歴史が好きで経験豊かな「車中泊旅行家」が、日本100名城の「岐阜城」の概要と歴史及び、最寄りの駐車場・車中泊事情を詳しく紹介しています。
「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

この記事は、1999年から車中泊に関連する書籍を既に10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「車中泊旅行家・稲垣朝則」が、独自の取材に基づきまとめた、『一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台』をクルマで旅するためのガイドです。

~ここから本編が始まります。~
金華山山頂に残る天守はその一部に過ぎず、麓の居館跡を含む「金華山全体」が岐阜城本来の姿。

岐阜城 DATA
岐阜城(岐阜公園)
〒500-8003
岐阜県岐阜市大宮町1丁目地内
☎058-214-2182
公園内は無料
天守入場料200円
●3月16日~10月16日
9時30分~17時30分
●10月17日~3月15日
9時30分~16時30分
ぎふ金華山ロープウェイ(所要時間約4分)
おとな片道800円(往復1300円)
「岐阜城」の筆者の歴訪記録
※記録が残る2008年以降の取材日と訪問回数をご紹介。
2014.04.25
2014.09.21
2020.06.17
2025.08.22
「岐阜城」での現地調査は2025年8月が最新です。
「岐阜城」の概要&駐車場・車中泊の詳細情報

プロローグ
深い因縁を秘めた岐阜城の歴史

「岐阜城」のルーツは、鎌倉時代の初めに「二階堂行政」が、標高336メートルの金華山(稲葉山)山頂に、朝廷への押さえのために砦を築いたのが初めとされる。
「二階堂行政」は鎌倉時代の幕府官僚で、 当初は朝廷に仕える下級貴族だったが、「源頼朝」の縁戚として鎌倉へ下り、その後「十三人の合議制」の一員となるなど、幕府における要職を歴任した人物だ。

出典:NHK
筆者はよく覚えていないのだが、2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の「野仲イサオ」が配役をつとめ、けっこう大きく登場している。
その後は、美濃の出身で「頼朝」に従軍して鎌倉幕府の御家人となった「土岐光衡(みつひら)」が、美濃源氏の嫡流「土岐氏」の祖として守護をつかさどり、一帯を統治して「稲葉山城」と名付けた。
「土岐氏」は、南北朝時代以降も、足利幕府に従って美濃国の守護職を維持しつつ繁栄するが、戦国時代の1552年(天文21年)に、「土岐頼芸(よりのり)」が自身の御家人だった「斎藤道三」に、美濃を追われて嫡流は衰退。
以降、「斎藤道三」が居城として「稲葉山城」を修築し、城下を整備していく。
この一連を描いていたのが、2020年に放送された大河ドラマ「麒麟がくる」だ。

出典:NHK
ドラマでは「尾美としのり」が「土岐頼芸」役を好演していたが、遺憾なく『憎めない姑息な殿様ぶり』を発揮し、まさに”はまり役”だったと思う。
ここまでの話は、ほかではわずか数行で終わっている内容を、歴代の大河ドラマを繋ぎ合わせて、分かりやすくしてみたのだが、やればカタチになるからおもしろい。
歴史の授業じゃないんだから、このくらい捻って書かないとね(笑)。
ちなみに、後年に「織田信長」を「本能寺」で自刃に追い込んだ「明智光秀」は、「土岐氏」の血を引く武将だ。
ということは…
「土岐氏」が信頼した「斎藤道三」に裏切られたように、「道三」が信頼した「信長」が、自身の信頼した「光秀」に最期は裏切られるという、どんな脚本家でも思いつきそうにない結末の”種”が、この岐阜城で撒かれていたことになる。
「米津玄師(けんし)」の歌じゃないが、『これが”因縁”でなければ、なんと呼ぶのか僕は知らなかった』(笑)。
斎藤道三の時代のトリビア

