ことわざの「敵に塩を送る」は、川中島の合戦に端を発する故事に由来
いくら歴史に興味がなくても、戦国時代に上杉謙信と武田信玄が信濃の覇権をかけて激突した「川中島の合戦」をまったく知らない人はいないと思う。
実は「川中島の合戦」は5度にわたって繰り広げられているが、写真の上杉謙信と武田信玄の大将一騎打ちになったのは4度目の合戦時で、その時の様子は「三太刀七太刀」と語り継がれている。切りつけているのが戦の神様とも呼ばれる上杉謙信だ。
さて。「敵に塩を送る」という諺が、この「川中島の合戦」での故事に由来していることをご存知だろうか…
ちなみに敵に塩を送るは、「たとえ敵でも苦境の時は助ける」、あるいは「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味で使われる。
激戦となった第4次川中島合戦の後、海津城(後の松代城)城代であった高坂弾正は、6千体とも呼ばれる屍を、敵味方の区別することなく丁重に葬ったそうだ。
古戦場に残る首塚はその跡とされるが、義に厚い上杉謙信は、敵味方を問わないその行為にいたく感動し、後年に今川家が武田家に対して「塩止め」 を行なった際に、その時のお礼として武田家に塩を送ったとされる。
そもそも、海がない甲州と信濃を領地にする武田家にとって、「塩」はアキレス腱のようなものだった。そのため、太平洋岸を支配する北条・今川と「甲相駿三国同盟」を結び、塩の確保を図ってきた。
だが1560年(永禄3年)に「桶狭間の戦い」で今川家が敗れ、以降著しく衰退する様子を見た武田信玄は、「甲相駿三国同盟」を破棄して今川領の駿河に攻め込み、自領としてしまった。
これに怒った今川氏真は、塩を武田に売らないよう塩商人たちに指示した。それが世にいう「塩止め」だ。目論見が狂った武田家は駿河からの塩の供給を絶たれ、領民までが苦境にさらされようとしていた。
上杉家が支配する日本海からの輸送ルートは、「塩の道」と呼ばれる千国(ちくに)街道で、沿線沿いにある「塩の道ちょうじゃ」では、信濃の貴重な塩にまつわる展示が見られる。
ただし、この話がどこまで真実であるかはわからない。
上杉謙信は武勇で名を馳せた武将だが、「錬金術」においても優れた才能を発揮していた。
一説によると、謙信は病死するまでに2万7140両という莫大な財産を築き上げていたという。しかもそれは佐渡金山のお陰ではない。佐渡金山が上杉家の物となったのは景勝の代になってからだ。
当たり前だが、歴史はつながっている。
ひとつの出来事を見ただけでは、なかなか興味は湧いてこないと思うが、前後のつながりを含めて探ると、どんどん面白みは増してくる。
歴史が好きか嫌いかは、たぶん中学・高校の先生の教え方と深い関係がある。「その時代に生きる人の気持ちになればわかる」と語った、筆者の先生は素晴らしかった。
おかげで今では失効してしまっているが、筆者は「歴史の先生」の資格を持っている(笑)。