歴史が好きで経験豊かな「車中泊旅行家」が、藤堂高虎ゆかりの名城「宇和島城」の概要と歴史、及び駐車場を詳しく紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
宇和島城は「藤堂高虎」が縄張りし、「伊達家」が築城した”現存12天守”を誇る城

宇和島城 DATA
宇和島城
〒798-0060
愛媛県宇和島市丸之内1
☎0895-22-2832(宇和島城天守)
天守入場料 200円
※65歳以上160円
開門時間
11月~2月:6時~17時
3月~10月:6時~18時30分
天守見学時間
11月~2月:9時~16時
3月~10月:6時~17時
「宇和島城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2018.05.11
「宇和島城」での現地調査は2018年5月が最終で、この記事は友人知人から得た情報及び、ネット上で確認できた情報を加筆し、2025年3月に作成しています。
「宇和島城」の概要・歴史・駐車場

「宇和島城」築城までのいきさつ

「宇和海」の最深部に位置する「宇和島城」は、平安時代からこの地に砦として築かれていた「板島丸串城」の跡地に、築城の名手で名高い「藤堂高虎」が建造した水城で、「現存十二天守」を保持する「日本100名城」のひとつだ。
古図には、当時「宇和島城」のすぐ間際まで海が迫っていたことが記されている。

「豊臣秀吉」の直臣だった「藤堂高虎」は、桃山時代が幕を下ろす直前の1595年に、「文禄の役」のさなかに朝鮮で病死した「戸田勝隆」の後を受けて、宇和郡板島7万石を拝領し、その翌年から「宇和島城」の造営を開始する。
ただし「宇和島城」には城代を置き、自身は「大洲城」を居城にしていた。

しかし1598年に「秀吉」がこの世を去ると、「高虎」は「加藤清正」や「黒田長政」らとともに、「豊臣」を見限り「徳川」へと流れ、1600年の「関ヶ原の戦い」で武功をあげる。
その間にも「宇和島城」の築城は進められ、1601年には天守が完成して近世城郭としての体裁が整うが、翌年に「高虎」は同じ伊予の国分(現在の今治)に、20万石の加増を得て移封となり、今度はそこでさらに完成度の高い「今治城」の築城に邁進することになる。
ここで「藤堂高虎」と「今治城」の縁は切れ、「高虎」が築城した天守は、その後全面的に建て直される。
それもあって、「城」としての評価は「今治城」に軍配が上がるのだが、「宇和島城」がおもしろくなるのはここから。
実質的に「宇和島城」の城主として、城と城下町を守り育てて行くのは、なんとあの東北の覇者「伊達家」の子孫たちになる。
「伊達家」と「宇和島城」

「伊達政宗」の長男「秀宗」が、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」から、宇和郡10万石を拝領して「宇和島城」の主となるのは1614年。「藤堂高虎」の後、「富田信高」の時代を挟んでのことだ。
興味があるのは、なぜ本来なら「伊達家」の跡取りになるはずの長男「秀宗」が、この地に転封されてきたのか…。しかも仙台の「伊達家」は、そのまま存在している。

「伊達秀宗」は、「独眼竜」と称された仙台藩主「伊達政宗」の庶長子(しょちょうし:側室等の正室でない女性から生まれた長男)で、当初は「政宗」の世子(せいし:跡継ぎの子)として育てられている。
しかし政宗と、「坂上田村麻呂」を先祖とする田村氏から嫁いできた正室「愛姫(めごひめ)」との間に、待望の嫡男「忠宗」が生まれたことで立場が変わる。
そのため「政宗」は、長男「秀宗」の身が成り立つよう徳川家に嘆願したところ、幕府は「大坂冬の陣」での「政宗」の戦功と、「秀宗」の忠義を大いに評価し、宇和島藩を与えることとなったという。
その結果、10万石を賜った「宇和島伊達家」は、本家と分家ではなく宗家と支家という位置づけで、以降9代にわたってこの地を治めて明治にいたっている。
伊達家による「宇和島城」の改修

さて。
住人が変われば、家をリフォームしたくなるのは今に限ったことではない(笑)。
「宇和島城」も二代目「宗利」が1676年に大改修を行い、その際に「藤堂高虎」が築城した「望楼型天守」を、現在残る三重三階の「層塔型天守」へと建替えている。
そのため「高虎」の天守(慶長天守)は、今は絵図でしか知ることができない。
また地名が板島から宇和島と改められたのも、この時代だという。
以下は公式サイトから、その違いを転用したものになる。
| 寛文天守(現存) | 慶長天守 |
|---|---|
| 伊達 宗利 建築 (宇和島伊達家2代藩主) |
藤堂 高虎 建築 |
| 寛文6(1666)年頃 完成 | 慶長6(1601)年 完成 |
| ・3重3階
・層塔型 ・白漆喰総塗籠 |
・3重3階
・望楼型 ・下見板張 |
![]() |
![]() 広島大学名誉教授三浦正幸復元 |
「伊達」くんの気持ちは分からなくもないけど、城郭考古学者にすれば「何してくれるねん!」かもしれないね(笑)。

ちなみに「伊達宗利」は天守のほかに、櫓や門なども改修したが、堀や石垣などの「縄張り」は「高虎」のものをほぼ引き継いでいる。
そして、それがよかった。
おかげで「宇和島城」には、「高虎」が仕込んだ『空角の経始(あきかくのなわ)』と呼ばれるトリックが、今もまだ残されている。
空角の経始(あきかくのなわ)

このイラストで分かる五角形の「縄張り」は、攻めてきた敵に、四角平面の城と錯覚させるための設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書の「讃岐伊予土佐阿波探索書」には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されている。
「高虎」は、城を攻める側が四方型の「縄張り」を予想して攻めてくることを想定し、あえて五角形にしておくことで、空角となる一辺を生み出し、攻撃を手薄にすると同時に、場内からの出撃口を確保しようと考えていたようだ。
しかも空角は、物資搬入口や城から落ちのびる場合の抜け道にも使える。
当時の築城術で、このような”からくり”を用いた城は他には見当たらないという。

さらに「宇和島城」には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。
その意味から云うと、「宇和島城」は「藤堂高虎」の危機管理能力に基づく築城術が、巧みに仕込まれた手本のような城だったとも云えるだろう。
ただ現在は、堀はすべて埋められ、三之丸をはじめとする総郭部分は失われている。

しかし本丸・二之丸などの郭を含む丘陵部は、戦前まで伊達家の手により保護され、1934年(昭和9年)に天守が国重要文化財、1937年(昭和12年)に丘陵全体が国史跡の指定を受けて保存管理されている。
宇和島城の駐車場&アクセスマップ

市営駐車場として、中央町駐車場(普通車100台)と城山下駐車場(普通車46台)が用意されており、いずれも24時間営業で、料金は1時間あたり100円になる。
写真は城山下駐車場で、ホームページには高さ2.3メートルまでと書かれているが、車高2.38メートルの筆者のハイエースは入庫することができた。
なお中央町駐車場は現地確認できていないが、ホームページには高さ2.1メートルまでと書かれている。ただ画像を見るかぎり立体や地下ではなく平面のようだ。
ちなみに「道の駅 うわじまきさいや広場」からは約1キロ離れているので、歩くと15分ほどはかかるだろう。
旅行者のための「お城めぐり入門講座」
車中泊でクルマ旅 総合案内
クルマ旅を愉しむための車中泊入門
この記事がよく読まれています。


























