この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の紹介です。

「修善寺」は、鎌倉幕府のお家騒動の舞台。
2022年の大河ドラマは、三谷幸喜の脚本による鎌倉幕府の2代目執権「北条義時」が主人公の「鎌倉殿の13人」。
ストーリーは鎌倉時代初期の源頼朝亡き後の権力闘争だけに、修善寺を抜きにして描くことはできまい。
北条政子を知れば、修禅寺のことが分かる【目次】
北条政子と源頼朝のなり染
源頼朝は、1147年(久安3年)に清和天皇を先祖とする河内源氏の源義朝の三男として、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)に生まれたが、13歳の時に義朝が平治の乱を起こし、平清盛に敗れたことで人生が変わった。
本来なら処刑になるところだったが、清盛の温情により伊豆国の「蛭ヶ小島」へと流されることになる。
その頼朝の監視役を任されたのが、板東平氏出身で、伊豆の北条に土着していた地方官吏の北条時政で、その娘がやがて頼朝と恋に落ちる北条政子だ。
初めて源頼朝と出会ったのは3、4歳の頃になるので、政子にとって頼朝は、当初は10歳年上の「お兄さん」みたいな存在だったのかもしれない。

出典:NHK
記録によると、政子は1177年頃に21歳で頼朝と結婚しているが、当然ながら当初は時政も反対していたため、なかば「駆け落ち」に近いものだったという。
2012年に放送された大河ドラマ「平清盛」では、女優の杏が政子役を演じていたが、闊達で気の強そうなキャラは、今思えばピッタリだった(笑)。
このあたりは「鎌倉殿の13人」の脚本とはちょっと違う。
いっぽう「鎌倉殿の13人」では、小池栄子が政子に扮して頑張っているが、それはそれでおもしろい。
さて。1181年に平清盛が没すると、都での平家の政権に陰りが見え始める。
そこで時政は平家を見限り、政子と源氏の嫡流である頼朝の結婚を認め、逆に家臣として二人をもり立てて行く道を選択する。
その後は周知の通り。
頼朝は伊豆で平氏打倒の兵を挙げ、先祖にあたる八幡太郎ゆかりの地である鎌倉を奪回して関東を制圧。木曽義仲や源義経らとともに平氏を打倒し、1192年(建久3年)に後鳥羽天皇から征夷大将軍を拝命し、鎌倉に幕府を開いた。
なお鎌倉幕府に関しては、この記事に詳しく記している。
鎌倉幕府のお家騒動
修禅寺は、かつて頼朝が異母弟で義経の異母兄にあたる範頼(のりより)を謀反の容疑で幽閉し、義経と同じく死に追いやった因縁の場所だ。
ことの発端は、1193年(建久4年)に勃発した曾我兄弟の仇討ちにある。
その際に鎌倉の政子の元へ、「頼朝が討たれた」との誤報が入るのだが、嘆く政子に対し、範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。
この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたというのだが、従兄弟の木曽義仲に始まり、異母兄弟の義経そして範頼と、こう次々に身内の武将を排してしまったのでは、源家にとって本当に頼りになる家臣がいなくなるのは当然だ。
逆にそれが、範頼の追放が「政子の陰謀」であるとする説の拠り所にもなっている。
だが、修善寺における「鎌倉幕府のお家騒動」はこれだけでは収まらなかった。
源頼朝は、1199年1月に53歳の若さで急死している。
きっかけは落馬のようだが、直接的な死因には脳梗塞や糖尿病など諸説あり、真相はわからない。
だが、頼朝の急死が鎌倉幕府に「激震」を招いたことに間違いはない。
まず、政権は源頼朝と北条政子の嫡男である18歳の源頼家が、第2代征夷大将軍となって引き継ぎ、43歳で出家して尼御台所となった政子が、頼家の後見人となった。
しかしその3ヶ月後には、北条氏ら御家人による「十三人の合議制」が敷かれ、頼家が直接政治に関与することが停止される。
鎌倉幕府の事跡を記した歴史書の「吾妻鏡」には、それは頼家が従来の慣習を無視して横暴な判断を行ったためと記されているが、家督をついでわずか3ヶ月の出来事だけに、その真偽に疑問を抱く専門家もいるようだ。
いっぽうこれに反発した頼家は、特に信頼していた比企宗員・比企時員・小笠原長経・中野能成の若い5名を指名して、彼らでなければ目通りも手向かいも許さないという命令を下す。
そしてこれが、頼家の祖父・北条時政を筆頭とする、他の御家人たちの不満が炸裂する決定打となった。
頼朝が溺愛した頼家は、母の政子により修禅寺に幽閉され、1204年に北条氏の手兵によって入浴中に襲撃を受け、はかなくも享年23歳で最期を遂げる。
その後を継ぎ、鎌倉幕府3代将軍にして「最後の将軍」となるのは、源頼朝と北条政子の次男で、当時12歳だった源実朝だ。
しかし北条時政が執権となり、北条氏の執権政治が本格化すると、政治からは目をそらし、公家の文化に没頭する。
しかし最後は、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に暗殺され、ついに源氏の血を引く将軍は断絶した。
その後、北条氏の嫡流は「得宗(とくそう)家」と呼ばれ、初代執権・北条時政から16代執権・北条守時まで、130年間に渡って執権職を独占することになる。
暗殺の激流が渦巻く中で、政子は息子の頼家と実朝、さらに孫の公暁を失いつつも生き残り、北条氏の中枢として政治との関わりを持ち続けた。
確かに見方としては、源氏から実家の北条家に幕府を乗っ取ったようにも受け取れるが、そのあと約130年にもわたって鎌倉幕府が存在し続けたという結果を見る限り、たとえ実子を犠牲にしてでも、「頼朝とともに手に入れた天下」を守り通した政子の選択は、正しかったのかもしれない。
修善寺に残る北条政子ゆかりの地
さて。
そんな政子の母親らしい一面を伝える古い建物が、修善寺に残されている。
指月殿は、たとえ運命とはいえ、わが子を死に追いやってしまった北条政子が、頼家の冥福を祈って寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれている。
堂内中央には珍しい禅宋式の丈六釈迦如来座像が安置されているが、本来はなにも持たない釈迦像が、右手にハスの花を持っているのが特徴だという。
また頼家は、その指月殿の左手にある墓で眠っている。
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