この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

修禅寺は、平安時代の807年に創建された伊豆の名刹。
地名は「修善寺」、寺名は「修禅寺」で、表記は異なるが、両方とも「しゅぜんじ」と読む。
当初は「桂谷山寺(けいこくさんじ)」と呼ばれていたが、鎌倉時代から「修禅寺」と呼ばれるようになったというが、背景には鎌倉時代中期に「真言宗」から「曹洞宗」に改宗したことで、「善」を「禅」に変更したとの説がある。
ちなみに、この見事な寺号額が弘法大師の書であればすごいのだが(笑)、その「空海以来の書聖」とたたえられる、書家で政治家の副島種臣(そえじま たねおみ)氏によるもので、1888年(明治21年)に寄進されている。
「修禅寺」の見どころガイド【目次】
「空海」による創建はホントの話?
公式サイトを含めて、ネット上にある数多の修禅寺の紹介サイトを見ると、『修禅寺は807年に「空海(弘法大師)」によって創建された』と記されているが、これはたぶん正確ではないだろう。
複数のネット辞書に『「空海」の高弟である杲隣(こうりん)による創建』と記されている通り、当初は真言宗だったので「空海」はノータッチではなかっただろうが、直接関与していたとは考えにくい。
それは、「空海」の行動記録を見れば明らかだ。
遣唐使だった「空海」は、806年に唐から博多に帰着したが、20年の留学期間をわずか2年で切り上げて帰国したため、朝廷は809年まで入京を許可せず、807年から2年ほどは大宰府・観世音寺にとどまっていたとされている。
おそらく後年になされた、拡大解釈で寺歴に箔を付けるための誇張PRだと思うが、「空海」の創建であろうがなかろうが、「修禅寺」が1200年近い歴史を有する古刹であることに変わりはなく、見どころもたくさん残されている。
ちなみに「空海」にまつわる伝説は、全国津々浦々に散在しており、その数は300件を越えるとか(笑)。
正しい空海のプロフィールは、以下の記事で確認を。
ここが修禅寺の見どころだ!
老朽化が進んでいた修禅寺の山門は、「大きな地震が来ると崩壊の恐れがある」と指摘され、2014年(平成26年)9月に修復工事を終え、150年ぶりに新しくなった。
写真は修復工事前の山門だが、長く生きていると、時折こういう写真が箪笥の奥から出てくる(笑)。
こちらは修復後の山門だが、門の左右に新しい「仁王堂」が追加されている。
山門左側の金剛力士像
山門右側の金剛力士像
「仁王堂」に収まっているのは、この2体の「金剛力士像」で、900~1000年ほど前の平安時代後期の作品であることは判明しているが、作者が不明で文化財の指定は受けていない。
もともとは修禅寺から2キロほど離れた、修禅寺の総門におさめられていたもので、明治初期に総門がなくなった後、指月殿に移されていたが、「金剛力士像」は山門の両側から睨みをきかせる「守護神」であることから、山門の修復工事と同時に、本来あるべき場所におさめられたという。
山門をくぐると、正面に1883年(明治16年)に再建された本堂が見える。
修禅寺のご本尊である「大日如来像」は、鎌倉時代初期の1210年に、大仏師・実慶によって彫られたヒノキの寄木造りの座像で、国指定の重要文化財だが、1984年(昭和59年)の改修時に、像内から錦の袋に入った髪束が発見されて話題となった。
その時の様子がNHKの「歴史ドキュメント 追跡・謎の黒髪 ~秘められた北条政子の素顔~」で報道されたが、今でもその貴重な映像を、下のサイトで見ることができる。
「大日如来像」は、毎年11月1日から10日間のみ、境内の中にある「宝物殿」で一般公開される。
また宝物殿では、岡本綺堂氏の「修禅寺物語」が創作されるきっかけとなった、頼家の仮面も収蔵されている。
こちらは、大正天皇が「東海第一の庭園」と絶賛された修禅寺方丈の庭園。
1905年(明治38年)に小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)の別邸を、修禅寺の方丈・書院として移築した際に、造営されている。下賜された建物は老朽化のため、昭和の終わりに建て替えられたが、庭園は当時のままだ。
その他では、ユニークなトリビアとして有名な「桂谷霊泉 大師の湯」と呼ばれる、この御手水が挙げられる。
湯処らしく、龍の口から流れ出てくるのは源泉かけ流しの温泉だ。
手と口を清めるための御手水として使われているが、修禅寺ではその場で飲んでもかまわない。
ただ飲用する前には、「水屋」のうしろに掲示された「温泉分析書」と「飲用にあたっての注意書き」を一読しよう。
また修禅寺の境内の一画には、「百度石」がある。
お百度参りの歴史は古く、歴史書の「吾妻鏡」には、鎌倉時代初期の1189年には既にお百度参りが行われていたという記録が残されているが、その舞台はこの修禅寺だったのかもしれない。
最後に筆者が気になったのは、境内に鎮座しているこの悟りの表情を浮かべた「だるま」の石像。
禅宗に「だるま」は付き物だが、そもそも禅宗は「ボーディダルマ」という名のインドの僧侶によって、1500年ほど前に中国に伝えられたという。
達磨大師(だるまだいし)の異名を持つ「ボーディダルマ」には、あの少林寺で9年間も座禅を続けたという伝承が残されており、縁起物の「だるま」のルーツは、この伝承における達磨大師の姿にあるとも云われている。
修禅寺と深い関わりを持つ「鎌倉幕府」
「大日如来像」のところで少し触れたが、修禅寺と鎌倉幕府の間には、浅からぬ関わりが存在する。
「鎌倉」から見れば「修禅寺」はずいぶん遠いが、源頼朝が流され着いた「蛭ヶ小島」とは10キロほどしか離れていない。
それを考えると、北条氏が人里から離れて目立たず、他からの干渉を排除できる「修禅寺」に、厄介者を幽閉したのも頷ける。
こちらは修禅寺の鬼門の鎮守として創建された「山王社」をルーツに持つ「日枝神社」。
明治の神仏分離によって修禅寺より分離されたが、その杉・欅・槇など大木が目立つ境内の一画に、源頼朝の異母弟で謀反の疑いをかけられた源範頼が幽閉されたと伝わる信功院跡がある。
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