ取り早くて分かりやすいのは、東置繭所の展示コーナーで上映されている、20分間のビデオを観ることだ。
その場合は、先に何も見ずに最初にここへ足を運び、先入観のないままビデオを見るほうがいい。
6.富岡製糸場 周辺の駐車場と車中泊事情
富岡製糸場には駐車場がないので、クルマは近隣の市営駐車場かコインパーキングを利用する。市営駐車場には有料と無料があるが、いずれも遠いのが難点だ。
写真は城町通りに2020年に整備された「旧韮塚製糸場」の真向かいにある、富岡製糸場の正門にもっとも近いコインパーキング。施設名はないようだが、隣は信州屋になる。
城町通りは、土産物屋や食事処が並ぶ富岡製糸場の「表参道」にあたる通りだ。
しかし道は狭く、日中はかなり人通りもあると思われるため、朝早く来て入庫できても、帰りに苦労するかもしれない。
身動きがしやすくて正門に近いのは、筆者も利用したこの「いなりパーク」。高さ制限2.1メートルと書かれているが、出入口の幅は広く、2.38メートルある筆者のハイエースでも入庫することができた。
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最後は最寄りの車中泊スポットについて。
富岡製糸場に1番近い車中泊スポットは、約4キロ・クルマで10分足らずのところにある「道の駅甘楽(かんら)」。
知名度は高くないが、車中泊で利用する「旅の宿」としては、なかなかのクオリティーを有しているのでお勧めだ。
また10キロほどのところにも「道の駅しもにた」があるが、そちらは視察できていない。