築城の名手「藤堂高虎」のプロフィールと、ゆかり城をめぐる旅

今治城と藤堂高虎 後世に語り継ぎたい日本人

車中泊旅行歴25年のクルマ旅専門家が、築城の名手と謳われた「藤堂高虎」のプロフィールと、日本各地に残るゆかりの城をクルマ旅でめぐる情報を紹介しています。

「正真正銘のプロ」がお届けする、リアル車中泊歴史旅行ガイド

巌流島

この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」がまとめた、「一度は訪ねてみたい日本の歴史舞台」を車中泊で旅するためのガイドです。

※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

 

~ここから本編が始まります。~

高石垣を得意とする「藤堂高虎」の理念は、固い守りで敵の侵攻を防ぎ、『領地をうまく治めるための城』づくり

大阪城 高石垣

築城の名手「藤堂高虎」のプロフィールと、ゆかり城をめぐる旅

藤堂高虎のプロフィール

藤堂高虎が関わったとされる主な城

藤堂高虎の名城を車中泊で訪ねた筆者の記事

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藤堂高虎のプロフィール

藤堂高虎

「藤堂高虎」は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。

何度も主君を変えた戦国武将ゆえに、その生涯を要領のいい人物としておもしろおかしく描く者もあるが、何より築城技術に長け、生涯で20を超える数々の名城に携わったことから、「黒田孝高(勘兵衛)」「加藤清正」とともに築城の名手として語り継がれている。

藤堂高虎の足跡

姉川古戦場

1556年に近江国(現在の滋賀県)の土豪「藤堂虎高」の次男として誕生した「高虎」は、当初は「浅井長政」に仕え、1570年の「姉川の戦い」で初陣を果たすと、若くして武功を重ねて出世する。

しかし、同僚を斬り捨ててしまったことで出奔を余儀なくされ、その後は短期間のうちに次々と主君を変えながら、流転の日々を過ごした。

契機となったのは、1576年に「羽柴秀吉」の弟「秀長」に仕官できたこと。

「秀長」のもとで多くの武功を立てて名を上げた「高虎」は、足軽大将・鉄砲大将などを歴任したのち、1585年に紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)に約1万石の所領を得る。

和歌山城

さらに「秀長」から「和歌山城」の普請奉行に任じられ、見事その大役を果たした。

1591年に「秀長」が死去すると、後継者「豊臣秀保」の後見人となるが、その4年後に「秀保」もこの世を去り、「高虎」は出家する。

大洲城

しかし、その才能をよく知る「豊臣秀吉」から要請を受けて還俗(げんぞく)し、直臣に取り立てられると、1595年に四国の伊予国に領地を与えられ、領内に「大洲(おおず)城と「宇和島城」を建造し、築城の名手としての名を上げていった。

しかし1598年に「豊臣秀吉」が亡くなると、「高虎」は「加藤清正」や「黒田長政」らとともに、「豊臣」を見限り「徳川」へと流れた。

今治城

「関ヶ原の戦い」での働きが評価された「高虎」は、20万石の加増を得て、同じ四国の伊予の地に、新たな本拠地として、瀬戸内海を間近に望む「今治城」を築き、瀬戸内海の開運支配に乗り出した。

今治城

加えて「高虎」は、「今治城」でこれまで培ってきた独自の築城技術を確立する。

その代表例が天守の構造で、それまでの主流だった「望楼型天守」に代わり、広くて建てやすく、工期の短縮と工費の削減に適した「層塔型天守」を導入し、城郭の建築様式に革命を起こしている。

さらに「層塔型天守」の建築法を規格化したため、以降の国内の城の天守は「層塔型」が主流となった。

「高虎」はその後、「江戸城」や「徳川大阪城」などの普請に参加しているが、いずれも「徳川家康」の意向を受けたもので、築城技術を評価されていただけでなく、人間的にも深い信頼を得ていたという。

晩年は自領だけでなく、他藩の後見人なども歴任し、1630年に亡くなるまで、築城や内政面で江戸幕府を支え続けた。

藤堂高虎の年表

1556年(1歳)
近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)の土豪・父虎高の二男として誕生

1570年(15歳)
浅井長政に足軽として仕え、姉川の戦いで初陣(のち阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えたあと浪人生活を送る)

1576年(21歳)
羽柴(豊臣)秀長に、300石で召し抱えられる

1587年(32歳)
紀伊粉河領主として2万石の大名となる

1591年(36歳)
主君・秀長が没し、後継者豊臣秀保の後見人となる

1595年(40歳)
秀保死没後、高野山へ隠遁。豊臣秀吉に召喚され還俗し、伊予国板島7万石の領主となる

1598年(43歳)
豊臣秀吉死去につき徳川家康に仕える

1600年(45歳)
関ヶ原の戦いに参戦

1608年(53歳)
初代津藩主となる。伊予と合わせて22万3,950石となる

1615年(60歳)
大坂夏の陣に従軍

1617年(62歳)
知行32万3,950石の大大名となる

1630年(75歳)
江戸の藤堂藩邸で死没

藤堂高虎が関わったとされる主な城

伊賀上野城

※赤文字は筆者が訪ねたことのある城

出石城(1583年、天正11年)
大和郡山城(1585年、天正13年)
和歌山城(1585年、天正13年)

京都聚楽第(1586年、天正14年)
粉河城(1587年、天正15年)
赤木城(1589年、天正17年)
伏見城(1594年、文禄3年)
宇和島城(1596年、慶長元年)
伊予大洲城(1597年、慶長2年)
順天倭城(1597年、慶長2年)
膳所城(1601年、慶長6年)
甘崎城(1601年、慶長6年)
灘城(1601年、慶長6年)
今治城(1602年、慶長7年)
伏見城(1602年、慶長7年)
江戸城(1606年、慶長11年)
津城(1608年、慶長13年)
伊賀上野城(1608年、慶長13年)
丹波篠山城(1609年、慶長14年)
丹波亀山城(1610年、慶長15年)
二条城(1619年、元和5年)
和歌山城(1619年、元和5年)
大坂城(1620年、元和6年)
淀城(1623年、元和9年)

藤堂高虎の名城を車中泊で訪ねた筆者の記事

※築城・改修年度とは順不同

今治城

大洲城

宇和島城

伊賀上野城

徳川大阪城

二条城

伏見城

和歌山城

淀城

出石城

 

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