この記事は、車中泊関連の書籍を10冊以上執筆し、1000泊を超える車中泊を重ねてきた「クルマ旅専門家・稲垣朝則」が、現地取材を元に「車中泊ならではの旅」という観点から作成しています。
大陸との交流を辿れば、日本が見えてくる。
北九州の「宗像大社」・「太宰府」・「吉野ヶ里歴史公園」、また南九州の「高千穂」・「霧島」を訪ねたい人に、復習しておくといい日本の歴史と大陸との交流状況をダイジェストで紹介しよう。
これを読んで行くだけでも、間違いなく現地での印象は変わる!
<目次>
石器時代・縄文時代
大陸とヒト・モノの移動はあったが、「外交的な交流」は弥生時代以降とされる。
弥生時代 – [紀元前300年頃 ~ 250年頃]
稲作農耕社会が進み、各地にクニが誕生。
資源や技術などを積極的に大陸に求めようとする集団が、弥生時代後期から古墳時代にかけて登場する。
中国の古文書「魏志倭人伝」に記録が残る「邪馬台国」は、そのクニの連合国家のひとつとされるが、当時の日本にまだ文字がなく、詳細はわからない。
弥生時代700年間の変遷を復元し、現代に伝えているのが佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」で、日本の古代史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっている。ここを邪馬台国跡とする説もあるが、確固たる証拠はまだ見つかっていない。
古墳時代 [250年頃 ~ 600年代の末頃]
古墳時代は、前期・中期・後期の3つにわけられる。
前期は、「邪馬台国」が消滅し「ヤマト王権(大和朝廷)」が誕生する動乱の時代だが、その過程は実態がつかめないまま現在に至っており、西暦266年~413年は「空白の4世紀」と呼ばれている。
発掘調査で解明されているのは、3世紀後半に前方後円墳・円墳・方墳などの古墳が作られ、特に巨大な古墳が奈良県の大和から大阪府の河内に集中しているということ。
そこから、奈良を中心に少なくとも近畿地方一体を支配する強大な政権があったことが推測され、その政権を学術上「ヤマト政権」と呼んでいる。
また古墳の分布から、4世紀中頃までに「ヤマト政権」による支配が、九州北部から東北地方の南部にまで広がっていったと考えられている。
「大王(おおきみ )」と呼ばれたリーダーは、現在の天皇家の創始にあたる神武天皇とされているが、神武天皇が「実在人物」かどうかは今なお不明。
4世紀末になると大陸との交流が活発化し、5世紀はじめに百済から漢字と仏教が伝来する。
この時代の「ヤマト政権」の航海安全を祭祀したのが、2017年に世界文化遺産に登録された「沖ノ島」だ。
祭祀跡から発掘された土器などから、当時の日本と大陸の交流と、祭祀の実態が解明された。
推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となる頃から「ヤマト政権」は安定期を迎え「国家」としての整備が急ピッチで進む。
ややこしいが、古墳時代の後期にあたるこの時代は、別名「飛鳥時代」とも呼ばれている。
飛鳥時代 – [592年 ~ 710年]
奈良の明日香に都があった時代で、前半は蘇我馬子と手を組んだ聖徳太子が他の豪族を抑え、「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定。
着々と中央集権国家体制の基礎を固めていく。
しかし622年に聖徳太子が死去すると、蘇我一族の専横が始まり、645年に「乙巳の変(いっしのへん)※昔で云う大化の改新」が勃発。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我入鹿・蘇我蝦夷を殺害し、クーデターは成功する。
この革命により孝徳天皇が即位し、「大化の改新」が前進。都は大阪市の難波へ遷都された。
663年、大陸で親交のあった「百済」が攻められ、その救援に加勢した白村江(はくすきのえ)の戦いが勃発する。
しかし唐・新羅連合軍との戦いに敗れ、倭国も国亡の危機を迎える。
朝廷は唐軍の上陸攻撃に備え、現在の福岡県に大宰府を設置。
さらに西日本各地に山城を築き、防人(さきもり)を配備した。また都を港から離れた近江の大津宮に遷都するが、結果的に戦は起こらず危機は去った。
672年、古代史上最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱」が勃発。
大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子による皇位継承の争いに大海人皇子が勝利し、天武天皇が誕生する。
その後、天武天皇は後に持統天皇となる妻とともに、唐の文化に依存しない新たな国づくりを進める。
それまでの「倭」から「日本」に国名を改め、天皇宣言を行うなど、その業績は多岐に及んでいるが、特筆すべきは「古事記」と「日本書紀」の編纂だ。