この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、日本全国で1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、「車中泊ならではの歴史旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
高石垣を得意とする固い守りが特徴
藤堂高虎【目次】
藤堂高虎のプロフィールをサクッと紹介
藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。
何度も主君を変えた戦国武将ゆえに、その生涯を要領のいい人物として面白おかしく描く者もあるが、何より築城技術に長け、宇和島城・今治城・伊賀上野城・二条城など数々の名城手掛けたことから、黒田孝高(勘兵衛)、加藤清正とともに築城の名手として語り継がれている。
高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
藤堂高虎の年表
1556年(1歳)
近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)の土豪・父虎高の二男として誕生
1570年(15歳)
浅井長政に足軽として仕え、姉川の戦いで初陣(のち阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えたあと浪人生活を送る)
1576年(21歳)
羽柴(豊臣)秀長に、300石で召し抱えられる
1587年(32歳)
紀伊粉河領主として2万石の大名となる
1591年(36歳)
主君・秀長が没し、後継者豊臣秀保の後見人となる
1595年(40歳)
秀保死没後、高野山へ隠遁。豊臣秀吉に召喚され還俗し、伊予国板島7万石の領主となる
1598年(43歳)
豊臣秀吉死去につき徳川家康に仕える
1600年(45歳)
関ヶ原の戦いに参戦
1608年(53歳)
初代津藩主となる。伊予と合わせて22万3,950石となる
1615年(60歳)
大坂夏の陣に従軍
1617年(62歳)
知行32万3,950石の大大名となる
1630年(75歳)
江戸の藤堂藩邸で死没
藤堂高虎が関わったとされる主な城
※赤文字は筆者が訪ねたことのある城
出石城(1583年、天正11年)
大和郡山城(1585年、天正13年)
和歌山城(1585年、天正13年)
京都聚楽第(1586年、天正14年)
粉河城(1587年、天正15年)
赤木城(1589年、天正17年)
伏見城(1594年、文禄3年)
宇和島城(1596年、慶長元年)
伊予大洲城(1597年、慶長2年)
順天倭城(1597年、慶長2年)
膳所城(1601年、慶長6年)
甘崎城(1601年、慶長6年)
灘城(1601年、慶長6年)
今治城(1602年、慶長7年)
伏見城(1602年、慶長7年)
江戸城(1606年、慶長11年)
津城(1608年、慶長13年)
伊賀上野城(1608年、慶長13年)
丹波篠山城(1609年、慶長14年)
丹波亀山城(1610年、慶長15年)
二条城(1619年、元和5年)
和歌山城(1619年、元和5年)
大坂城(1620年、元和6年)
淀城(1623年、元和9年)
藤堂高虎の名城に関する筆者の記事
※築城・改修年度とは順不同