ここまでの展開からすれば、期待する「斎藤道三」はやっぱりこっちか。

出典:NHK
「麒麟がくる」の前半では、完全に主役の「明智光秀(長谷川博己)」を食っていた感のある、「本木雅弘」演じる「斎藤道三」は、一介の僧侶から、油売りの商人、そして美濃国を領する戦国大名まで上り詰めたことから、下剋上の代表格とされ『美濃の蝮(まむし)』の異名を持つ。
その「道三」が「稲葉城」に君臨したのは約20年間。
その間の1547年(天文16年)には、美濃を追放された「土岐頼芸」が「信長」の父「織田信秀」を頼り、「稲葉山城」に攻め込んだのを、返り討ちにしている。
その後「道三」は「織田信秀」と和睦し、1548年(天文17年)に娘の「帰蝶(きちょう)」を「信秀」の嫡男「織田信長」に嫁がせ、美濃を平定することに成功した。
もうこのあたりからは、「麒麟がくる」でしっかり描かれていたので、記憶に新しい人も多いと思う。

出典:NHK
ご覧になっていない人のために、あえて触れると、「帰蝶(きちょう)」を演じたのは「川口春奈」で、当初は「沢尻エリカ」が演じる予定だったが、薬物騒動で代役の白羽の矢が立ち、結果、彼女にとって「麒麟がくる」は出世作となる。
なお「光秀」は、叔母が生んだ「帰蝶」と従兄妹の関係にあり、「斎藤道三」は義理の叔父にあたる。
1554年(天文23年)、「斎藤道三」は家督を嫡男の「義龍(よしたつ)」に譲って隠居するが、「道三」は「義龍」よりも弟の「孫四郎」と「喜平次」ら可愛がり、「義龍」を愚か者扱いするなど冷遇した挙げ句に、ついには廃嫡を考えるに至ったため、親子の不和は決定的となった。
1555年(弘治元年)、「義龍」は弟ふたりをおびき出して殺害したあと、挙兵して「道三」を討ち果たす。
「信長」は「道三」救援のために援軍を派遣したが、間に合わなかった。
だが「斎藤義龍」は、5年後の1561年(永禄4年)に35歳の若さで病死し、嫡男で14歳の「龍興(たつおき)」が跡目を継ぐ。
しかし「龍興」は政治に無関心で、これまで有力家臣として斎藤家を支えてきた「西美濃三人衆」を重用せず、腰巾着の家臣だけを周りに置いて、遊興に明け暮れていた。
そこで「信長」は、再三にわたり「岐阜城」攻めを行うが、家臣の「長井利房」らの活躍もあって成就できずにいた。
だが、ここで驚くべき事件が勃発する。

それが「竹中重治(半兵衛)」を首謀とする『稲葉山城の乗っ取り事件』だ。
「織田信長」が苦戦した難攻不落の「稲葉城」を、たった1日で落とす離れ業で、「半兵衛」の名は広く知れ渡ることになった。
ただ「稲葉山城」奪取は、主君「斎藤龍興」の目を覚まさせることが目的であったため、実際には半年ほど占領した後、「稲葉山城」を「龍興」に返還している。
しかし、こんな知略に長けた人物を「信長」が放っておくはずはなく、「木下藤吉郎」に「三顧の礼」を尽くして迎えさせ、味方に引き入れた。
いっぽう「龍興」は、1567年(永禄10年)の「稲葉山城の戦い」で敗れ、ついに「信長」により城を追われる。
こうして、『我子はいずれ信長の軍門に下るであろう』と、娘を嫁がせた「斉藤道三」の予見は、13年の時を経て的中した。
もっとも…
この事件がなかったとしても、「岐阜城」がいずれは「信長」の手中に収まっていたのは確かだろう。
むしろこの一件でもっとも視界が開けたのは、なくてはならない名軍師を得た、後の「羽柴秀吉」ということになる。

出典:草の実堂
「竹中半兵衛」は、36歳の若さで病に倒れてこの世を去るが、”置き土産”として、若き「黒田官兵衛」を、自らの後釜を担う一流の軍師に育て上げている。

出典:NHK
2014年に放送された大河ドラマ「軍師官兵衛」では、「竹中半兵衛」役を「谷原章介」が、なんとも爽やかに演じていたのが、今でも強く印象に残っている。

出典:NHK
弟子にも近い「勘兵衛」が、「信長」に謀反を企てた「荒木村重」の説得に向かった「有岡城」で幽閉された際には、いつまでたっても戻らぬ「勘兵衛」までのが裏切ったと思い込んだ「信長」が、人質の嫡男を斬るよう「秀吉」に命じるが、「半兵衛」は「勘兵衛」の忠義を信じて匿い、事なきを得ている。
そこからも、自らの信念を貫く強いハートの持ち主であったことが伺える。
ただ「勘兵衛」役の「岡田准一」が、「どうする家康」では「織田信長」になって登場するのだから、見ているこちらは、なかなかアタマが切り替わらない(笑)。
「天下布武」を支えた織田信長の時代

