この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、全国各地からセレクトした「クルマ旅にお勧めしたい100の旅先」の中のひとつです。
※ただし取材から時間が経過し、当時と状況が異なる場合がありますことをご容赦ください。

消えた? 出雲王国

「古事記」に記されている日本神話のうちの、なんと1/3が「出雲」を舞台に描かれていることをご存知だろうか?
「スサノオ」「ヤマタノオロチ」「因幡の白兎」「オオクニヌシ」「国譲り」など、日本人ならよく知るこれらの単語は、全て「出雲神話」に登場する。
いまさら「神話」が作り話であることを誰も否定はしないと思う。
ゆえに、そのストーリーに興味を持つ「大人」が少ないのは当然だ。
ただ神話が、「何のために」「誰のために」書かれたのか… となると話は別。
少し調べれば、それが文学や芸術、あるいはエンターテイメントではなく、背後にもっと政治臭い意図があったことが見えてくる。
そこで一度、出雲から「神話」を剥がしてみたい。
考古学上、出雲に古代文明が存在したことは明らかだ。
1980年代から1990年代にかけての遺跡発掘調査で、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。
荒神谷遺跡:358本の銅剣と16本の銅矛(どうほこ)
加茂岩倉遺跡:39個の銅鐸(どうたく)
とりわけ荒神谷遺跡で見つかった358本もの銅剣は、それまでの日本全国の出土総数300本余りを上回るもので、弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となった。
特筆すべきは、出雲の青銅器は武器や楽器ではなく、祭祀の装飾品として用いられていたことだ。
このことは、後に重要な意味を紐解く鍵になる。
また出雲市大津町にある「西谷墳墓群」からは、弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。
特に写真の「よすみ」と呼ばれる「四隅突出型墳丘墓」は、九州から東北地方にいたるまで広く分布する「前方後円墳」に対して、出雲地方を中心とした日本海側にしか存在しない。
しかも墳丘墓側面に貼り石を貼りめぐらし、規模は「前期古墳」の規模に近づくなど、古墳時代以前の墓では、もっとも顕著な土木技術が駆使されているという。さらに驚くべきは、それを「規格化」できていたことだ。
それからすると、「ヤマト王権」「邪馬台国」よりも少し前の時代から、強大な「出雲王権」が成立していたという事実が浮かび上がる。
これは「発掘」に基づく検証なので、まず確かな話だろう。
だが、その後「出雲王権」はどうなったのか? 曖昧なのはここから先だ。
結論から先に書くと、インカ帝国のごとく「消滅」してしまった(笑)。
しかし「出雲王権」の場合は、その過程が今も謎のままだ。
それはまさに「邪馬台国」から「ヤマト王権」にいたる間の、「日本の歴史」が解明できないのと同じで、決め手となる遺跡や発掘物が未だ出てきていないことに起因している。
日本の古代史を客観的に見る限り、現在判明しているのは、以下のページに記したことだけしかない。
ただ、「推理」を進める材料がないというわけではない。
それが「古事記」「日本書紀」そして「出雲風土記」に残る「神話」だ。
つまり、ここで話は振り出しに戻る。



