春の東海取材旅2 名古屋/2020.6<2020車中泊コースガイド秋冬>

桶狭間古戦場公園 三重県の忘備録
「正真正銘のプロ」がお届けする車中泊旅行ガイド
この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、原稿作成のためのメモ代わりに書き残してきた「忘備録」を、後日リライトしたものです。
クルマ旅専門家・稲垣朝則の主な著書
車中泊の第一人者と呼ばれる稲垣朝則が、これまで執筆してきた書籍・雑誌と出演したTV番組等の紹介です。
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「戦国の三傑」ゆかりの地を深堀りしに行く

名古屋城

もう3年もすれば、♪そんな時代もあったねと♪…

になってくれることを祈りたいが、2020年の春に世界を恐怖に貶めた、新型コロナウイルス感染防止のための緊急事態宣言が、ようやく5月末で解除され、以降これが2度目の取材旅になる。

車中泊コースガイド

今回の旅は、今年8月末に発売予定の「2020・全国車中泊コースガイド秋冬号」執筆のための再取材で、本来なら3月に行う予定だったが、新型コロナウイルスのおかげで予定が大きく狂い、季節は初夏になってしまった。

そのため先に執筆を済ませ、足りない画像の撮影と執筆内容の確認をすべくやってきたというわけだ。

このエリアについては、2017年に発売した「日本一周・車中泊コースガイド」と、2015年に発売したカーネル本誌の26号に掲載しており、既にあらかたの材料は揃っているが、「テーマ」が変われば載せたい場所は違ってくる。

もちろん数多あるウェブ上のガイドのように、現地に行かなくても書こうと思えばできないわけではないだろうが、筆者には現代の目の超えた旅行者に、そんな小手先が通用するとは、とてもじゃないか思えない(笑)。

たとえ写真が載らなくても、書いた人間が現場を本当に見ているかどうかは、文章から透けて見える… 今はそういう時代なのだ。

善照寺砦

この写真はそのその典型だと思う。

大河ドラマ「麒麟が来る」をご覧の方は記憶に新しいと思うが、信長は桶狭間の合戦直前に、各陣地からここに兵を集結し、今川勢の数と配置を最終確認するとともに、敵にもここに「本陣を張る」と見せかけた。

桶狭間山

当時の善照寺砦からは、家康が入った大高城と、義元がいる桶狭間山がよく見えたというが、宅地開発されている現在は、正面に「おけはざま山」が何とか確認できる程度だ。

桶狭間の合戦

こういう詳細な歴史解説が現地に記されるようになった背景に、「大河ドラマ」があるのは明らかだ。

地元の行政だけではできない環境整備に、「受信料」と名のつく「准税金」が投下されたことで、新たな観光名所に化けた史跡は数知れない。

かくいう筆者も先々週の「麒麟が来る」を見て、善照寺砦の存在を知ったわけで、その意味からいえば取材が遅れたことはラッキーだった。

桶狭間古戦場公園

2010年に作られた「桶狭間古戦場公園」は、上の戦いの舞台をジオラマにしたユニークな史跡で、まさに今川義元が討ち取られた場所にある。

かつて筆者がボンゴ・フレンディーでこの地を通った時には、「桶狭間」という書かれた道路標識しかなかったのだから、いやはや驚くしかない(笑)。

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桶狭間の次に向かったのは名古屋城。

名古屋城

実はこの壮大な天守は、耐震性の問題から2018年のゴールデンウィーク以降は立ち入りが禁止されており、2020年6月現在も中は見られない。

名古屋城

もちろん筆者はそうなる前に、ちゃんと「城内」を押さえているが(笑)、現在のコンクリート天守は、太平洋戦争の空襲で1945年(昭和20年)に焼失し、筆者が生まれた1959年(昭和34年)に再建されたもので、現代の耐震基準を満たせていない。

ここからは推測だが、耐震工事には想像以上のお金がかかり、それならいっそ昔通りに木造で作り直そうということになったのだろう。これぞまさしく「還暦」だ(笑)。

計画では2022年12月に木造天守閣が竣工するまで4年半、天守に登ることができず、うち数年間は金鯱を戴くその雄姿を仰ぎ見ることもできなくなるらしいが、その計画も一連のコロナ騒動で見直される可能性が出てきたようだ。

云えるのは、今ならまだその姿が見られるということ。たとえオリジナルでなくても、史跡は消えて失くなった時から、写真に価値が宿る(笑)。

名古屋城

ただ逆に、天守の中が見られた時には「見られなかった場所」に今は入れる。

名古屋城本丸御殿

それがこの「本丸御殿」。

どの部屋にも息を呑むような屏風絵が描かれているのだが、一際目立つのはこの「上洛殿」の装飾だろう。金箔の効果は、肉眼よりも写真のほうがよく分かる。綾瀬はるかチックに云うと、カメラやビデオなるもののなかった時代に、この見た目の立体感を想像できたなんて、作者は本当に素晴らしいイマジネーションの持ち主だったに違いない。

加えて、こんな贅沢極まりないことをしでかす将軍様と云えば、二条城や日光東照宮を造営した「徳川家光」しかいまい!

そう思った通り、やはりここは彼の「御成御殿」として造られたものだった。

さすがは家康と信長の血を引くサラブレッド、生粋のプリンスであらしゃいますな~(笑)。

だが、筆者が名古屋城に再度足を運んだ真の目的は別にある。

那古野城

一説によると信長は、ここ「那古野城」で生まれた可能性が高いとされているが、「麒麟が来る」で斎藤道三の娘・帰蝶が嫁いできたのは、現在の名古屋城の「二の丸広場」にあったこの城だった。

江戸時代初頭に築かれた名古屋城だけに、信長との関連があろうとは思いもしないのだが、尾張名古屋は想像以上に「狭かった」(笑)。

小牧山

さて。この日最後に足を運んだのは小牧山。

小牧山城

この山城は、近代城郭の常識を変えたのは「安土城」という定説を覆す、驚きの石垣が発掘されたことで一躍歴史舞台に躍り出る。

実は14世紀から17世紀に至る300年の間に、日本の各地には3~4万ともいわれる城が築かれたというが、それらはすべからく土木施設で、石垣はほとんど用いられていないそうだ。
小牧城
小牧山城をきっかけに、信長は石垣に加えて瓦や礎石も導入し、それまでとはまったく異なる城郭を築いていくのだが、この城にいたのはわずか4年…

まあ、ここもまもなく始まる「麒麟が来る」では、何らかのかたちで登場するに違いない。

小牧山

しかし麓の北駐車場から、山頂にある「歴史館」までは、なかなかにきつい山登りだった。

今日はこの後、岐阜の道の駅柳津まで移動して泊まり、明日はいよいよ「帰蝶の実家」で、「天下布武」の礎となった岐阜城へと向かう。

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