かくして「織田信長」は、34歳で「岐阜城」を手に入れると、居城として大改修を行い、「稲葉山城」と「井の口」の地名を、中国の故事にちなんで岐阜と改めた。

岐阜城に「天守」が建てられたのは、この頃と云われているが、具体的には城内にあった大型の櫓(やぐら)を改修し、内部を書院造にしたものだったようだ。
ただ、それが後の天守の原型となり「安土城」へと受け継がれていく。

またその年の11月から、「天下布武」を刻んだ印判を使い始めたと云われているが、「岐阜城」はまさに『信長躍進の舞台となった城』で、金華山に残る参城の道を、「秀吉」や「光秀」も歩いて登り、天守からこの景色を眺めていたかもしれない。

そこからは今でも、長良川が天然の堀の役目を果たしていることがよく伺える。
ただし「信長」の死後、「岐阜城」は城主で孫の「織田秀信」が、「関ケ原の合戦」の折に西軍に組みしたため、東軍の「福島正則」や「池田輝政」らの攻撃を受けて落城し、その後「徳川家康」によって廃城となったことで、天守や櫓等は「加納城」へと移された。

そのため今は、わずかに残る石垣と井戸に、当時の面影が残るだけだ。
なお江戸時代を経て、「岐阜城」の天守は1910年(明治43年)に「岐阜城再建期成同盟」によって復興されたが、1943年(昭和18年)に焼失。

現在の天守は、1956年(昭和31々)に再再建された鉄筋コンクリート造りのもので、城内は史料展示室、最上階は展望台になっている。

ここで着目したいのは、後述する「信長」の居館跡に関する展示と映像だ。

かつては、金華山の麓にある「岐阜市歴史博物館」で上映されていたCGIによる再現映像も、2025年には天守で流されていた。
これは見ておかないと後悔することになるのだが、その理由はまもなく分かる。

さて。
金華山の山頂エリアには、「ぎふ金華山ロープウェイ(大人往復1300円)」が通じており、利用すればわずか4分で山頂駅に到着できるが、天守にはその先に石段が続いており、さらにまだ10分ほどは歩かなければならない。

ただ金華山山頂エリアは、登山者も楽しめる施設が揃っており、喫茶や食事も楽しめるようになっている。
というようなわけで、
多くの人は天守がある金華山山頂エリアだけ見て満足し、下山後に「岐阜城」を後にしていると思うのだが、日本100名城、さらに日本遺産となった「岐阜城」の本当の見どころは別にある。
行くべき場所は「岐阜市歴史博物館」

下りの「ぎふ金華山ロープウェイ」の窓から左側を見ていると、発掘跡のような場所が見えてくるのだが、実はその「千畳敷」という曲輪に、「斎藤道三」の頃に造られ、「織田信長」が大規模に造成・改修をしたとされる居館があった。
そりゃお殿様が、狭苦しい天守に住むはずはなく、かといって毎日トレーニングするわけでもなく、過酷な山道を歩いて天守に通うはずもない(笑)。

すなわちここが、先ほど『映像を見ておかないと後悔する』と記した、宣教師「ルイス・フロイス」が1569年に訪れた際に、その豪華絢爛さに目を見張り、もてなしの心に感嘆して書簡に残した、四階建ての楼閣があったと云われる場所だ。
発掘調査の結果、巨石を立て並べた入口や金箔瓦を使用した建物、さらには巨大な岩盤を背景にした庭園などが、実際にあったことが判明している。
それもあってだと思うが、金華山一帯は、2011年(平成23年)にようやく「岐阜城跡」として国史跡に指定されている。

冷静に考えれば遅いくらいの話だと思うが、現場は今も”遺跡”そのもの。
ここで『全盛期を想像して!』というほうがどうかしているわけで(笑)、往時の様子が詳しく見られる場所が、公園内の別の場所にちゃんと用意されている。

それが原始時代から現代までの岐阜の歴史を紹介する「岐阜市歴史博物館」だ。
岐阜市歴史博物館
☎058-265-0010
常設観覧料:おとな310円
9時~17時(入館は16時30分まで)
月曜 休館

