新島襄 ゆかりの地とその生涯

旧新島邸 八重の桜
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この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
クルマ旅専門家・稲垣朝則の主な著書
車中泊の第一人者と呼ばれる稲垣朝則が、これまで執筆してきた書籍・雑誌と出演したTV番組等の紹介です。
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同志社大学の生みの親

出典:NHK

新島襄と聞いて、この顔を思い浮かべた人は大河ドラマの見過ぎだ(笑)。

我々が高校生だった頃は、日本三大私学と呼ばれる福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の早稲田、そして残る同志社大学を設立した人物として、日本史の教科書にも載っていたが、今も出ているかどうかはわからない。

代わりに、オダギリジョーが演じた「ジョー」を日本中に知らしめてくれたのが、2013年に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」だ。

学生時代にこの景色を毎日のように見てきた筆者にとって、「新島襄」はある意味、身近過ぎてそれほど興味のある存在ではなかった。

この記事を書くきっかけになったのは、やはり「八重の桜」だ。加えて全国を旅するようになり、その足跡を見る機会に恵まれたのも大きい。

ここでは”先生”ゆかりの地とともに、その生涯を簡単に紹介していこう。

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群馬県安中市
新島襄旧宅

最初は群馬県の安中(あんなか)に残る「新島襄旧宅」から。 
ここは伊香保温泉から軽井沢に向かう途中にたまたま安中市内を通り、道端に立つ「八重の桜ゆかりの町」というのぼりで、その存在に気がついた。

新島襄は天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で生まれた。本名は七五三太(しめた)。

大河ドラマでは後々の展開に合わせて、まだ彼が少年の時に早々と山本覚馬、川崎庄之助との出会いを演出、うまい伏線を敷いていた。もちろん、そのあたりは脚色だろう。

というわけで、この家は新島襄の生家ではなく、廃藩置県後に江戸屋敷を引き払った両親が住んでいた建物を移築したもの。ここで帰国後、家族は再会を果たしている。

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函館市
新島襄ブロンズ像

新島襄は元服後、幕府の軍艦操練所で洋学を学び、アメリカへの強い憧れを抱く。そして1864年(元治元年)、ついに函館から密航を決行する。

このブロンズ像もまた、函館で金森レンガ倉庫のあたりを歩いている最中にたまたま見つけた。函館から海を渡ったことは知っていたが、まさかその地に記念碑があろうとは思わなかった。

ボストンでは密航船の船主・ハーディー夫妻の援助を受け、フィリップス・アカデミーに入学。その後アマースト大学を卒業し日本人初の理学士となる。

アマースト大学では、「青年よ大志を抱け」でお馴染みのクラーク博士から化学の授業を受けていたというが、この縁で後にクラーク博士が来日することとなったというのだから面白い。

また、当初は密入国者として渡米したにもかかわらず、初代の駐米公使・森有礼によって、正式な留学生として認可される。そしてアメリカ訪問中の岩倉使節団との面会。襄の語学力に目をつけた木戸孝允の力添えにより、今度は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、使節団の報告書ともいうべき「理事功程」を編集した。

その後、宣教師の試験に合格し、日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、アメリカンボードから5,000ドルの寄付の約束を取り付けて、日本に帰国する。

こうしてみると、確かに新島襄の運の強さには目を見張るものがある。見方を変えれば「主に導かれた神がかり的な人生」とも思えるほどだ。

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京都市
同志社大学・今出川キャンパス

さて。同志社大学の設立も、けして平坦な道ではなかった。

だが、ここでも救世主が現れる。学校設立の大きな後ろ盾となってくれたのは、元会津藩士の山本覚馬だ。後に新島襄と結婚する大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン・八重は、山本覚馬の妹である。

ところで。同志社大学の今出川キャンパスが建っているのは、かつての薩摩藩邸の跡地であることをご存知だろうか。

ここで西郷隆盛と大久保利通、さらに桂小五郎、坂本龍馬らが膝を突き合せ、薩長同盟の草案を練ったともいわれている。

明治維新後、その跡地を所有したのが山本覚馬で、それを「義理の弟」新島襄に譲り、同志社大学が誕生した。

しかし歴史を振り返ると、会津と薩摩は戊辰戦争を戦った敵と味方のはず…

実は、山本覚馬は「蛤御門の変」で目を負傷し、失明の危機に瀕していた。そのせいで、鳥羽伏見の戦いの途中に薩軍に捕まり捕虜となる。

しかし幽閉中にまとめた、政治・経済・教育等22項目にわたって将来の日本のあるべき姿を論じた建白書「管見」が、西郷隆盛と小松帯刀の目に留まって釈放され、逆に京都大参事を任された元薩摩藩士・槇村正直を補佐する京都顧問に就任する。

こうして培われた山本覚馬と旧薩摩藩主導の新政府との信頼関係が、新島襄に大きなフォローの風となった。ちなみに「同志社」のネーミングも、山本覚馬によるものだ。

京都市
新島襄旧宅

京都御苑の東南、寺町通丸太町に位置するこの邸宅の敷地は、1875年に同志社英学校が開校した土地で、「同志社発祥の地」とされている。

英学校は翌年に旧薩摩藩邸跡地に移転したため、新島襄は跡地に自宅を建設した。1890年に新島襄が死去したのち、八重はこの家で1932年に没するまで生活した。

なお、邸宅の見学は同志社の学生と卒業生以外でも可能だ。

見学申し込み方法と詳細は公式サイトで。

京都市
新島襄墓所

新島襄が眠っているのは、左京区鹿ケ谷若王子山町にある同志社墓地。ちなみに墓碑銘は、勝海舟の筆による。

ここには創立者新島襄をはじめ、妻の新島八重や山本覚馬、徳富猪一郎(蘇峰)、ほか同志社関係の宣教師たちが埋葬されている。

新島襄は、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養するが回復せず、1890年(明治23年)1月23日、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。

死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。享年48歳であった。

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