この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。
山崎蒸溜所は、竹鶴政孝(マッサン)が建てた、日本で最初のウイスキー工場
本論に入る前に、この「サントリー山崎蒸溜所」を建て、国産初のモルトウイスキーを作ることに成功した、マッサンこと竹鶴政孝の話から始めたい。
2014年9月から翌年の3月まで放送されたNHKの朝ドラ「マッサン」は、ニッカウイスキーの創始者「竹鶴政孝」とその妻「リタ」の物語だ。
玉山鉄二とシャーロット・ケイト・フォックスの好演に加え、生家のある広島、苦労を重ねた大阪、そして夢を叶えた北海道が舞台になったことから視聴者のエリアが広がり、平均視聴率21.2%と「あまちゃん」を上回る人気を博した。
筆者はクルマ旅のコンテンツのひとつに、映画やドラマの「ロケ地めぐり」を掲げている。とりわけ多く紹介しているのは「大河ドラマ」だが、それにはちゃんとした理由がある。
ロケ地めぐりは、「実話」だからこそ面白い!
さて、本題に進もう。
実は「サントリー山崎蒸溜所」を訪ねても、竹鶴政孝どころか、ドラマ「マッサン」に関する表記は全く見当たらない。というか、むしろ事実を巧妙に置き換えていると云っても過言ではない気がした。
以下はウィキペディアからの引用だが、内容はほぼドラマ「マッサン」で描かれていた通りである。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画。社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得た。
鳥井は以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、竹鶴とも数度面会したことがあった。鳥井は竹鶴を年俸四千円という破格の給料で採用した。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われる。同年6月、竹鶴は寿屋に正式入社。
竹鶴は、製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。
竹鶴は大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から山崎を候補地に推した。
工場および製造設備は竹鶴が設計した。
特にポットスチルは同種のものを製造したことのある業者が国内になく、竹鶴は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えた。
1924年11月11日、山崎蒸溜所が竣工し、竹鶴はその初代所長となる
<中略>
ただし、この蒸溜所は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小さい工場であった。竹鶴は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。
<中略>
鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎蒸溜所は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示。
出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した竹鶴だが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意する。
1929年4月1日、竹鶴が製造した最初のウイスキー『サントリー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売される。しかし、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず
<中略>
販売は低迷した。
さて、問題はここからだ。
サントリーのサイトには、「サントリー山崎蒸溜所は1923年サントリーの創業者、鳥井信治郎が建設した」と書かれ、山崎蒸溜所のパネルには、鳥井信治郎が初代マスターブレンダーとして紹介されている。
サントリーも大企業になれば、「古事記」みたいに都合の悪い過去を歪めるのかと思うと悲しくなるが(笑)、もし社長本人が生きていれば、そんな話は望みもしないと思う。
サントリーに携わる人間なら、ハイリスクを承知の上で竹鶴政孝にチャンスを与え、日本製のウイスキーを初めて世に送り出しただけでも十分といえる功績だし、厳しい社会情勢の中でやむなく「売れる酒」作りに方針を転換したことも、企業であれば当然のことと胸を張ればいい。
「竹鶴は本物のウイスキーを作り、鳥居はそれをベースに売れるウイスキーを作った」。それが真実であり、それで良いではないか。
痛快なのは、その真実をサントリー宣伝部に代わって世に知らしめてくれたのが、朝ドラの「マッサン」であるということだ。
当時はまだこんな桜並木がなく、霧のかかる日が多かったというこの地を見つけ、そこに工場を建てて、ひたすらウイスキーづくりに打ち込んだマッサン。
ドラマの視聴者は、そんな熱意に満ちたマッサンの姿が瞼に思い浮かべられることを期待しながらこの地にやってくる。
現在の山崎蒸溜所は、シングルモルト「山崎」の開発に力を入れているようだ。「響」とあわせて、高級志向の顧客層を狙っているのだろう。
ちなみに、シングルモルトの「シングル」とは単一蒸溜所の原酒を意味し、「モルト」は発芽させた大麦を主原料とするウイスキーのこと。皮肉にもベースはマッサンが山崎で行ってきたウイスキー造りそのものだ。
つまり、サントリーにおける竹鶴の存在と功績を認めてしまうと、それが現在にまで通じていることになる。逆に竹鶴の存在を「なかったもの」にしてしまえば、全ての功績が鳥井信治郎から始まったことにできるわけだ。
ゆえに「日本のウイスキーづくり」という大局に立てず、貧素なプライド意識から小賢しく事実を歪めた展示内容には、強い違和感と憤りを感じざるを得ない。それになにより「カッコ悪い」。
国産第一号のウイスキー「白札」が売れなかった最大の理由は、作り方が悪かったのではなく、熟成期間が足りなかったことにある。鳥井信治郎はそのことをよくわかっていたが、最後まで竹鶴を養護するだけの資本力がなかった。
そのため彼が責任を追うかたちでサントリーを去る際に、ドラマでは高額な餞別を渡している。そしてそれは後にニッカ創設資金の一部として活かされる。
ちなみに竹鶴がサントリーを去った後に、現在の「角瓶」の大元にあたる「サントリーウヰスキー12年」が爆発的なヒット商品となるのだが、それは竹鶴によって生み出された後、貯蔵庫で十分な熟成期間を経た原酒がブレンディングベースになっている。
こんな話ができるのは、ニッカウイスキーではあるまいに…
見学施設は工場というより「研究室」。東京ライクで、なんとも知的に見えるが、凡人にはなんのことだかわからない(笑)。
試飲は有料。どのみちクルマ旅では飲めないので関係ないが(笑)、さすがはサントリーだけあって、他とはインパクトが違う。
たった15ミリリットルで2900円もするお酒とはいかなものか。それがためらいなく味わえる身分になったら、この地を再び訪ねてみたい(笑)。
サントリー山崎蒸溜所
〒618-0001 大阪府三島郡島本町山崎5丁目2−1
☎075-962-1423