とりわけ見応えのあるのが、戦国時代を生きた「織田信長」の生涯を体感できる「天下鳥瞰絵巻」で、ほかに「信長」時代の楽市の様子を一部原寸大で復元した「楽市立体絵巻」も展示されている。

城下を活性させるために課税を免除する「楽市楽座」を導入し、全国から人やものを集めた「信長」の経済政策は有名で、最盛期には44もの町があったという。
「楽市楽座」にまつわる岐阜城のエピソード

さて。
最後にその「楽市楽座」にまつわる、有名なエピソードを紹介して終わろう。
岐阜公園の「ぎふ金華山ロープウェイ」の入口近くにあるこの記念碑は、「信長」「秀吉」さらには「家康」に仕え、のちに「長浜城」「掛川城」、そして最後は土佐の「高知城」の主へと出世を遂げた武将、「山内一豊」の妻「千代」の「内助の功」を後世に伝えている。
千代の鏡と一豊の出世(転記)
「千代」が「一豊」に嫁ぐ際「夫の大事に初めて之を使うように」と言い含められ鏡箱に金十枚を忍ばせ持参した。
貧しい暮らしながらも千代は決してその隠し金を使わなかった。
ある日、市に出された名馬に一豊は釘付けになる。
値は誰も手が出せない金十枚、千代は隠し金を一豊に差し出しついに一豊は名馬を手に入れる。
信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台、信長から名馬とその心構えを讃えられ一豊は出世を掴む事になる。
実は2006年放送と少し古いが、「一豊」と「千代」の人生を描いた、45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」・第21話「開運の馬」の中で、そのシーンが詳しく描かれており、以下のページでその映像のさわりをご覧いただくことができる。

出典:NHK
「功名が辻」は、「司馬遼太郎」の同名小説を原作に、脚本を「大石静」が担当し、「ごくせん」で大ブレークした当時26歳の「仲間由紀恵」が、大河ドラマ史上最年少でヒロインの「千代」役を、「上川隆也」が「山内一豊」役を演じたことで話題を呼んだので、記憶にある人も多いのでは。

「千代」は同じ岐阜県の郡上八幡出身で、「郡上八幡城」の入口にも「馬揃えの逸話」のモニュメントが建てられている。

また「高知城」にも、同様の記念碑が建てられている。
こうして見ると、逸話の波紋はどこにどう広がっていくか分からない。
というより、いかに大河ドラマが話題作りに通じているかを示す、いい手本ということかもしれない。
ちなみに、”内助の功”で有名な「千代」には、この『千代の鏡』ともうひとつ、『笠の緒の密書』という逸話もある。
これについては、以下のサイトがいちばんうまく説明できているので、リンクさせていただこう。
あとは、”土佐つながり”でもうひとつ。

時の自由党の総理で、自由民権運動のリーダーとされる「板垣退助」の名言、『板垣死すとも自由は死せず』は、くしくも1882年(明治15年)に、この「岐阜城」で暴漢に襲われた際に発せられた言葉だ。
日本中に名城は数々あれど、これほどトリビアやエピソードを多く持つ城も珍しい。
岐阜城の駐車場&アクセスマップ

可能であれば、2025年4月26日にオープンした「岐阜城楽市」に隣接する、この「岐阜公園駐車場(大宮町駐車場)」を狙うのがベストだ。
ただし、週末なら9時まで、平日でも10時には満車になる可能性が高いので、ある意味「運次第」になると思う。
ここからなら、「ぎふ金華山ロープウェイ」乗り場まで、歩いて5分ほどで行ける。
岐阜公園駐車場
乗用車 50台
乗用車1台 310円(1時間までは無料)
8時30分~21時

出典:岐阜市観光ナビ
ただ、広大な岐阜公園には、有料の観光駐車場が数ヶ所用意されており、長良川沿いには無料の「鏡岩駐車場」もあるので、どこかには停めることができると思う。

また長良川沿いにも観光スポットがあり、有名な鵜飼も川岸から観ることが可能だ。
皇室御用達の「長良川鵜飼」は、「織田信長」が大事な客人の”おもてなし”に利用したほど風情のある伝統漁法で、時間があれば本当にお勧めだ。
ということで、その後の車中泊を含めた詳しい情報を、以下の記事にまとめている。
岐阜県 車中泊旅行ガイド




















