この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

「空海」を知らない日本人は稀有だが、その素性をよく知る日本人もまた少ない。
空海(弘法大師)のプロフィールと、主なゆかりの地【目次】
プロローグ 空海と弘法大師の違いは?
真言宗の開祖である「空海」(774年- 835年)は、数々の功績とミステリアスなエピソードを数多く残した平安時代初期の僧侶だが、そのプロフィールをよく知る人は少ないと思う。
たとえば空海と弘法大師は同一人物だが、どちらの名前が先につけられたのか、あなたはご存知だろうか?
「空海」は幼名を「佐伯眞魚(さえきのまお)」といい、「空海」は22歳の時に室戸岬で悟りを開いた時に自ら名付けた法名で、「弘法大師」は62歳で奥の院に入定した80余年後に、これまでの事績を評して醍醐天皇から賜った諡号(しごう)だ。
空海のプロフィールを明快完結に
「四国八十八箇所」は特別として、日本を旅すれば、近畿はもちろん、果ては伊豆半島や能登半島にまで、「空海ゆかりの地」と呼ばれる場所が点在している。
その数なんと300あまり(笑)。
根拠の曖昧なものまで相手にするには、あまりにも骨が折れる数と云える。
そこで、旅人が常識程度に知っておけばいいと思う「空海」のプロフィールをまとめてみた。
774年に現在の香川県にある善通寺で誕生した「空海」は、18歳の時に官僚を目指して貴族の子弟しか入れない大学へ進むが、在学中に修行僧と出会い、仏教に目覚めて19歳で厳しい山林修行へと旅立った。
そこから「空海」の修行の旅が始まる。
奈良県や四国各県で研鑽を重ねた後、20歳で僧侶になるための受戒をし、22歳の時に室戸岬で名前を「空海」に改めた。
その旅の途中で「空海」は密教の経典「大日経」と出合うが、密教の教えは経典を読んだくらいでは解らないと感じた空海は、唐へ渡る機会を探る。
そしてチャンスが29歳の時に訪れた。
「空海」は804年5月に、第16次遣唐使船に乗って唐へと渡る。
唐で2年間の修行を重ねた「空海」は、数々の学問や技術を学び、膨大な仏像や法典などを日本へ持ち帰った。
「空海」は唐で学んだ密教の教えをもとに「真言宗」を開く。
そして816年に嵯峨天皇より高野山を賜り、修行の場として現在の金剛峯寺を建立した。
さらに823年には東寺も託され、「空海」は東寺を「教王護国寺」と称して、高野山と並ぶ真言宗の基盤を、都のすぐ近くに確立する。
835年、自らの死期を悟った「空海」は、弟子たちに遺言を残すと、62歳で高野山の奥の院に入定(にゅうじょう)し、永遠の瞑想に入った。
真言宗における入定とは、単なる死ではなく、永遠に深い禅定(ぜんじょう)に入っている状態と考えられており、奥の院には1200年を経た今でも、空海に1日2回の食事が運ばれている。
「善通寺」は「空海」の誕生地にして、真言宗善通寺派の総本山。
「空海」ゆかりの国宝や大楠があり、創建当時の伽藍配置を残している。
「空海」悟りの地 高知県室戸岬 御厨人窟(みくろど)
高知県の室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれる洞窟は、修行を終えた「空海」が、そこから外に出た時に見えた「空」と「海」に心を打たれ、以降自らを「空海」と名乗るようになった場所と云われている。
「空海」入定の地 和歌山県高野山・奥の院
816年に弘法大師が修禅道場を開いて以来、約1200年の歴史を誇る真言宗の聖地。
現在は金剛峯寺を筆頭に、高野山町石道と山内の6つの建造物が、世界文化遺産に名を連ねるが、「空海」が入定しているのは「奥の院」になる。
東寺(世界遺産) 京都府
嵯峨天皇は、密教ばかりでなく詩文や書などに幅広い知識を持つ「空海」を高く評価し、その功績として823年(弘仁14年)に東寺を勅賜した。
修禅寺(修善寺温泉) 静岡県伊豆半島
地名は「修善寺」、寺名は「修禅寺」で、表記が異なるが、両方とも「しゅぜんじ」と読む。
「修禅寺」は807年に「空海」が創建したと伝えられ、近くには川原で病気の父親の体を洗う少年のために「空海」が独鈷(とっこ)を用いて岩を砕き、そこから湯が湧出したという伝説も残されている。
もしそれが事実であるなら、年代から考察すると、「修禅寺」は唐から帰国直後の「空海」が残した、貴重な遺産のひとつになるが、古文書に残る「空海」の行動記録とは矛盾している。
橋杭岩 和歌山県串本
道の駅に指定されている「橋杭岩」には、「空海」と「天の邪鬼(あまのじゃく)」が、朝日が昇るまでの夜の間に、大島までどちらが早く橋を架けられるかを競争したという、ユニークな伝説が残されている。